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第十三話 真夜中のキッチン

 午前二時。

 哲也は、寝室を出て、足音を立てないよう、一段ずつ階段を下りた。

 家中が、寝静まった音に包まれていた。

 時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。


 恵も慶太も、もう深く眠っている時間だ。

 台所の照明をつける代わりに、換気扇の小さな常夜灯だけを点けた。

 明るすぎる光は、二階まで漏れてしまうかもしれない。

 靴下のまま、冷たい床を歩く。

 スリッパの音さえ、響きすぎる気がして。


 冷蔵庫から、ニンジンを一本取り出す。

 まな板を、流し台の上にそっと置く。

 木と木がぶつかる音さえ、この時間にはやけに大きく響く気がした。


 包丁は、家にあるものを使っていた。

 恵が普段使っている、ごく普通の三徳包丁。

 お増の店にあった、使い込まれた出刃包丁とは、重さも、握りの感触も違う。

 それでも、今、哲也にできることは、これしかなかった。


 お増の店に持っていくわけにもいかない。

 こんな不甲斐ない姿を、彼女に見せるのは、もうご免だ。

 だから、まずはここで、誰にも見られない場所で、少しでも形を作っておきたい。


 ニンジンを、まな板の上に置く。

 左手で軽く押さえ、右手で柄を握る。

 指先が、もう小さく震え始めていた。

 深く息を吸い、吐く。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 お増に見透かされたあの日から、もう何度も繰り返してきた言葉。

 だが、言葉だけでは、震えは収まらない。

 刃先を、ニンジンの先端に当てる。

 ゆっくりと、力を入れていく。

 手首が、揺れた。

 刃が斜めに逸れて、ニンジンが、まな板の上で転がった。


 もう一度、構え直す。

 今度は、もっと慎重に。

 だが、結果は同じだった。

 震えは、意志の力でどうにかなるものではなかった。

 手の甲に浮いた血管が、小さく脈打っているのが見える。

 指の関節は、白く強張り、まるで自分の体の一部ではないかのようだ。

 哲也は、ニンジンを拾い直し、何度も同じことを繰り返した。

 一度、二度、三度。

 回数を重ねるほど、焦りが募り、焦りが募るほど、震えはひどくなった。


 それから、毎晩のように、哲也は同じ時間に台所に立った。

 最初の三日間は、ただ震えを止めようとすることに、全ての時間を使った。

 四日目になって、ようやく、震えながらでも、刃を真っ直ぐに動かす練習に切り替えた。

 それでも、結果はほとんど変わらなかった。

 時計を見るたびに、もう一時間が経っていることに驚いた。

 一本のニンジンのために、こんなにも多くの時間を費やしている自分が、滑稽にも、哀れにも思えた。


 二十六年前は、誰もが認める腕を持っていた。

 オマール海老の殻を一瞬で剥き、繊細なソースを、寸分の狂いなく仕上げることができた。

 それが今は、ニンジン一本に、何十分もかけている。

 その落差の大きさに、哲也自身、笑うことしかできない夜もあった。


 一週間が過ぎても、状況は変わらなかった。

 ニンジンは、相変わらず、まともに切れなかった。

 ある夜は、刃が大きく逸れて、ニンジンが床まで飛んでいった。

 慌てて拾い、音を立てなかったかと、しばらく天井を見上げて確認することもあった。


 一度だけ、震えが収まりかけた瞬間があった。

 刃が、ニンジンの表面を、わずかに滑らかに通った。

 心臓が、期待で跳ねた。

 だが、次の瞬間には、また指先が震え出し、その小さな成功は、二度と再現されなかった。


 ある夜、二階の床がきしむ音がして、哲也は、慌てて灯りを消し、その場にしゃがみ込んだ。

 恵が、トイレに起きただけだった。

 それでも、心臓が、しばらく激しく鳴り続けていた。

 見つかったら、何と説明すればいいのか。

 その答えを、哲也はまだ用意していなかった。


 誰にも見せられない、誰にも話せない練習だった。

 会社では、誰よりも結果を出せる男だった。

 なのに、この小さな台所では、一本のニンジンにすら、勝てなかった。


 寝不足のまま出勤する日が続いた。

 商談中、ふと意識が遠のきそうになることもあった。

 誰にも気づかれないよう、表情だけは、いつも通りを保ち続けた。

 恵に、このことを話せたら、どれだけ楽になるだろうと、何度も思った。

 だが、もし話して、また失敗したら。

 その時の恵の顔を想像するだけで、哲也は、言葉を引き返してしまう。


 ある晩、十数回目の失敗の後、哲也は、まな板の前に座り込んだ。

 膝に手をつき、肩で大きく息をする。

 もう何のためにやっているのか、分からなくなっていた。

 いっそ、お増に「やはり無理だった」と伝えてしまえば、楽になれる。

 そう考えた瞬間も、一度ではなかった。

 誰も、それを責めないだろう。

 震える手で、フェアの場に立つことの方が、よほど無謀な話だった。


 お増との約束のためなのか、自分自身のためなのか。

 あるいは、ただ、二十六年前のあの夜に、決着をつけたいだけなのか。

 問いの答えは、考えるほど遠ざかっていく気がした。


 ふと、瞼の裏に、あの夜の光景が浮かんだ。

 鍋の底に広がる黒い斑点。

 ベルトランの、低く静かな声。

「母のソースを、お前は焦がした」。

 あの一言を聞いた時の、自分の喉の渇きまで、なぜか鮮明に思い出せた。

 その記憶が押し寄せた瞬間、哲也の喉から、声にならない呻きが漏れた。

 両手で顔を覆い、しばらく、その場から動けなかった。

 肩が、小刻みに震えていた。

 それが、寒さからくるものなのか、それとも別の感情からくるものなのか、哲也自身にも、もう判別できなかった。

 涙が出ているのか、よく分からなかった。

 ただ、胸の奥から、何かが絞り出されるような感覚だけが、長く続いた。

 声を上げることもできなかった。

 家族を起こしてはいけない。

 その自制だけが、皮肉にも、哲也を現実に押し留めていた。


 俺は、何も変われていない。あの夜から、何も変われていない。

 その思いが、繰り返し、繰り返し、頭の中で響いた。

 それでも、哲也は、まな板の前から、完全に立ち去ることはしなかった。

 震える両手を、もう一度見下ろす。

 これが今の自分の全てなら、それでも、この手と向き合うしかない。

 逃げれば、また二十六年前と同じことになる。

 今度は、誰のせいにもできない。

 自分自身が、自分から逃げたという事実だけが、残ることになるだろう。


 新しいニンジンを、冷蔵庫から取り出す。

 まな板の上に置く。

 また、刃を構える。

 震えは、まだそこにある。

 だが、哲也は、その夜も、最後まで台所を離れなかった。


 窓の外が、わずかに白みかけた頃、哲也は、ようやく包丁を置いた。

 切れたニンジンの欠片は、一つもなかった。

 それでも、まな板の上には、無数の小さな傷だけが、その夜の闘いの跡として、静かに残っていた。

 哲也は、その傷を、しばらく指でなぞった。

 痛みはなかった。ただ、そこに、何かを続けてきた証だけが、確かに刻まれていた。

 数時間後には、また背広に着替え、いつもの哲也として、家を出なければならない。

 誰も、彼がこんな夜を過ごしていることを、知らないままだった。

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