第十話 最後のイベント
その日の終業後、哲也は、本部長の雨宮一郎に、会議室へ呼ばれた。
「お前に、来期の話をしておきたくてな」
雨宮は、そう切り出すと、コーヒーを一口飲んで、椅子に深く座り直した。
「営業推進部の管理職に、お前を推す。本社勤務になる。現場を回る仕事は減るが、その分、部下を育てる立場になる。給料も、今より上がる」
哲也は、しばらく言葉が出なかった。
二十年以上勤めてきて、ようやく辿り着いた地点だった。
誰もが羨むだろう話だということは、分かっていた。
「ありがたい話です。少し、考えさせてください」
哲也は、そう答えた。
雨宮は、満足そうに頷いた。
「来月の頭までに、返事をくれ。お前なら、適任だと思ってる」
哲也は、頭を下げて部屋を出た。
エレベーターを待つ間、何かを噛みしめるように、何度も自分の表情を確認した。
喜ぶべき場面だということは分かっていた。
実際、十年前の自分なら、きっと飛び上がるほど嬉しかったはずだ。
会議室を出てからも、哲也の心は、不思議と浮き立たなかった。
本社勤務になれば、得意先を回ることも、商談の場で頭を下げることも、今より格段に減る。
代わりに、デスクで部下の報告書を読み、会議に出て、数字を追う日々になる。
外を回ることもなくなる。
あの裏路地に立ち寄る理由そのものが、物理的に消えてしまうかもしれない。
雨宮の話は、暗に、そのことも意味しているように、哲也には感じられた。
それは、お増の店にも、もう簡単には通えなくなるということでもある。
本社は、今の営業所より遠く、終業時間も今より不規則になるだろう。
距離が、確実に開く。
それは、二十年以上かけて積み上げてきたものの、当然の延長線上にあるはずだった。
なのに、哲也の胸の中には、何か大事なものを置き忘れていくような、奇妙な感覚だけが残った。
二十年前、パリで全てを失った時、哲也は、もう二度と何かに本気で打ち込むことはしないと、自分自身に約束した。
安定した会社員として、家族のために生きよう。
それが、唯一許された生き方だと思っていた。
その意味で、今回の昇進話は、まさに自分が求め続けてきたものの完成形のはずだった。
なのに、なぜこんなに、心が冷えていくのか。
その日の帰り、哲也は、久しぶりに「ますや」に顔を出した。
お増は、もう自分の足で立てるようになっていた。
腰の具合は、まだ完全とは言えないが、軽い動きであれば、厨房に立つこともできるという。
厨房からは、久しぶりに、煮物の匂いが漂っていた。
その匂いを嗅いだだけで、哲也は、思わず安堵の息を漏らした。
「思ったより、戻ってきたよ。ありがたいことに」
お増は、そう言って笑った。
哲也は、その言葉に、心から安堵した。
だが、その安堵は、長くは続かなかった。
「来月、商店街で『一日料理人フェア』ってのがあるんだよ。各店が一日だけ、店の外に出て、自慢の一品を振る舞う。あれに、最後に出ようと思ってる」
「もう何年も出てなかったんだけどね。今年は、声をかけられて、悪い気はしなかった」
お増は、どこか遠くを見るような目で、そう言った。
商店街の役員が、長年世話になった礼として、お増に声をかけたらしい。
当日は、近隣の住民や、商店街の客が大勢集まる。
普段の「ますや」よりも、ずっと多くの目に晒される場になるはずだった。
「最後、というのは」
「あれを区切りに、店は畳む。前から決めてたことだよ。腰のこともあるし、ちょうどいい機会だ」
「ちょうどいい機会、なんですか」
哲也の声は、自分でも思った以上に、固くなっていた。
「ちょうどいい機会、で片付けられるものじゃないでしょう。この店は」
お増は、その言葉に、少し驚いたように哲也を見た。
それから、静かに笑った。
「あんたが、そこまで言ってくれるとは思わなかったよ。でもね、潮時ってのは、自分が決めるしかないんだ。誰かが決めてくれるのを待ってたら、いつまでも決められない」
お増の口調は、いつもと変わらず軽かった。
だが、その軽さの底に、確かな決意が沈んでいるのが、哲也には分かった。
まだ何か月か、時間はあるはずだと思っていた。
腰が治れば、また元のように店を続けられると、勝手にそう信じていた。
