第4話 三回聞く
図書室は、三階の東の端にある。
東階段を上がりきって、右に折れて、突き当たり。あの階段を使わずに行こうとすると、校舎を半周しなければならない。だから俺はいつも東階段を使う。夜でなければ、あれはただの十二段だ。
放課後の図書室には、いつも四、五人しかいない。試験前だけ急に埋まって、終わると元に戻る。俺はその「元に戻った」時期の図書室が好きだった。
空調の音と、誰かがページをめくる音しかしない。
郷土資料の棚は、いちばん奥の窓際にある。市史、町史、地域の民俗調査報告書。誰も借りない本ばかりが並んでいて、背表紙の色が全部くすんでいる。埃を吸った紙の匂いが、この一角だけ濃い。
俺はその棚の前で、三冊目を抜いたところだった。
昼を抜いていた。
昨日から二日続けてだ。金が無いわけではない。ただ、購買に並ぶ時間で聞き取りが一件多くできる、と計算してしまう。
その計算が正しくないことは、腹の音で分かる。
「それ、あんまり面白くないですよ」
声がして、俺は本を落としかけた。
カウンターにいるはずの司書が、いつの間にか一つ隣の棚のところに立っていた。二十代の後半くらいだろうか。髪を後ろで一つに結んで、袖をまくっている。左手にブックトラックのハンドルを持ったままだった。名札には「宮杜」とあった。
足音が、まったく聞こえなかった。
「調査報告書は、行政の書式に合わせて書かれてるので。生の話が全部落ちてるんです」
「生の話」
「そう。『不安を訴える住民があった』って書いてあるけど、その人が何を見て、何時にどこにいたかは書いてない。書式に無いので」
彼女はブックトラックを押してカウンターへ戻り、下の引き出しから大学ノートを一冊出してきた。表紙に何も書かれていない、どこにでもあるノートだ。角が丸くなるまで使い込まれている。
「こっちのほうが面白い」
開いて見せられたページには、手書きの文字がびっしり詰まっていた。日付、場所、話し手の学年、そして本文。
「学校の怪談を、集めてるんですか」
「趣味です。十年くらい」
「十年」
「大学のときから。専門は民俗学だったので、その延長みたいなもので。就職して、たまたま学校の司書になったら、素材が向こうから歩いてくるんですよね」
俺はノートを覗き込んだ。
東階段の項目が、すぐに見つかった。ページの半分近くを使って、いくつもの証言が並んでいる。日付は、古いもので五年前だった。
◇
「柊くん、でしたっけ」
「はい」
「その棚の前に、二週間で四回立ってます」
俺は顔を上げた。
「数えてるんですか」
「司書ですから。誰が何の棚の前に立ったかは、だいたい覚えてます。——何を探してるんですか」
俺は少し考えて、正直に答えることにした。嘘をつく理由が思い当たらなかったし、この人は嘘をついても気づく気がした。
「噂の、共通する部分を」
「共通する部分」
「同じ話を何人から聞いても、必ず残るところがあるんです。そこだけが本物で、あとは全部、話す人が足したものだと思っていて」
宮杜さんはノートを閉じて、カウンターに肘をついた。
「続けて」
俺は少し迷った。
この二年、誰かに自分のやり方を説明したことは一度も無い。説明する相手がいなかったし、説明したところで信じられるとも思わなかった。
「一回目に聞いた話には、その人の脚色が乗ってます。だから、それだけだと何が本当か分からない。二回目を聞くと、脚色の乗り方が人によって違うことが分かります。怖がらせたい人は怖くする方向に足すし、笑い話にしたい人は逆に削る」
「うん」
「三回目で、全員が同じことを言っている部分だけが残ります」
「その残りかすが、本物」
「はい」
彼女はしばらく黙っていた。指先でカウンターの木目を一度なぞって、それから顔を上げた。
俺は自分が喋りすぎたことに気づいて、口を閉じた。
「柊くん」
「はい」
「それ、私が十年かけて辿り着いた方法と、ほとんど同じです」
彼女はノートの表紙を指で叩いた。
「私はこれを『三回法』って呼んでます。三回聞いて、残ったところだけをノートの右のページに書く。左は聞いたまま。右が芯」
俺は右のページを見た。
東階段の項目の右側には、たった三行だけ書かれていた。
夜。東階段。一人で登った者。
俺が七人から聞き取って絞ったのと、一字も違わなかった。
「あ、それ」
宮杜さんが横から覗き込んだ。
「そこ、書き直したんですよ。古い記録だと、別の字が当ててあって」
「別の字」
「ええ。読み方は同じなんですけど。私、新しいほうに揃えちゃったんです」
彼女はページの端を指で撫でた。
「よくあるんです。口で伝わるものなので、書き取る人が自分の知ってる字を当てる」
俺はその三行を、もう一度見た。
三行のうちの一行が、誰かの手で書き換えられている。
だが、意味は変わらないはずだ。読み方が同じなら、指しているものも同じだろう。
俺はそう考えて、そこで思考を止めた。
止めたことを、あとで何度も思い返すことになる。
しばらく、その三行を見ていた。
