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第十二話 出さなかった年賀状

 腰の養生を言われてから、お増は、家の奥の部屋を片付ける時間が増えていた。


 店を畳むなら、いつかは整理しなければならない。

 そう思いながら、古い茶箪笥の引き出しを開けた。

 外は、まだ明るい午後だった。

 一人で過ごす時間は、こういう時、思いがけず長く感じられる。


 中から出てきたのは、何十枚もの年賀状だった。

 どれも、宛名の部分まで書かれていながら、結局、投函されなかったものだった。

 指で数えてみると、二十枚は軽く超えていた。

 一年に一枚、書きかけては、出さなかった年月の分だけ、それは積み重なっていた。

 宛名は、すべて同じだった。

「黒沢正一様」――いや、これは哲也のことではない。

 お増の、一人息子の名前だった。

 一番古い一枚には、もう三十年近く前の元号が記されていた。

 お増は、それを手に取ったまま、しばらく動けなくなった。


 お増の夫、茂は、正一が中学に上がってすぐの年に、病気で亡くなった。

 それから、お増は、女ひとりで「ますや」を切り盛りしながら、正一を育てた。

 葬式の翌日から、お増は店を開けた。

 休んでいる暇などなかった。

 働かなければ、その日の生活が立たない。

 悲しむ時間さえ許されなかった。


 店は、夫の代から続く小さな食堂だった。

 お増は、いつか正一がこの店を継いでくれることを、当然のように願っていた。

 小学生の頃から、正一に簡単な手伝いをさせ、出汁の取り方や、野菜の切り方を、見せながら教えてきた。

 正一が、初めて一人で味噌汁を仕上げた日のことを、お増は今でも覚えている。

 出汁の加減が、まだ甘かったが、それでも、誇らしげにお増の前にお椀を出してきた、あの幼い顔。

 あの頃は、まだ何の確執もなかった。


 正一は、子供の頃は、それを嫌がらなかった。

 だが、中学、高校に進むにつれ、友人たちの家庭と、自分の家を比べるようになっていったようだった。

「うちだけ、店の手伝いがあるから、部活も満足にできない」

「友達は、みんな塾に通ったり、部活の遠征に行ったりしてる。俺だけ、店の手伝いで休みが潰れる」

 正一が、そう続けたこともあった。

 お増は、その時、深く取り合わなかった。

 誰の家にも、それぞれの事情がある。

 そう思っていた。


 大学に進学した正一は、卒業を控えた頃、ある企業から内定をもらったと、お増に告げた。

「店は、継がない。普通の会社で、普通に働きたい」

 お増は、その言葉に、強く動揺した。

 これまで積み重ねてきた時間が、すべて否定されたように感じた。

「お前を育てるために、私がどれだけ無理をしてきたか、分かってるのか。この店があったから、お前を大学にまで通わせられたんだよ」

「だから、店を継がなきゃいけないのか。俺の人生は、母さんの店のためにあるわけじゃない」

「そんな言い方しなくても――」

「母さんは、いつも俺に、店を継ぐことが当然みたいに言ってきた。俺の意見なんて、一度も聞かなかったじゃないか」

「だったら、最初から言えばよかったじゃないか。継ぎたくないなら、継ぎたくないと」

「言えるわけないだろう。父さんが死んで、母さんがどれだけ無理して働いてるか、見てきたんだ。継がないなんて、言えるわけがなかった」


 その一言で、お増は、初めて気づいた。

 正一は、長い間、言いたくても言えなかった言葉を、ずっと抱え込んでいたのだ。

 その言葉に、お増は、何も言い返せなかった。

 正一の言うことは、ある意味で、正しかった。

 だが、それを認めることは、お増にとって、これまでの自分の人生そのものを、否定することのように思えた。

「好きにしな。お前がそう決めたなら、私はもう、何も言わない」

 お増は、そう言って、それ以上、何も言わなかった。

 それが、二人の間で交わされた、最後のまともな会話だった。


 数日後、正一は、荷物をまとめて家を出た。

 手伝うとも、引き止めるとも、お増は何も言わなかった。

 正一は、就職と同時に家を出た。

 最初の数年は、年に一度、年賀状のやり取りだけは続いていた。

 だが、ある年、お増が送った年賀状に、返事が来なかった。

 次の年も、その次の年も。

 一度だけ、お増は、正一の働く会社に、電話をかけたことがあった。

 受付の女性に取り次いでもらい、しばらく待った後、正一の声が聞こえた。

「……何の用」。その一言の冷たさに、お増は、それ以上何も言えず、電話を切った。

 それ以来、お増は、正一に連絡を取ろうとすることをやめた。

 代わりに、店に来る客の一人一人を、まるで自分の家族のように世話するようになった。

 哲也のような、行き場のない客を放っておけなくなったのも、その延長だったのかもしれない。


 お増は、それでも、毎年正月になると、年賀状を書き始めた。

「元気にしているか」

「店はまだ続けている」――書きかけて、いつも途中でペンを置いた。

 送ったところで、迷惑なだけかもしれない。

 今さら、何を書けばいいのか分からない。

 そんな言い訳を、お増は、自分に何度も繰り返してきた。


 毎年、書きかけの葉書を見るたびに、自分が選んだ言葉の少なさを思う。

「元気か」だけでは、三十年分の沈黙を埋められるはずもない。

 だが、それ以上に何を書けばいいのか、お増には分からなかった。

 本当は、もっと単純な理由があることに、お増は気づいていた。

 あの日の言い争いで、自分が間違っていたと認めることが、どうしても怖かった。

 年賀状を出すことは、お増にとって、その認めることと、ほとんど同じ意味を持っていた。

 それに、もし年賀状を送って、また返事がなければ。

 その可能性を考えるだけで、お増の手は、ペンを取ることを拒んだ。

 傷つくことよりも、傷つく可能性そのものを、避けてきたのかもしれない。


 茶箪笥の引き出しの前で、お増は、長い間座り込んでいた。

 哲也のことを、ふと思い出した。

 あの男も、震える手を抱えたまま、何年も誰にも本当のことを話せずに生きてきた。

 その姿が、どこか、正一の――いや、自分自身の姿とも、重なって見えた。

 哲也は、震える手を見せることを、長い間恐れてきた。

 それでも、最近の彼は、その震えを抱えたまま、何かを変えようとしている。

 お増には、それが、ひどく眩しく見えた。

 自分にも、同じことができるのだろうか。

 謝るということは、簡単なことではない。

 だが、謝らないまま過ぎていく時間も、決して優しいものではなかった。


 お増は、一番新しい年賀状を、もう一度手に取った。

 宛名だけが書かれた、白い葉書だった。

 今すぐに、その続きを書く勇気は、まだなかった。

 それでも、お増は、その葉書を、これまでのように引き出しの奥にしまい込むことはせず、しばらく、文机の上に置いたままにしておいた。


 窓の外では、夕暮れの光が、ゆっくりと色を変えていた。

 お増は、その葉書を見つめながら、長い間、何も考えずに座っていた。

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