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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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第3話 一晩で

本日3話目になります。

明日以降は、第1部完結の28話まで、21:00の毎日投稿となります。

 朝の食卓に、茶碗が三つ並んでいた。


 いつもどおりだ。父の分、母の分、姉の分。俺は自分の分を戸棚から出して、席についた。陶器が卓に触れる音を、俺はもう気にしないようになっていた。慣れというのは、たいてい諦めの別名だ。


「悠、牛乳」


 姉が冷蔵庫の前から言った。


 振り向いたときには、もう次の動作に移っていた。冷蔵庫の扉を閉めて、卵のパックをシンクの横に置いて、それから俺のほうに手を出した。


 一拍が、無かった。


 俺は牛乳のパックを受け取って、卓に置いた。


 拍子抜けした、というのが正直なところだった。昨日の夜、俺はドアノブを握ったまま十分近く立っていた。確かめるのが怖かった。それが、朝になってみれば何も起きていない。


「なに、変な顔して」


「別に」


「変だよ。目が死んでる」


「もともとだ」


「もともとだけど、今日はもっと死んでる」


 姉は笑って、自分の椅子に座った。笑うまでの間に、迷いは一つも無かった。


 俺は味噌汁を一口飲んだ。熱すぎて、舌の奥が痺れた。


 姉は食べ終わると、自分の皿を流しに置いて、そのまま二階へ上がっていった。


 上で、椅子を引く音がした。


 それから、短い音が続いた。


 ペン先が紙を擦る音だった。短く、途切れて、また短く。


 朝から課題だろうか、と思った。


 思って、それきり忘れた。


 ——数十秒では、姉には届かなかったのかもしれない。


 目盛りを知らないと言ったのは、俺だ。だとしたら、こういうこともある。二年前の一度が大きすぎて、その後の小さいものが誤差に埋もれている。そう考えれば筋は通る。


 父が新聞を畳んで立ち上がった。母は洗い物をしていて、どちらも顔を上げなかった。


 俺は少しだけ、息を吐いた。


 その息が、自分でも意外なほど長かった。


   ◇


 教室に着いたのは、始業の十五分前だった。


 みなもは既に来ていて、窓際の自分の席で友達と喋っていた。何かがおかしかったらしく、二人で肩を揺らして笑っている。


 俺が入口から入ったとき、彼女はちょうどこちらを向いた。


 目が合った。


 俺は軽く手を上げようとして——上げきる前に、彼女の表情が止まった。


 三日前まで、彼女は俺を見つけると必ず何か言った。「おはよ」でも「柊くん、次移動教室」でもいい。何かしら、俺という人間に向けた言葉が出てきた。


 今、彼女は俺を見ていた。


 見ていたが、そこで止まっていた。


 笑いの形が顔に残ったまま、その下だけが抜けている。


「……ごめん」


 彼女が言った。俺は手を下ろした。


「えっと、」


 まばたきが二回。焦点が、俺の顔の上で一度ずれて——


「誰だっけ」


 教室の音が、遠くなった。


 朝の教室というのは、うるさい場所だ。誰かが誰かを呼ぶ。椅子の脚が鳴り、鞄のファスナーが開く。廊下では上履きが鳴っている。その全部が、急に薄い膜の向こうへ移った。


 三秒。


 俺は数えていた。数えるつもりはなかったのに、数えていた。


 二年間で身についた癖だ。姉が俺を思い出すまでの時間を、俺はいつも数えている。数えたところで何も変わらないのに、数えずにはいられない。


 三秒後、彼女の顔に色が戻った。


「あ、柊くん。ごめん、なんか一瞬わかんなくなった」


 彼女は笑って、頭を掻いた。


「寝不足かも。最近ちょっと変な夢見るんだよね」


「そうか」


「うん。……あれ? 私、今なんで謝ったんだっけ」


「知らない」


「変なの」


 彼女は友達との会話に戻った。


 俺は自分の席に着いて、鞄を机の横のフックにかけた。かけたつもりで、床に落ちた。


 距離を測り間違えたわけではない。腕はもう戻っている。ただ、指が開いていた。


 中身が半分こぼれた。プリントと、昨日食べなかった弁当と、筆箱。


 拾っていると、後ろの席の大友蓮がしゃがんで、筆箱を寄越してきた。


「柊、寝てないだろ」


「寝てる」


「目の下すごいぞ」


「そうか」


「そうかじゃねえよ。一時間目、数学だぞ」


 プリントのことを、俺は思い出した。


 半分しか埋まっていないまま、鞄に入れてある。


 俺は鞄を拾って、もう一度かけた。今度はかかった。


   ◇


 一時間目が終わってから、俺は教室を出た。


 行き先は決めていなかった。ただ、あの教室にいると、彼女の後頭部が視界の隅に入る。それが耐えられなかった。


 東階段の踊り場で、俺は壁にもたれて座り込んだ。窓から入る光が、埃を浮かせている。


 考えを、順番に並べる。


 一つ。俺は昨日、数十秒だけ名を借りた。


 二つ。今朝、姉は普通だった。一拍は無かった。


 三つ。芹沢みなもは、俺を三秒思い出せなかった。


 ——順番が、違う。


 俺の知っている理では、削られるのは「近い順」だ。家族から順に。次に友人、それから顔見知り。二年前に姉が削られたのは、姉が一番近かったからだ。父と母がその次に来て、今も少しずつ薄くなっている。母が俺の弁当を作らなくなったのは、去年の春だ。忘れたわけではない。ただ、優先順位から静かに外れた。


