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力を使うたび、誰かが俺を忘れていく —— だから怪異は、殴らずに外す  作者: 八夜巡


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第1話 十三段

初投稿です。楽しんでいただけたら幸いです。

本日は3話投稿します。12:30、21:00予定です。

また、第1部は28話予定で、28話まで毎日投稿する予定です。

 姉が、俺の茶碗を戸棚に戻した。


 迷いのない手つきだった。三つ並べたところで数が合ったから、四つ目を棚に返した。ただそれだけの動作で、朝の光の中では何ひとつ不自然に見えない。


 四人家族なのに、食卓に並んでいるのは三つだけだ。父の分、母の分、姉の分。


「姉ちゃん」


 声をかけると、灯里は振り返って、ほんの一拍だけ止まった。


 その一拍の間に、彼女の目が二回まばたきをする。焦点が俺の顔の上で一度ずれて、それから戻ってくる。俺はもう、その動きを見分けられるようになっていた。


「ああ、悠。おはよう」


 思い出した、のではない。今この瞬間に、俺という人間を新しく認識し直しただけだ。


 二年前まで、姉が俺の名前を呼ぶのに一秒もかからなかった。廊下の足音だけで「悠、牛乳出して」と言うような人だった。


 戸棚から自分の茶碗を出して、俺は黙って席についた。陶器が卓に触れる音が、思ったより大きく響いた。


 父は新聞を畳んでいて、母は洗い物をしていて、どちらも顔を上げなかった。


   ◇


 昼休み、教室の後ろで女子が三人、声をひそめていた。


 窓が開いていて、グラウンドの声が遠く聞こえている。俺は自分の席で、弁当箱の蓋を開けたまま、箸を持たずにいた。


「東階段、夜になると十三段あるんだって」


「うそ。十二段でしょ」


「だから夜だけ。で、十三段目を踏むと——」


 そこで一人が言葉を切って、両手を広げてみせた。芝居がかった間の取り方だった。


「消えるの。名前が」


「名前?」


「その人のこと、誰も思い出せなくなるんだって」


 俺は筆箱の中でシャーペンを二度、握り直した。


 噂は歪む。伝わるうちに、尾ひれがつき、都合よく怖くなる。話す側は怖がらせたいし、聞く側も怖がりたいからだ。だが芯のところには、たいてい本物が残っている。歪むのは外側だけで、中心はそう簡単に動かない。


