第十四話 隠し味の哲学
その日、哲也が「ますや」の暖簾をくぐると、お増は、彼の顔を見るなり、片方の眉を上げた。
「あんた、ひどい顔してるね」
目の下の濃いクマ、心なしか痩せた頬、お増は遠慮なく言った。
哲也は、何か言い訳をしようとしたが、結局、曖昧に笑うことしかできなかった。
連日の寝不足が、もう隠しきれないところまで来ているのは、自分でも分かっていた。
「眠れてないんだろう。何かあったのかい」
哲也は、誤魔化そうとしたが、お増の目は、もうそれを許さないと言っているようだった。
深い皺の奥にある瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
お増の問いに、哲也は、少しの間、答えを迷った。
だが、もう隠す気力も、残っていなかった。
「夜中に、家で練習してるんです。ニンジン一本、まともに切れないまま、もう二週間になります」
言ってしまうと、急に肩の力が抜けた気がした。
誰にも言えなかったことを、初めて口にできた安堵だった。
二週間、誰にも打ち明けられずに抱えてきた重さが、その一言で、わずかに軽くなった気がした。
お増は、それを聞いて、特別驚いた様子もなかった。ただ、小さく頷いただけだった。
「あんた、まだ、刃の動かし方ばかり考えてるだろう」
「……他に、何を考えればいいんですか」
「ついておいで」
お増は、それだけ言って、厨房へ向かった。
哲也は、戸惑いながらも、後を追った。
カウンターの内側には、大きな鍋が置かれていた。
出汁の香りが、湯気とともに立ち上っている。
大根、こんにゃく、ちくわ、卵。
様々な具材が、出汁の中で、静かに煮えていた。
湯気の向こうに見えるお増の横顔は、店で見せる時より、どこか柔らかかった。
お増は、小さな器に、味噌を少しだけ取り、鍋の縁から、ゆっくりと溶かし入れた。
「これは、何の料理ですか」
「おでんだよ。明日の分の仕込みさ」
お増は、味噌を入れた後、しばらく鍋を見つめていた。
それから、また小さじ一杯ほどの醤油を、鍋肌から静かに垂らした。
レシピ通りの分量ではないことは、その手つきの自由さから分かった。
「味付けに、決まった分量なんてないんだよ」
「でも、店で出す以上、毎回同じ味にしないと――」
「同じ味、というのは、誰にとっての話だい」
哲也は、その問いに、すぐには答えられなかった。
「常連の田中さんは、塩気を強めに好む。だけど、最近来るようになった、あの腰の悪い婆さんは、塩分を控えてる。同じ鍋から出すおでんでも、出す相手によって、最後にひと匙、何を足すかを変えてるんだよ」
「気づかれないようにね。あんまり露骨にやると、それはそれで気を遣われてるみたいで、嫌がる人もいるから」
さりげなさこそが、本当の気遣いなのだと、お増は、そう言いたいようだった。
「それじゃ、レシピの意味が――」
「レシピってのは、ただの土台さ。本当の味付けは、その先にある。誰の体に入っていくのか、誰の今日の気分を支えるのか。それを考えた分だけ、味は変わる」
お増は、そう言って、鍋の中の大根を、丁寧に箸で押し込んだ。
「うちの隠し味は、醤油でも味噌でもないんだよ。それを使う時の、こっちの気持ちの方が、隠し味さ」
哲也には、まだその意味が、半分も理解できていなかった。
気持ちが味に変わるなんてことが、本当にあるのだろうか。
半信半疑のまま、それでも、お増の手元から目を離せなかった。
「やってみるかい」
お増は、小さな匙を、哲也に手渡した。
味噌の入った器を、彼の前に置く。
「分量なんて気にしなくていい。今、目の前にいる人間のことだけ考えて、入れてみな」
哲也は、匙を手に取った。
手は、相変わらず小さく震えていたが、匙程度の重さなら、何とか扱うことができた。
鍋に少しだけ味噌を溶かし入れる。
レシピも、正確な分量も、何もない。
ただ、目の前のお増のことだけを考えて、量を決めた。
味見をしたお増は、少し驚いた顔をした。
「悪くないね。誰のことを考えて入れたんだい」
「……お増さんのことです」
お増は、それを聞いて、小さく笑った。
「あんた、お世辞も言えるようになったのかい」
哲也は、その言葉を、すぐには理解できなかった。
だが、何か大事なことを言われている気がして、黙ってその先を待った。