 だから今回も、姉が削られるはずだった。


 芹沢みなもは——四日前まで、話したことがあるようなないような相手だった。


 俺は膝の上で手を組んで、指を数えた。何を数えているのか自分でも分からなかったが、数えていないと考えがまとまらなかった。


 近い、とは何だ。


 血が繋がっていること。一緒に住んでいること。付き合いが長いこと。俺はずっと、そういうものだと思っていた。理の側が勝手に決めるものだと思っていた。


 だが、二年前から今日までの間に、俺は姉のことをどう思っていた。


 朝、茶碗が三つしかないのを見る。声をかける。一拍待つ。それから「ああ、悠」と言われる。俺はその一拍を数えて、まだ一拍で済んでいると確認して、それで終わりにしていた。


 姉のことを、俺は毎日「確認」していた。


 思っていた、のとは違う。


 じゃあこの四日間、俺は誰のことを考えていた。


 下駄箱で「おはよ」と言われた。廊下で「次移動教室だよ」と言われた。昼休みに「あの階段、まだ十二段だった」と報告された。


 そのたびに、俺は返す言葉を探して、うまく探せなくて、後から何度もそれを思い出していた。


 「ああ」が短すぎたと、一時間目の途中まで考えていた。


 机に置かれて、また持っていかれたパンの袋を、放課後まで覚えていた。


 名前を呼ばれた回数を、数えていた。


 俺は膝に額をつけた。


 近さというのは、そういうことか。


 血でも、年数でもない。俺がどれだけその人のことを考えているか。俺の側の、距離。


 だとしたら。


 四日前まで圏外にいた人間が、四日で一番上に来ることがある。


 ——俺が、そこへ引き上げたからだ。


 そこまで考えて、俺はもう一つのことに気づいた。


 順番が入れ替わったということは、姉のほうは下がったということだ。


 二年間ずっと一番上にいた姉が、今は二番目にいる。だから今回、姉は削られなかった。今朝の「悠、牛乳」に一拍が無かったのは、たまたまでも誤差でもない。


 俺が芹沢みなものことを考えた分だけ、姉が守られた。


 俺は自分の膝を見た。


 これは、笑うところなのだろうか。


 二年間、俺は姉を削らないために人と関わらないようにしてきた。関わらなければ、姉が一番上にいるままで、姉が削られ続ける。皮肉でも何でもなく、俺のやり方は最初から間違っていた。


 誰かを大事にすれば、その誰かが削られる。


 誰も大事にしなければ、一番近い人が削られ続ける。


 どちらにも、逃げ場が無い。


 階段の下で、誰かが誰かの名前を呼んだ。呼ばれた側が返事をして、二人分の足音が遠ざかっていった。


 俺はしばらく、その音がした方向を見ていた。


   ◇


 昼休み、みなもが俺の机の横に来た。


「柊くん」


 名前を呼ばれた。今度は一拍も無かった。


「今朝さ、なんかごめんね。ほんと寝不足で」


「気にしてない」


「気にしてよ。人の名前忘れるって最低じゃん」


 彼女は自分で言って、自分で少し笑った。


 俺は笑えなかった。


「柊くん、顔色悪くない?」


「そうか」


「そうだよ。朝からずっと。保健室行く?」


「行かない」


「じゃあこれ食べて」


 彼女は購買の袋から菓子パンを一つ出して、俺の机に置いた。今度は取り上げなかった。


 俺はそれを見下ろした。


 安いクリームパンだった。袋の端が少し潰れている。鞄の中で他のものに押されていたのだろう。


 自分の分を買って、そのうち一つを俺にやろうと決めたのは、いつだ。


 購買に並んでいるときか。列に並びながら「柊くん顔色悪かったな」と思ったのか。それとも、教室を出るときにはもう決めていたのか。


 どちらでもいい。どちらでも、同じことだ。


 この人は、俺のことを考えている時間がある。


 この人は、俺のことを覚えていてくれる。二年ぶりに現れた、そういう人だ。


 そして、そういう人だから——次に俺が名を借りたとき、最初に削られるのは、この人だ。


 俺が近づけば近づくほど、この人が危なくなる。


 思い込みではなかった。


 昨日までは、ただの言い訳だった。人と関わらない理由として、都合よく使っていただけだった。言い訳だと自分で分かっていたから、みなもが話しかけてくるのを、どこかで嬉しく思っていた。


 今は、目盛りが見えている。


「柊くん?」


「……ありがとう」


 声が掠れた。掠れたことに、自分で驚いた。


「なんで泣きそうな声出してんの」


「出してない」


「出してたよ。パンで泣く人いる?」


「泣いてない」


「はいはい」


 彼女は「どういたしまして」と言って、自分の席に戻っていった。


 戻る途中で一度だけ振り返って、俺がまだパンを見ているのを確認して、それから笑った。


 俺は菓子パンの袋を、しばらく開けられなかった。


 開ければ食べることになる。食べれば、明日も何か渡されるかもしれない。渡されれば、俺はまたそれを放課後まで覚えている。


 そうやって、この人は上がってきた。


 袋の端を、指で二度なぞった。


 覚えていてくれる人ができた。


 だから、その人から消えていく。

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