第2話 後ろの正面
本日2話目です。
本日は21:00にも更新予定です。
芹沢みなもは、それから毎日、俺に話しかけてくるようになった。
一日目は、下駄箱で「おはよ」だけだった。
俺は上履きを持ったまま、一秒遅れて「ああ」と返した。彼女はもうそのとき背中を向けていて、俺の返事を聞いたのか聞いていないのか分からなかった。俺はその「ああ」が短すぎたことを、一時間目の途中まで考えていた。
二日目は、廊下ですれ違いざまだった。
「柊くん、次移動教室だよ」
言われて時計を見たら、確かに移動教室の時間だった。俺は教科書を取りに教室へ戻った。戻りながら、この二年で俺に移動教室を教えてくれた人間が何人いたかを数えた。数えるまでもなかった。
三日目は、昼休みだった。
彼女は俺の机の横に立って、購買のパンの袋を親指で裂きながら言った。
「あの階段、まだ十二段だった」
「数えたのか」
「数えるでしょ、あんなことがあったら」
俺は答えに詰まった。
嬉しい、と一瞬思った。
思ってから、その感情が自分のものであることに驚いた。二年間、こういう種類の温度を感じたことが無かった。
こういうとき、どういう顔をすればいいのかが分からない。二年もかけて、俺は人と話す機会を減らす方向にばかり上手くなった。誰かに近づけば近づくほどその人が危なくなる——そう思い込んでいたわけではない。ただ、名前を呼ばれない生活に慣れると、呼ばれたときの返し方を忘れる。
窓の外でホイッスルが鳴った。昼休みのグラウンドで誰かがサッカーをしている。その音が、教室の中の音とは別の層で聞こえた。
「柊くんって、いつもそうやって黙るよね」
「そうか」
「そう。でも、嫌な黙り方じゃないから別にいいけど」
「……嫌な黙り方って何だ」
「うわ、そこ気にするんだ」
彼女は少し笑った。
「あるじゃん。早く終われって思ってる黙り方。柊くんのは、なんか、考えてる黙り方」
「考えてはいる」
「知ってる」
何を知っているんだ、と思った。思ったが、聞かなかった。
聞けば、また黙ることになる。
彼女はパンの袋を丸めて、俺の机の端に乗せた。それから思い出したように取り上げて、自分のポケットに入れた。
その一連の動作を、俺は目で追っていた。
机に何かが置かれて、また持っていかれる。それだけのことだった。それだけのことを、俺は放課後まで覚えていた。
◇
三日目の夕方だった。
部活のない日で、下校時刻がまだ先だったから、廊下はほとんど空だった。俺とみなもは並んで昇降口へ向かっていた。特に用事があって並んでいたわけではない。帰る方向が同じだっただけだ。
渡り廊下は、本校舎と特別棟をつなぐ短い直線で、両側が全面窓になっている。西日が入る時間だった。床のタイルに、窓枠の影が等間隔の縞を作っている。
俺たちはその縞を、一つずつ踏んで歩いていた。
六本目を踏んだところで、俺は足を止めた。
音の返り方が、違った。
東階段の下で感じたのと同じ種類の違和感だ。壁が近くなったような、天井が低くなったような。廊下はまっすぐで、両側は窓で、どこにも音を跳ね返すものが無いのに、自分の上履きの音だけがすぐ手前で返ってくる。
背中の側の空気が、密度を変えていた。
「柊くん?」
みなもが半歩先で立ち止まって、振り返りかけて——
「——振り返るな!」
声が出た。
出したときには、もう間に合わないと分かっていた。
俺の声が空気を渡って彼女の耳に届くまでの時間と、彼女の首が回りきるまでの時間を、俺は反射的に比べていた。比べるまでもなかった。彼女の首は、もう三分の一回っていた。髪の先が、遅れて肩の上を滑っている。
噂を三回聞いて理を絞る、という手順が使える怪異ではない。
こいつには、そもそも猶予が無い。
背後に立たれる。振り返る。それで終わる。条件が三つとも、一秒の中に畳み込まれている。数える時間が無い。調べる時間が無い。だから俺は、こいつの噂を何度か耳にしていたのに、ずっと後回しにしていた。手の出しようがない相手を、無いことにしていた。
——後ろの正面。
背後に立たれたときに振り返った者は、次の誰かの「後ろ」になる。
みなもの視線が、肩越しに動いていく。西日を横切って、まつげが一度、光を弾いた。
俺の喉に、名前が上がってきた。
二年前に一度だけ借りた、あの怪異の名。腕の届く距離を書き換えるやつだ。
東階段のときは、飲み込めた。三秒の値段を数えて、姉の一拍を思い浮かべて、飲み込んだ。喉が焼けたように痛んで、それでも飲み込めた。
今回は、数えられなかった。
数えるという行為そのものに、時間がかかる。
その時間が、無い。
俺は息を吸って、吐いた。
音の形が、舌の上で解けた。
◇
肩が、外れたような感覚がした。
痛みではない。長さの感覚が壊れる。自分の腕がどこで終わっているのかが分からなくなる。指先は視界の中にある。見えているのに、そこまでの距離が測れない。
目で見た距離と、身体が知っている距離が、噛み合わなくなる。
俺は右手を伸ばした。
三メートル先にいたみなもの制服の襟を、そのまま掴んだ。腕を伸ばした自覚はある。だが伸びたという感覚は無い。ただ、届いた。手のひらの中に、洗剤の匂いのする布の感触が来た。
引く。