「うちの息子にも、昔そう教えたことがあったよ」
お増は、そう言って、ふと視線を遠くにやった。
その一言だけで、何か深い記憶が、彼女の中で動いたのが分かった。
だが、お増は、それ以上は何も語らず、すぐに鍋に視線を戻した。
哲也は、その話の続きを聞きたいと思ったが、聞いてはいけない気がして、黙っていた。
お増の横顔に、これ以上踏み込めない、薄い膜のようなものを感じたからだった。
「あんたは、味噌や醤油の量ばかり気にして、誰のために作るのかを、まだ考えてないんじゃないか」
その一言が、哲也の胸に、思いがけず深く刺さった。
夜中に何度も失敗してきた、あのニンジン。
あれを、自分は、誰のために切ろうとしていたのか。
お増との約束を守るため、というのは、確かに大きな理由だった。
だが、それだけだったのか。
恵は、最近、何が好きなのだろう。
慶太は、何を食べたいと思っているのだろう。
考えてみると、哲也は、その答えを、何一つ知らなかった。
二十年以上、同じ食卓に座ってきたはずなのに、家族の好みすら、ろくに把握していない自分に、今さら気づかされた。
恵が、味噌汁にどんな出汁を使っているかさえ、哲也は知らなかった。
慶太が、最近、何を美味いと思って食べているのか、最後に聞いたのはいつだったか、思い出せもしなかった。
二十年以上、同じ家に住んでいながら、自分はずっと、家族という存在を、輪郭だけで捉えていたのかもしれない。
それに気づいた瞬間、急に、恵や慶太のことを、もっと知りたいという気持ちが、湧き上がってきた。
「味なんてものは、技術だけじゃ、決して仕上がらないんだよ」
お増は、出来上がったおでんを、小さな器に取って、哲也に差し出した。
「食べてみな」
哲也は、それを一口食べた。
大根は、出汁を含んで、芯まで柔らかく煮えていた。
味は、複雑ではない。
だが、舌に乗せた瞬間、なぜか、ほっとするような温かさが、胸の奥まで広がった。
「……美味いです」
それは、決して特別な味ではなかった。
けれど、体の奥まで、すっと染み渡るような、不思議な温かさがあった。
「当たり前だよ。あんたのために、今、味を変えたんだから」
お増は、そう言って、初めて笑った顔を見せた。
哲也は、その言葉に、何も返せなかった。
誰かが、自分のために、ほんの一瞬でも、味を整えてくれた。
そのことが、これまでのどんな高級な料理よりも、深く胸に響いた。
パリの厨房で求められていたものは、完璧な技術だった。
一秒の誤差も許されない、火加減と分量の正確さ。
それを追い求めるあまり、誰のために作っているのかを、いつしか考えなくなっていた自分に、哲也は今、初めて気づいた。
ベルトランの店でも、客の顔を思い浮かべることは、もちろんあった。
だが、それよりも先に、技術の正確さ、見た目の美しさを、優先していた瞬間が、確かにあった。
あの夜の失敗も、どこかで、そんな焦りと無縁ではなかったのかもしれない。
「俺は、ずっと、味そのものにしか向き合ってなかった気がします」
「そうだね。だから、震えるんだよ。誰かの顔を思い浮かべながら手を動かす時、震えってのは、案外、引っ込んでいくもんだよ」
お増の言葉は、何の保証もない、ただの経験談に過ぎなかった。
それでも、哲也の中で、何かが、確かに動いた気がした。
帰り道、哲也は、夜の練習のことを、改めて考えていた。
今夜は、ただ刃を動かすことだけを目的にするのではなく、まず、恵と慶太の顔を思い浮かべてみようと思った。
その夜も、哲也は台所に立つつもりだった。
けれど、今夜は、いつもとは違う心構えで、刃を握れる気がした。
家に着いた時、恵は、すでに布団に入っていた。
哲也は、しばらくその寝顔を見つめた。
これまで、何度も顔を合わせてきたはずなのに、こんなに長く彼女の顔を見たのは、随分久しぶりだった気がした。
明日からは、せめて、何が好きかを聞いてみよう。
そんな、ささやかな決意だけが、その夜、哲也の中に残った。
それで震えが止まるかどうかは、分からない。
だが、少なくとも、今までとは違う向き合い方が、ようやく見えた気がした。
窓の外には、いつもと同じ夜が広がっていた。
けれど、哲也の心の中だけは、確かに、何かが違って見えていた。
固まっていた何かが、ほんの少しだけ、緩んだ夜だった。




