第十一話 仕舞われた手帳
その日、恵は一人だった。
哲也は仕事で遅くなると言っていたし、慶太は、いつものように自室にこもっている。
押し入れの整理をしようと思ったのは、ただの思いつきだった。
季節物の毛布を入れ替えるついでに、奥にしまったままの古い段ボール箱に、手が触れた。
窓から差し込む午後の光が、畳の上に、ゆっくりと長い影を作っていた。
家の中は、いつもよりひっそりと静かだった。
箱の底には、見覚えのある一冊の手帳があった。
恵は、しばらくそれを見つめたまま、動けなかった。
何年も、開かずに過ごしてきたものだ。
それを今、開いてしまえば、何かが戻ってきてしまう気がする。
けれど、手は、もう自然と表紙にかかっていた。
ページをめくると、二十代の頃の自分の字が、そこにあった。
丸みを帯びた、今よりずっと幼い筆跡で、いくつものレシピが書き込まれている。
「タルト・オ・シトロン」
「ムース・ショコラ」
――フランス語の名前を、辞書を引きながら、一文字ずつ確かめて書いた記憶が、ふいに戻ってきた。
恵は、二十二歳から二十六歳まで、駅前の洋菓子工房「ミモザ」で、見習いとして働いていた。
住み込みではなかったが、休みの日も店に通い、生地の捏ね方や、火加減の見極め方を、先輩たちから一つずつ教わった。
手先が器用だと、よく褒められた。
店主からは「お前なら、いつか自分の店を持てる」と言われたこともある。
その言葉を、恵はずっと、密かな目標にしていた。
早朝の仕込みは、いつも卵の殻を割る音から始まった。
バターの匂いが店中に満ちる時間が、恵にとって、一日の中で最も心が落ち着く瞬間だった。
生地を寝かせている間、店主が淹れてくれる薄いコーヒーを飲みながら、いつか自分の店を持つ日のことを、よく語り合った。
店主は、五十代の女性で、若い頃にフランスで修業した経験を持っていた。
口数は少なかったが、恵の作る生地の状態を、指先で触れるだけで的確に言い当てる人だった。
「焦らなくていい。お菓子は、待つことを教えてくれる仕事だよ」
――その言葉を、恵は今でも、時々思い出す。
手帳の後半には、未完成のまま残されたページがあった。
当時、地元の若手洋菓子コンクールに、出品しようとしていたケーキのレシピだった。
栗とラム酒を使った、季節限定の一品。
何度も書き直された跡が、ページの端に残っている。
何度も試作を重ねた、栗のペーストの炊き方。
ラム酒を効かせる加減。
スポンジの厚みを、わずか一ミリ単位で調整した記憶まで、ページの隅の小さなメモから、鮮明に蘇ってくる。
あのケーキは、結局、最後まで仕上がらなかった。
コンクールで結果を出せば、都内の有名店から声がかかることもあると、店主から聞いていた。
恵にとって、それは初めての、本気の挑戦だった。
コンクールの応募期限の少し前、恵は、自分が妊娠していることを知った。
哲也との関係は、その頃、ようやく落ち着き始めていたところだった。
パリから戻ってきた彼は、まだ本調子とは言えなかった。
安定した会社にようやく就職したばかりで、二人とも、これからどう暮らしていくか、まだ何も決めていなかった。
妊娠を知った夜、恵は、しばらく一人で考えた。
体の中に、もう一つの命がある。
その事実は、不思議なほど静かに、恵の中に染み込んできた。
怖さよりも、ある種の覚悟に近い感情が、先に立った。
店を辞めずに、子供を育てる方法も、なかったわけではない。
店主に相談すれば、何か道はあったかもしれない。
だが、恵は、それを選ばなかった。
哲也は、まだ自分のことで一杯一杯だった。
彼に、これ以上の重荷を負わせたくないという気持ちが、確かにあった。
それに、恵自身、コンクールに向けて積み重ねてきた自信が、妊娠を知った瞬間から、急に揺らぎ始めていたことも、否定できなかった。
二つの夢を、同時に追いかける強さが、自分にあるかどうか、恵には分からなかった。
それなら、どちらかを選んで、後悔のない方を選びたい。そう思った。
家庭を選ぶことが、後悔のない選択だと、その時は本気で信じていた。
哲也に妊娠を伝えた時、彼は、驚いた顔をしてから、ひどく静かな声で「ありがとう」と言った。
それから、何かを言いかけて、やめた。
彼が、コンクールのことを知っていたのかどうか、恵は、今でも確かめたことがない。
子供を産み、家庭を守る。
それが、自分が選ぶべき道だと、恵は自分に言い聞かせた。
誰かに強制されたわけではない。
あくまで、自分の意思で決めたことだった。
そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
店主に辞めることを告げた日、彼は、何も言わずに、ただ頷いた。
最後に渡されたのは、店で使っていた小さな木べらだった。
「いつか、また」とだけ、彼は言った。
その木べらは、今も、台所の引き出しの奥にしまわれている。
店を出る時、振り返らずに歩いた。
振り返れば、決意が崩れてしまう気がしたからだった。
しばらくの間、台所に立つたびに、店の厨房の音が、幻のように耳の奥に響くことがあった。
その音を、聞こえないことにするのに、思いのほか時間がかかった。
手帳を閉じようとした時、未完成のケーキのレシピが、もう一度目に入った。
もし、あの時、別の道を選んでいたら――そんな想像を、恵は、長い間、自分に許してこなかった。
想像してしまえば、今の暮らしを、自分で否定することになる気がしたからだった。
けれど今、こうして手帳を開いてみると、後悔という言葉だけでは、うまく説明がつかない感情があることに、恵は気づいた。
あの頃の自分も、今の自分も、どちらも本当の自分だった。
どちらかを選んだから、もう片方が消えてしまうわけではない。
ただ、片方の自分を、長い間、押し入れの奥にしまい込んできただけなのだ。
慶太が生まれた日のことを、恵は鮮明に覚えている。
あの小さな手を初めて握った時、これまでの迷いが、噓のように消えていく感覚があった。
後悔はしていない。
それは、今も変わらない気持ちだった。
それでも、もう片方の自分が、ずっとどこかで息をしていたことも、確かだった。
その自分に、もう一度会いに行くことが、今の自分を否定することにはならない。
そう思えるようになるまでに、これだけの年月が必要だったのかもしれない。
最近、哲也の様子が、どこか変わってきている気がしていた。
理由は分からない。
それでも、その変化を見ていると、恵の中にも、長く眠っていた何かが、少しずつ揺り動かされていくようだった。
恵は、手帳を閉じて、しばらくそれを胸に抱いていた。
すぐに、また元の場所に戻すつもりだった。
けれど、今夜だけは、もう少し、この手の中に置いておきたいと思った。
階下から、玄関の開く音が聞こえた。
哲也が、帰ってきたようだ。
恵は、慌てて手帳を閉じ、引き出しの中に戻した。
けれど、今までとは違って、その手つきに、迷いのようなものが、わずかに残っていた。