だが、お増にとっては、これはもう、決まったことだった。
自分の知らないところで、終わりの日付が、確かに決められていた。
その事実が、哲也の中の何かを、急に揺さぶった。
恵や慶太のことも、頭をよぎった。
昇進すれば、給料は上がる。
家族のためには、その方がいいはずだ。
慶太がこれから再就職するにしても、家の経済が安定していることは、決して悪いことではない。
だが、それを言い訳に、自分はまた何かから逃げようとしているのではないか――そんな疑いも、同時に浮かんでくる。
頭の中で、いくつもの感情が、一斉に動き始めた。
このまま、何もしないでいいのか。
雨宮からの話と、お増からの話。
安定した未来への昇進と、自分にとって何より大事な場所が消えるという知らせ。
その二つが、同じ一日の中で、哲也の前に並んで置かれていた。
昇進を受け入れれば、もう何も変えなくていい。
今までと同じように、安全な場所で、安全な時間を過ごせる。
だが、お増の店がなくなることに対して、自分は、結局何もしないまま、見送るだけになる。
それでいいのか、と、誰かが胸の奥で問いかけてくる。
二十六年前、パリの厨房を出る時、哲也は、誰にも何も言えずに去った。
何かを失う瞬間に、ただ黙って見ているだけだったあの時の自分が、今、また同じことを繰り返そうとしている。
今度だけは、黙っていたくない。
そう思った瞬間、喉の奥から、言葉が勝手にこぼれ出した。
「俺が、手伝います」
声に出した瞬間、自分の心臓が、大きく跳ねるのを感じた。
後戻りはできない、という感覚が、腹の底からせり上がってくる。
お増が、驚いた顔で哲也を見た。
「あんた、何言ってんだい。包丁も満足に持てないだろうに」
「それでも、何かやらせてください。最後の日に、何もしないで見ているだけなんて、俺には、できない」
言ってしまった、と思った。
言葉にした途端、自分の右手が、もう微かに震え始めているのを感じた。
お増は、しばらく哲也の顔を見つめていた。
それから、ふっと表情を緩めた。
「物好きだね、あんたも」
それだけ言って、お増は、それ以上、深く突っ込まなかった。
ただ、厨房に戻る背中が、ほんの少しだけ、軽くなったように見えた。
気のせいかもしれない。
それでも、哲也には、そう見えた。
帰り道、哲也は、自分の言葉の重さに、今になって押し潰されそうになっていた。
あの場の感情に任せて、できるかどうかも分からないことを、口にしてしまった。
お増との約束を守るためには、人前で包丁を握らなければならない。
あの震えを、誰かの目の前で、見せることになるかもしれない。
それでも、不思議と、撤回したいとは思わなかった。
雨宮の話には、心が動かなかった。
なのに、お増の前で口にした、ほとんど無謀な約束には、これまで感じたことのない熱が、確かにあった。
雨宮の話を受けるのは、簡単だった。
これまでの自分を、そのまま延長させるだけでいい。
リスクは何もない。
だが、お増との約束は、まったく逆だった。
失敗すれば、また二十六年前と同じように、大切なものを壊すかもしれない。
それも、今度は、衆人の前で。
それでも、哲也は、今夜、初めて思った。
安全な道を選び続けてきたこの二十六年間、自分は本当に、何かを守れていたのだろうか。
家族を守るという名目で、結局は、自分自身を守っていただけではなかったか。
家に着いた時、恵は、いつものように夕食を並べていた。
哲也の顔を見て、何かを察したのか、珍しく「今日、何かあったの」と聞いてきた。
哲也は、一瞬迷ったが、「いや、何でもない」と、いつもの言葉で返してしまった。
本当は、話したいことが、いくつもあったはずなのに。
その晩、哲也は、布団の中で、何度も両手を握っては開いた。
震えは、まだそこにある。
だが、その震えに、初めて、別の意味が混ざり始めていることにも、哲也は気づいていた。
怖いのに、逃げたくない。
逃げたくないのに、怖い。
二つの感情が、互いを押し合いながら、哲也の中で、いつまでも収まる場所を探していた。
窓の外は、もう静かな夜だった。
哲也は、震える右手の指先を見つめながら、来月の自分が、どちらの言葉を選ぶことになるのか、まだ何も分からないまま、長い夜を過ごした。




