表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/25

第十一話 仕舞われた手帳

 その日、恵は一人だった。

 哲也は仕事で遅くなると言っていたし、慶太は、いつものように自室にこもっている。


 押し入れの整理をしようと思ったのは、ただの思いつきだった。

 季節物の毛布を入れ替えるついでに、奥にしまったままの古い段ボール箱に、手が触れた。

 窓から差し込む午後の光が、畳の上に、ゆっくりと長い影を作っていた。

 家の中は、いつもよりひっそりと静かだった。


 箱の底には、見覚えのある一冊の手帳があった。

 恵は、しばらくそれを見つめたまま、動けなかった。

 何年も、開かずに過ごしてきたものだ。

 それを今、開いてしまえば、何かが戻ってきてしまう気がする。

 けれど、手は、もう自然と表紙にかかっていた。


 ページをめくると、二十代の頃の自分の字が、そこにあった。

 丸みを帯びた、今よりずっと幼い筆跡で、いくつものレシピが書き込まれている。

「タルト・オ・シトロン」

「ムース・ショコラ」

 ――フランス語の名前を、辞書を引きながら、一文字ずつ確かめて書いた記憶が、ふいに戻ってきた。


 恵は、二十二歳から二十六歳まで、駅前の洋菓子工房「ミモザ」で、見習いとして働いていた。

 住み込みではなかったが、休みの日も店に通い、生地の捏ね方や、火加減の見極め方を、先輩たちから一つずつ教わった。

 手先が器用だと、よく褒められた。

 店主からは「お前なら、いつか自分の店を持てる」と言われたこともある。

 その言葉を、恵はずっと、密かな目標にしていた。


 早朝の仕込みは、いつも卵の殻を割る音から始まった。

 バターの匂いが店中に満ちる時間が、恵にとって、一日の中で最も心が落ち着く瞬間だった。

 生地を寝かせている間、店主が淹れてくれる薄いコーヒーを飲みながら、いつか自分の店を持つ日のことを、よく語り合った。


 店主は、五十代の女性で、若い頃にフランスで修業した経験を持っていた。

 口数は少なかったが、恵の作る生地の状態を、指先で触れるだけで的確に言い当てる人だった。

「焦らなくていい。お菓子は、待つことを教えてくれる仕事だよ」

 ――その言葉を、恵は今でも、時々思い出す。


 手帳の後半には、未完成のまま残されたページがあった。

 当時、地元の若手洋菓子コンクールに、出品しようとしていたケーキのレシピだった。

 栗とラム酒を使った、季節限定の一品。

 何度も書き直された跡が、ページの端に残っている。


 何度も試作を重ねた、栗のペーストの炊き方。

 ラム酒を効かせる加減。

 スポンジの厚みを、わずか一ミリ単位で調整した記憶まで、ページの隅の小さなメモから、鮮明に蘇ってくる。

 あのケーキは、結局、最後まで仕上がらなかった。

 コンクールで結果を出せば、都内の有名店から声がかかることもあると、店主から聞いていた。

 恵にとって、それは初めての、本気の挑戦だった。


 コンクールの応募期限の少し前、恵は、自分が妊娠していることを知った。

 哲也との関係は、その頃、ようやく落ち着き始めていたところだった。

 パリから戻ってきた彼は、まだ本調子とは言えなかった。

 安定した会社にようやく就職したばかりで、二人とも、これからどう暮らしていくか、まだ何も決めていなかった。


 妊娠を知った夜、恵は、しばらく一人で考えた。

 体の中に、もう一つの命がある。

 その事実は、不思議なほど静かに、恵の中に染み込んできた。

 怖さよりも、ある種の覚悟に近い感情が、先に立った。

 店を辞めずに、子供を育てる方法も、なかったわけではない。

 店主に相談すれば、何か道はあったかもしれない。

 だが、恵は、それを選ばなかった。


 哲也は、まだ自分のことで一杯一杯だった。

 彼に、これ以上の重荷を負わせたくないという気持ちが、確かにあった。

 それに、恵自身、コンクールに向けて積み重ねてきた自信が、妊娠を知った瞬間から、急に揺らぎ始めていたことも、否定できなかった。

 二つの夢を、同時に追いかける強さが、自分にあるかどうか、恵には分からなかった。

 それなら、どちらかを選んで、後悔のない方を選びたい。そう思った。

 家庭を選ぶことが、後悔のない選択だと、その時は本気で信じていた。


 哲也に妊娠を伝えた時、彼は、驚いた顔をしてから、ひどく静かな声で「ありがとう」と言った。

 それから、何かを言いかけて、やめた。

 彼が、コンクールのことを知っていたのかどうか、恵は、今でも確かめたことがない。

 子供を産み、家庭を守る。

 それが、自分が選ぶべき道だと、恵は自分に言い聞かせた。

 誰かに強制されたわけではない。

 あくまで、自分の意思で決めたことだった。

 そう、何度も自分に言い聞かせてきた。


 店主に辞めることを告げた日、彼は、何も言わずに、ただ頷いた。

 最後に渡されたのは、店で使っていた小さな木べらだった。

「いつか、また」とだけ、彼は言った。

 その木べらは、今も、台所の引き出しの奥にしまわれている。


 店を出る時、振り返らずに歩いた。

 振り返れば、決意が崩れてしまう気がしたからだった。

 しばらくの間、台所に立つたびに、店の厨房の音が、幻のように耳の奥に響くことがあった。

 その音を、聞こえないことにするのに、思いのほか時間がかかった。


 手帳を閉じようとした時、未完成のケーキのレシピが、もう一度目に入った。

 もし、あの時、別の道を選んでいたら――そんな想像を、恵は、長い間、自分に許してこなかった。

 想像してしまえば、今の暮らしを、自分で否定することになる気がしたからだった。

 けれど今、こうして手帳を開いてみると、後悔という言葉だけでは、うまく説明がつかない感情があることに、恵は気づいた。

 あの頃の自分も、今の自分も、どちらも本当の自分だった。

 どちらかを選んだから、もう片方が消えてしまうわけではない。

 ただ、片方の自分を、長い間、押し入れの奥にしまい込んできただけなのだ。


 慶太が生まれた日のことを、恵は鮮明に覚えている。

 あの小さな手を初めて握った時、これまでの迷いが、噓のように消えていく感覚があった。

 後悔はしていない。

 それは、今も変わらない気持ちだった。

 それでも、もう片方の自分が、ずっとどこかで息をしていたことも、確かだった。

 その自分に、もう一度会いに行くことが、今の自分を否定することにはならない。

 そう思えるようになるまでに、これだけの年月が必要だったのかもしれない。


 最近、哲也の様子が、どこか変わってきている気がしていた。

 理由は分からない。

 それでも、その変化を見ていると、恵の中にも、長く眠っていた何かが、少しずつ揺り動かされていくようだった。


 恵は、手帳を閉じて、しばらくそれを胸に抱いていた。

 すぐに、また元の場所に戻すつもりだった。

 けれど、今夜だけは、もう少し、この手の中に置いておきたいと思った。


 階下から、玄関の開く音が聞こえた。

 哲也が、帰ってきたようだ。

 恵は、慌てて手帳を閉じ、引き出しの中に戻した。

 けれど、今までとは違って、その手つきに、迷いのようなものが、わずかに残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