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第九話 食堂の危機

 昼休み、社員食堂の隅で、中村悟が、湯気の立つラーメンを啜りながら、唐突にこんなことを言った。

「そういえばお前、昔ちょっと料理の道目指してたって、本当か?」

 哲也は、箸を止めた。

「誰がそんなこと言ってた」

「総務の誰かが、昔そんな噂を聞いたとかって。お前、若い頃にどこか海外に修行に行ってたんだろ」


 中村は、同期入社で、別部署ながら長年の付き合いがある男だった。

 深く考えて聞いているわけではないことは、声の軽さから分かった。

 それでも、哲也の胸の奥が、小さく強張った。

 二十六年前のあの夜のことを、この男はもちろん何も知らない。

 それでも、核心からほんの少し外れた場所を、無邪気に突かれるだけで、こんなに動揺してしまう自分が、哲也は少し滑稽に思えた。


「……大した話じゃないよ。若気の至りってやつだ」

 哲也は、そう言って、うまく笑ってみせた。

 中村は、それ以上は突っ込まず、話題を別のことに移した。


 会話はそれで終わったが、哲也の中には、小さな違和感だけが残った。

 誰かに、少しでも近づかれることへの警戒心が、まだこんなに強く残っていることに、自分でも驚いていた。


 その帰り道、哲也は、いつものように「ますや」に足を向けた。

 路地の角を曲がると、すぐに違和感に気づいた。

 赤い提灯が、消えている。

 引き戸の前には、見慣れたシャッターが、固く下りていた。

 哲也は、しばらくその場に立ち尽くした。

 臨時休業の貼り紙すら、出ていない。

 何が起きたのか分からないまま、何度かシャッターを軽く叩いてみたが、応答はなかった。

 携帯電話の番号も、聞いていない。

 連絡を取る手段が何もないことに、今になって気づいた。

 ただの常連客でしかなかった自分の立場を、その夜は、いやというほど思い知らされた。


 翌日、仕事の合間に時間を作って、もう一度様子を見に行った。

 シャッターは、やはり閉まっている。

 だが、店の脇にある小さな通用口から、灯りが漏れているのに気づいた。

 声をかけると、しばらくして、お増が顔を出した。

 いつもと違い、片手を壁につき、もう片方の手で、腰のあたりを庇うようにしていた。

 いつも背筋をぴんと伸ばして厨房に立っていた女将が、こんなにも小さく見えることに、哲也は驚いた。

 あの庇うような癖が、今は隠しようもないほど、はっきりと表に出ていた。

 通用口の奥に見える厨房は、いつもの煮込み料理の匂いも、湯気も、何もなかった。

 ただ静まりかえった鍋とまな板だけが、所在なさげに置かれている。

 その光景が、哲也の胸に、思った以上に重く響いた。


「腰、やったんだよ。大した話じゃない」

 そう言いながらも、立ち上がろうとした拍子に、お増の顔が、一瞬大きく歪んだ。

 お増は、そう言って、軽く笑ってみせた。

 だが、その笑い方には、いつもの勢いがなかった。


 話を聞くと、数日前、店の片付けをしている最中に、腰に強い痛みが走り、それ以来、立っていることすら難しくなっているという。

 医者には、しばらく安静にするよう言われていた。

「もう何年も、誰の手も借りずにやってきたからね。こうなって、初めて分かることもあるもんだ」

 お増は、自分を笑うように、そう付け加えた。

「無理しなくても、もう少し休めば、また厨房に立てるようになるんじゃないですか」

 哲也は、つい、そう口にしていた。

 お増は、それを聞いて、小さく笑った。

「あんたは、まだそんな簡単に考えてるのか。この歳になると、休んで治るものと、休んでも治らないものの違いが、嫌でも分かるようになるんだよ」

「年が年だからね。こういう時が来るのは、分かってたんだけど」

 お増は、そう言って、また小さく笑った。

 哲也は、何と言葉をかけていいか分からず、ただその場に立っていた。


 この三ヶ月の間に、ここで何度、温かい飯を食べさせてもらったか分からない。

 包丁を握って震えた日も、血の滲んだ指を布巾で押さえてもらった日も、すべてこの小さな厨房で起きたことだった。

 この数ヶ月、哲也にとって「ますや」は、ただの食堂ではなくなっていた。

 誰にも見せられない自分を、唯一、見せることができる場所だった。

 それを失うかもしれないという可能性が、急に重みを持って迫ってきた。


「店は、しばらく休むことになる。いや――」

 お増は、少し言葉を切ってから、続けた。

「このまま、畳むことになるかもしれないね」

 哲也は、自分でも驚くほど強く、その言葉に反応した。

「畳むって、そんな……」

 お増は、その反応を、少し意外そうな顔で見ていた。

「あんた、そんなに驚くことかい」

「俺は……」

 言葉が、続かなかった。

 なぜこんなに動揺しているのか、哲也自身、うまく説明できなかった。


「ずっと一人でやってきたんだ。腰がこんな調子じゃ、もう厨房には立てないよ。それに」

 お増は、ふっと視線を、店の奥に向けた。

「継ぐ人もいないしね」

 その一言は、ひどく軽く、ひどく重く、哲也の耳に残った。


 継ぐ人がいない、というのは、単に従業員がいないという意味だろうか。

 それとも、もっと別の、家族のような誰かを指しているのだろうか。

 哲也には、判断がつかなかった。

 お増の口から、家族の話を聞いたことは、これまで一度もなかった。

 棚の隅にあった、あの古い写真立てのことを、哲也はふと思い出した。

 色褪せて誰だか分からなかったあの写真も、もしかしたら、その「継ぐ人」と、何か関係があるのかもしれない。


 聞きたい、と思った。

 けれど、聞けば、これまでお増が踏み込まなかった哲也の領域に、自分も踏み込むことになる気がした。

 お互いに、深いところには触れない。

 それが、この店での、二人だけの暗黙の約束だった気がしていた。

 今、その約束を破ってまで踏み込む勇気は、哲也にはまだなかった。


「俺にできることがあれば、何でも言ってください」

 哲也は、それだけ言った。

 お増は、少し驚いた顔をして、それから、ゆっくりと頷いた。

「あんたが、そんなことを言ってくれるとは思わなかったよ」

「気持ちだけ、ありがたく受け取っとくよ」


 帰り道、哲也は、ずっと心が落ち着かなかった。

 いつもなら気にも留めない、街灯の灯りや、すれ違う人の足音までが、やけに耳に残った。

 あの店がなくなることが、こんなにも自分にとって大きな出来事になっているとは、思っていなかった。

 継ぐ人もいない、という言葉が、何度も頭の中で繰り返されていた。

 それが誰を指しているのか分からないまま、哲也は、自分にできることが何もないという事実だけを、重く抱えて歩いていた。


 家に着いても、その晩はなかなか食欲が湧かなかった。

 恵に「どうしたの」と聞かれても、哲也は「いや、何でもない」と、いつものように答えるしかなかった。


 布団に入っても、お増の「継ぐ人もいないしね」という声だけが、何度も耳の奥で繰り返されていた。

 その夜、哲也は、長い間、寝付くことができなかった。

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