自分が二年かけて手探りで作った目盛りが、他人のノートの上に、同じ形で載っている。それは奇妙な気分だった。安心とも、悔しさとも違う。ただ、自分がやってきたことが、まったくの独りごとではなかったと分かった。
◇
「柊くんは、なんでそんなことをしてるんですか」
当然の質問だった。俺は答えを探した。
本当のことは言えない。名前を借りているとか、代償で誰かが俺を忘れるとか、そんなことを言えば、この人は俺を病院に連れて行くだろう。あるいは、信じてしまうかもしれない。どちらも困る。
「困ってる人がいたら、たまに」
「たまに、なんです?」
俺は窓のほうを見た。西日がグラウンドの端まで届いていて、野球部が声を出している。
「……条件を、一つ外します」
言ってから、しまったと思った。
だが宮杜さんは、驚かなかった。
「ああ」と言っただけだった。
その相槌の温度が、あまりに普通だったので、俺のほうが戸惑った。
「そういうやり方をする人、たまにいるんですよね。昔の記録にも出てきます。祓うんじゃなくて、成立しないようにする」
彼女はブックトラックの上の本を一冊持ち上げて、書架に戻しながら続けた。
「『祓う』は相手を否定するでしょう。出ていけ、消えろ、って。でも『外す』は違う。相手がいることを認めた上で、こっちが位置を変えるだけ」
「……はい」
「そのほうが、たぶん正しいと思ってます。あれは倒すものじゃなくて、噛み合ってしまうものなので。歯車と一緒で、噛み合わなければ回らない」
「……噛み合う」
「そう。だから条件が細かいんです」
彼女は一度手を止めて、書架の背表紙を指でたどった。
「『夜だけ』『一人だけ』『振り返ったら』。あれ、意地悪で細かくしてるんじゃないと思うんですよ。細かくしないと噛み合わないから、細かいだけで」
「……向こうにも、都合がある」
「都合っていうか、条件ですね。都合は変えられるけど、条件は変えられない。——そこが、人間と違うところ」
俺は自分の手を見た。
昨日、この手は三メートル先の襟を掴んだ。
あのとき俺が借りたものにも、条件があったはずだ。だが俺は、その条件を一度も調べていない。ただ名前を知っていて、呼べば来る、というだけで二年間使わずに持っていた。
自分が何を持っているのかを、俺は知らない。
俺は何も言えなかった。
二年かけて自分で見つけたことを、他人の口から、もっと綺麗な言葉で聞かされた。
悔しかったのではない。ただ、少しだけ、息がしやすくなった。
「あなた、記録に残らないタイプですね」
「え」
心臓が、一つ大きく打った。
「貸出履歴。二週間で四回立ってるのに、一冊も借りてない。閲覧だけ」
彼女は事務的な顔でそう言った。手はまだ本を並べている。
何も分かっていない人の顔だった。彼女はただ、貸出カードの話をしている。
だから俺は、心臓の音がうるさくなったことを、顔に出さずに済んだ。
「借りると、返さなきゃいけないので」
「それは、そうですね」
彼女は本を一冊、書架に押し込んだ。背表紙が揃う音がした。
「柊くん、お腹鳴ってますよ」
俺は動きを止めた。
「……気のせいです」
「三回鳴りました」
「数えないでください」
「数えるのがお好きなのかと」
俺は言い返せなかった。
彼女はカウンターの引き出しから、個包装のビスケットを一つ出して、こちらに滑らせた。
「非常食です。図書室は飲食禁止なので、廊下で食べてください」
「……はい」
「あと、司書がお菓子を配ってたって言わないでくださいね」
◇
閉館の時間が近づいて、俺は帰り支度をした。
窓の外は、まだ明るい。夏の終わりの空だった。
宮杜さんはカウンターの奥で、書架の整理を続けていた。足元から段ボール箱を一つ持ち上げて、カウンターの上に置く。
「柊くん、ちょっと」
呼ばれて、俺は戻った。
「これ、去年の春に前任の人が置いていったやつなんですけど」
箱の中には、ノートと紙束が乱雑に入っていた。ノートは彼女のものと同じ、表紙に何も書かれていない大学ノートだ。何冊あるのか、上から見ただけでは分からない。
「前任の人も、集めてたんです。私が来る前の分」
彼女は一冊を抜いて、俺に差し出した。
俺はそれを受け取った。表紙の紙が、湿気を吸って波打っている。
ページをめくる。同じ書式だった。左に聞いたまま、右に芯。字は宮杜さんのものより角ばっていて、少し読みにくい。筆圧が強くて、裏のページに跡が残っている。
二週間分。一か月分。同じ調子で、几帳面に続いている。
証言の下に、小さく数字が振ってあった。
「1」「2」「3」——同じ噂を、何人目から聞いたかの記録だ。三まで揃ったものだけ、右のページに芯が書かれている。二で止まっているものは、右が空白のまま置いてある。
俺と同じことを、この人もやっている。
いや、順番が逆だ。この人が先にやっていて、俺が後から同じ場所に辿り着いた。
中ほどのページで、俺の指が止まった。
左のページに、一つの証言が書かれていた。書きかけで、途中で切れている。右のページは、空白のままだ。
そのページの上の隅に、日付が振ってあった。
二年前の、四月十七日。
俺が最初に、名を借りた日だった。