 ——名前が消える。誰も思い出せなくなる。


 それは俺が二年かけて、身をもって覚えたものと同じ形をしていた。


 弁当の蓋を閉じた。結局、一口も食べなかった。


   ◇


 放課後、俺は東階段の前に立っていた。


 西日が踊り場の窓から差し込んで、段の縁に細い影を落としている。埃が光の筋の中でゆっくり回っていた。


 一段目から数える。十二。


 もう一度、下から数える。十二。


 何度数えても十二だった。日はまだ高い。


 三回聞けば、形が見えてくる。


 俺は放課後をまるごと使って、七人から聞いた。


 最初の一人には、失敗した。


 いきなり「東階段の話を知ってるか」と聞いたら、相手が半歩下がった。当たり前だ。ろくに喋ったこともない同級生に、真顔でそれを聞かれたら誰でも引く。


 二人目からは、まず自分の名前を言うことにした。三人目で、雑談を一つ挟んでから入ることを覚えた。


 こういうことが、俺は下手になった。


 二年前は、たぶん普通にできていた。


 部活へ向かう途中の三年、掃除当番の一年、購買のパンをかじっていた同級生。誰も嫌がらずに話してくれた。怪談というのは、人に話したくてたまらない種類の情報だからだ。


 消えるのが「命」だという者がいた。「魂」だという者がいた。「制服」だと言った奴もいた。そこはばらけた。ばらけた部分は捨てる。それは語り手が足したものだ。


 ばらけなかったのは三つ。


 夜であること。東階段であること。そして——


「一人で登った人だけ、だって」


 背中から声がして、俺は振り返った。芹沢みなもが立っていた。同じクラスの、話したことがあるようなないような相手だ。


 鞄を肩にかけたまま、片手で肩紐を握っている。帰るところだったのだろうに、足は俺のほうを向いていた。


「柊くん、でしょ。ずっと階段見てるから」


 名前を呼ばれて、俺はわずかに息を止めた。


 覚えられている。それだけで、心臓が一つ余計に打つ。二年もこうしていると、名前を呼ばれることが当たり前ではなくなる。


 顔に出ていないか、と思った。思った時点で、たぶん出ている。


「……なんで名前」


「同じクラスだけど」


「そうだったか」


「そうだよ。四月からずっと」


 彼女は少し呆れた顔をした。


「柊くん、席の後ろの人の名前とか言える?」


「……大友」


「合ってる。じゃあ大丈夫だね、何が大丈夫か分かんないけど」


 俺は返す言葉を探して、見つからなかった。


「芹沢。何か知ってるのか」


「うち、二年の子が一人、いなくなってるの」


 彼女は階段を見上げた。西日が顎の線を照らして、その先に影を作っていた。


「いなくなった、っていうか。誰も名前を思い出せないの。写真は残ってるんだよ。名簿にも載ってる。でも、みんな『誰これ』って言うの。私も」


 俺は黙って聞いた。


 言葉を挟まないほうが、人はよく喋る。それも二年で覚えたことのひとつだった。


「ねえ、変じゃない? 私、その子と仲良かったはずなんだよ。それだけは覚えてるの。仲良かった『はず』っていうことだけ」


 彼女は自分の言葉に納得がいかないという顔で、少し笑った。笑い方が、うまくいっていなかった。


 その感覚を、俺は知っている。


 残るのは輪郭だけだ。中身が抜けたあとの、形だけが残る。器の縁をなぞることはできるのに、中に何が入っていたか思い出せない。


   ◇


 夜、九時。


 校門の錠は古くて、押しながら引けば外れる。そういうことばかり上手くなった二年だった。


 昇降口の脇を抜けて、廊下に入る。非常口の緑の灯りだけが点いていて、床のワックスがそれを鈍く返していた。自分の上履きの音が、思ったより遠くまで届く。


 腹が鳴った。


 弁当を食べなかったせいだ。昼に蓋を閉じて、そのまま鞄に入れっぱなしにしてある。今ごろ中身は冷え切っているだろう。


 こんなときに腹が減るのか、と思った。


 東階段の下に立つと、空気が違っていた。


 温度ではない。湿度でもない。強いて言えば、音の返り方が違う。壁が近くなったような、天井が低くなったような、そういう種類の違和感だった。


 段が、増えている。


 数えるまでもなかった。一段目の位置がわずかに下がって、十二段だったものは十三段になっている。踊り場の手前に、あるはずのない一段が挟まっていた。


 そして、その階段を、誰かが登っていた。


 女子生徒だ。制服のリボンの色で二年だと分かる。足取りに迷いがない。眠っているように、まっすぐ登っていく。手すりには触れていない。


 九段目。十段目。


「——おい!」


 声は届かない。届いていないのではなく、届く先がない。彼女はもう、この階段の理の内側にいる。


 十一段目。


 俺は喉の奥で、名を思い浮かべた。