彼女の体が背中から俺のほうへ倒れてきて、俺は左手でその肩を受けた。首の回転が、途中で止まった。
みなもの視線は、渡り廊下の壁のあたりで止まっていた。
背後には——何もいなかった。
いや、いなかったのではない。振り返らなかったから、成立しなかった。
空気の密度が戻った。音の返り方が、元に戻った。西日の縞が、床の上でまた素直に伸びた。
「え、あ、え?」
みなもが俺の腕の中でもがいた。俺は慌てて手を離した。離した勢いで、彼女が半歩よろけた。
顔が熱かった。
抱きとめる形になっていたことに、離してから気づいた。気づいてから、余計に熱くなった。
「ごめん」
「い、いや、それはいいんだけど。えっ、なに、今」
彼女の声も、少し上ずっていた。
俺は目を合わせられなかった。合わせられないことが、自分でも情けなかった。
彼女は自分の肩を押さえて、それから廊下の後ろを見た。
誰もいない。夕方の渡り廊下があるだけだ。西日が窓ガラスを通って、床に長い四角を作っている。
「なんか、変な感じしなかった?」
「した」
「したよね。私、後ろ見ようとして——」
彼女はそこで言葉を切った。自分が何をしようとしていたのかを、思い出そうとしている顔だった。
思い出そうとして、輪郭に触れて、中身に届かない。そういう顔だ。
俺は答えなかった。
右手を、開いて、閉じた。
指の関節が動く感覚は、確かにある。だがその指と自分の目の距離を、まだ測れない。
「柊くん、手」
「なんでもない」
「震えてるけど」
「寒いんだ」
「それ、この前も言ってた」
覚えられていた。
九月の夕方だった。彼女は何も言わずに、俺の顔をしばらく見ていた。
「柊くんってさ」
「なんだ」
「嘘つくとき、いつも寒いって言うでしょ」
「……そんなことはない」
「二回目だよ」
数えられている、と思った。
数えるのは俺の仕事だったはずだ。
◇
その夜、俺は自分の部屋で右手を眺めていた。
机の端から壁まで、目測で一メートル二十センチ。座ったまま手を伸ばす。届かない。当たり前だ。
もう一度。届かない。
三回目で、指先が壁紙に触れた。
俺は手を引っ込めて、しばらく動かなかった。
借りている間、その怪異の性質が身体に出る。それは知っていた。二年前に一度、経験している。あのときは半日で戻った。朝に借りて、夕方には元の腕に戻っていた。
今回は、数十秒しか借りていない。
なのに、六時間が経っても、まだ完全には戻っていない。
俺は机の上のシャーペンを取ろうとして、手前で指を閉じた。空を掴んだ。
もう一度。今度は行き過ぎて、シャーペンを弾いて転がした。
三回目で、ようやく正しい距離で指が閉じた。
——長く借りるほど、戻りが遅い。
だとしたら、これは。
考えかけて、やめた。
考えるべきことは、それではない。
机の隅に、明日提出の数学のプリントが伏せてあった。
半分も埋まっていない。
俺はそれを一度手に取って、また伏せた。今日は無理だ、と分かっていた。分かっているのに、伏せるときに少しだけ罪悪感があった。
二年前は、こういうものを溜めない人間だった。
俺はシャーペンを机に戻して、右手を膝の上に置いた。それから天井を見た。蛍光灯の周りに、去年の夏に入った虫の影がまだ残っている。
削られたのは、俺の記憶ではない。俺を覚えている誰かの、俺についての記憶だ。しかも、近い順に。
数十秒。
二年前の「大きく一度」に比べれば、比較にならないほど小さい。数秒なら、一瞬名前が出てこない程度で済む。数十秒なら——分からない。目盛りを知らない。
二年間、俺はこの目盛りを知らないまま生きてきた。姉の一拍が、いつどれだけ伸びたのかを、正確に測ったことは一度も無い。測る道具が無かった。
俺は机の引き出しを開けた。
中には、ノートが一冊入っている。二年前から使っているもので、表紙には何も書いていない。開くと、日付と、その日の姉の一拍が書いてある。
四月十七日。——ここから始まっている。
最初の一週間は、毎日書いていた。次の月からは、週に二、三回になった。去年の途中から、月に一度も書かない月が出てきた。
書かなくなったのは、忘れたからではない。
毎日書いていると、変化が見えないからだ。一拍は一拍のままで、数字は動かない。動かない数字を書き続けるのは、思っていたより辛い作業だった。
俺は最後のページを開いて、今日の日付を書いた。
その横に、何を書けばいいのか分からなかった。
姉の一拍は、今朝も一拍だった。まだ確かめていないが、たぶん変わっていない。だが今日、俺は名を借りた。借りたのに、数字が動いていないはずがない。
どこかで、動いている。
俺はペンを置いて、ノートを閉じた。
階下で、玄関の開く音がした。姉が帰ってきた音だ。
鍵をかける音。靴を揃える音。リビングの扉が開く音。
俺は椅子から立ち上がって、部屋の扉に手をかけて、そこで止まった。
確かめに行くのが怖い、というのとは少し違う。
確かめれば、答えが出る。答えが出れば、それは変えられなくなる。
俺はしばらくドアノブを握ったまま立っていた。
怖かった。
二年間、俺はこの恐怖に名前を付けずにきた。付けてしまうと、認めることになるからだ。
手のひらの中で、金属の丸みが正しい距離にあることだけが、妙にはっきりと分かった。