 二年前に一度だけ借りた、あの怪異の名。腕の届く距離を書き換えるやつだ。あれなら階段の下から手を伸ばすだけで、彼女の襟を掴んで引きずり下ろせる。


 三秒。三秒あれば足りる。


 喉まで来ていた。舌の上に、音の形が乗っていた。あとは息を吐くだけでいい。


 俺はその三秒の値段を数えた。


 削られるのは俺の記憶ではない。俺を覚えている誰かの、俺についての記憶だ。しかも、近い順に。


 朝の食卓が浮かんだ。姉が一拍止まって、それから思い出したように笑う、あの顔が。二回のまばたき。ずれて、戻る焦点。


 あの一拍は、まだ一拍で済んでいる。


 三秒払えば、二拍になるかもしれない。三拍になるかもしれない。ある朝、笑わなくなるかもしれない。俺の茶碗が、戸棚から出てこなくなるかもしれない。


 俺は名を飲み込んだ。


 喉が焼けたように痛んだ。言わなかった音が、そのまま内側に落ちていく感じがした。


 代わりに、条件を数え直した。


 夜。東階段。——一人で登った人だけ。


 十二段目。


 俺は走った。


 階段の下から、彼女の背中を追って、同じ段を、同じ速さで。


 追い抜こうとしたのではない。並ぼうとしたのでもない。


 ただ、同じ階段を、同じ夜に、二人で登っている状態を作った。


 三段目。五段目。上履きの底が段を叩く音が、二つ重なって聞こえる。


 十三段目に彼女の足が乗る、その半歩手前で——


 段が、消えた。


 増えていた一段が、最初からなかったもののように畳まれ、彼女の足は十二段目を踏んで、そのまま踊り場に着いた。


 空気が戻る。音の返り方が、元に戻る。


 芹沢みなもが、振り返った。


「……え。あれ。私、なんで」


 彼女は自分の足元を見て、それから俺を見た。上履きのつま先を、確かめるように一度動かした。


「柊くん?」


「登ってた」


「登って……なんで私、こんなとこに」


 膝が抜けたように、彼女はその場に座り込んだ。スカートの裾が踊り場の床に広がった。


 俺は少し離れたところで、階段を数え直した。


 十二。


 もう一度。十二。


 理は、外れた。壊してはいない。条件を一つ、満たさなくしただけだ。


 一人で登った者。彼女は、一人ではなくなった。


 こういうのを、俺は二年かけて覚えた。


 怪異は化け物ではない。もっと融通の利かない、規則そのものだ。夜に来いと決めたら昼には来ないし、一人と決めたら二人は数えない。強いのではなく、譲らないだけだ。譲らないから怖いのであって、賢いから怖いのではない。


 だから殴っても意味がない。譲らないものは、外側から条件を変えるしかない。


「……何したの、いま」


 芹沢が座ったまま俺を見上げた。息が上がっている。俺の息も上がっていた。


「何もしてない」


 嘘ではなかった。俺は本当に、何もしていない。ただ同じ段を、同じ夜に登っただけだ。


「じゃあ、なんで助かったの」


 俺は答えを探して、いくつか候補を並べて、結局、いちばん短いものを選んだ。


「一人じゃなくなったから」


 彼女はしばらく俺を見ていた。それから、小さく息を吐いた。


   ◇


 翌朝、下駄箱で芹沢に呼び止められた。


「柊くん。昨日はありがと」


 俺は靴を持ったまま、しばらく動けなかった。上履きの片方が、手から滑りかけた。


「……覚えてるのか」


「覚えてるよ。当たり前でしょ」


 当たり前ではない。


 俺にとっては、二年ぶりのことだった。


 耳の後ろが、少し熱くなった。


「柊くん、顔赤くない?」


「寒いんだ」


「九月だよ」


 彼女は不思議そうな顔をして、それから「変な人」と言って先に行った。


 俺は自分の耳を触った。確かに熱かった。


 寒い、というのは我ながら下手な言い訳だった。


   ◇


 家に帰ると、玄関に姉の靴があった。


 揃えて脱いである。姉はいつもそうだ。二年前からずっとそうだった。


 リビングを覗くと、灯里はソファでスマホを見ていて、俺の足音に顔を上げた。


「おかえり」


 一拍が、なかった。


 俺は「ただいま」と言って、洗面所に入り、蛇口をひねって、しばらく水の音を聞いていた。


 鏡の中の自分が、少し息を止めているのが分かった。


 まだ間に合う。


 まだ、姉は俺を覚えている。


 俺が欲しいものは、たぶん一つしかない。


 朝、名前を呼ばれること。呼ぶまでに一拍かからないこと。それだけだ。


 二年前まで、当たり前にあった。当たり前だったから、欲しいと思ったことも無かった。


 今は、それが一番遠い。


 力を使えば、たいていのことは片がつく。だが使うたびに、その一つから遠ざかる。


 ——だから次も、名は借りない。


 そう決めた三日後に、俺は名を借りることになる。

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