第十五話 父の背中
午前二時過ぎ、慶太は、喉の渇きで目が覚めた。
しばらく布団の中で、寝直そうとしたが、頭の奥が、妙に冴えていた。
最近、夜中にこうして目が覚めることが増えていた。
考えても仕方のないことを、ぐるぐると考え続けてしまう夜が、ここ最近、特に多かった。
父を軽蔑する資格が、自分にあるのか。
あの動画を見た日から浮かんだその疑問が、繰り返し、繰り返し、頭の中で響いていた。
答えの出ない問いを抱えたまま、慶太は、何度も寝返りを打っていた。
諦めて、水を飲みに一階へ下りることにした。
靴下のまま、できるだけ音を立てないよう、階段を一段ずつ下りる。
普段、夜中に家族と顔を合わせることなどない。
下りたところで、誰もいない静かな台所で、コップに水を注ぐだけのはずだった。
家の中は、しんと静まり返っていた。
自分の足音と、自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。
こんな時間に一階に下りるのは、久しぶりのことだった。
階段を下りきったところで、慶太は足を止めた。
台所の方から、かすかな灯りが漏れていた。
換気扇の常夜灯にしては、何か動いている。
誰かが、起きている。
慶太は、一瞬、引き返そうかと思った。
家族と顔を合わせるのはできるだけ避けたかった。
だが、誰かがこんな時間に何をしているのか、妙に気になった。
慶太は、廊下の壁に身を寄せ、台所の入り口から、そっと中を覗き込んだ。
息を潜め、できるだけ自分の存在を消すようにして、慶太は、その光景を見つめた。
そこにいたのは、父だった。
哲也は、いつものスーツ姿ではなく、薄手のシャツを着て、流し台の前に立っていた。
まな板の上には、ニンジンが一本置かれている。
右手には、見慣れた台所の包丁が握られている。
台所の蛍光灯はつけず、換気扇の小さな灯りだけが、父の手元を、ぼんやりと照らしていた。
その薄暗さの中で、父の横顔は、ひどく疲れて見えた。
目の下に、濃い影ができている。
まな板の周りには、すでに失敗した跡なのか、小さな切れ端や、皮の一部が散らばっていた。
一本だけではなく、何本ものニンジンが犠牲になっていたことが、その光景から窺えた。
慶太は、最初、何が起きているのか分からなかった。
ただニンジンを切ろうとしているだけなら、それは何の変哲もない光景のはずだった。
だが、目の前の光景は、明らかに違っていた。
慶太の知っている父は、いつも背筋を伸ばし、隙のない佇まいをしている男だった。
商談の資料を片手に出かける朝も、疲れて帰ってくる夜も、その背筋だけは、ほとんど崩れることがなかった。
今、目の前にいる父は、まるで別人のように、小さく、頼りなく見える。
肩が落ち、首が前に傾き、まな板にしがみつくような格好で立っている。
父の右手が、小刻みに震えていた。
その震えを見た瞬間、慶太の背筋にも、ひやりとした感覚が走った。
刃先を、ニンジンに当てる。
手首が、不自然にぶれる。
刃が、ニンジンの側面を滑り、まな板の上に、軽い音を立てて転がった。
コン、という乾いた音。
それだけの音が、静かな台所では、やけに大きく響いた。
慶太は、その音のたびに、自分の肩が、わずかに跳ねるのを感じた。
父は、それを拾い直し、もう一度、同じ姿勢を取った。
慶太は、その一連の動作を、まるでスローモーションのように、はっきりと見ることができた。
刃先がニンジンに触れる。
一瞬、止まる。
それから、刃が震えながら下に動く。
だが、力が均等に入らず、刃は斜めに逸れて、ニンジンの表皮を浅く削るだけで終わる。
三度目も、同じだった。四度目も。
父は、その都度、小さく舌打ちをし、ニンジンを拾い直しては、また同じ動作を繰り返した。
指先が白くなるほど、柄を強く握り込んでいるのが、廊下の暗がりからでも見て取れた。
五度目、ようやく刃が、ニンジンの表面に、わずかに食い込んだ。
父の顔に、一瞬、期待のようなものが浮かんだ。
だが、次の瞬間、手首が大きく揺れて、刃は再び逸れてしまった。
六度目、七度目。
回数を重ねるごとに、父の動きは、少しずつ粗くなっていった。
最初は静かだった舌打ちも、次第に、苛立ちを隠さない音に変わっていく。
それでも、声を荒げることだけは、決してなかった。
家族を起こさないように、という配慮だけは、最後まで守られていた。
父は、そのニンジンを、両手で押さえつけるようにして拾い直した。
その手が、激しく震えているのが、廊下の暗がりからでも、はっきりと見えた。
「……頼む」
ほとんど声にならない呟きが、父の口から漏れた。
その一言の弱々しさに、慶太は、思わず息を止めた。
父の声で、こんなに頼りない響きを聞いたのは、初めてだった。
誰に向けた言葉なのかも分からない、ただの懇願のような響きだった。
慶太は、その場から動けなくなった。
父が、誰かに向かって「頼む」と漏らすところを、慶太は、これまで一度も見たことがなかった。
会社では誰よりも結果を出し、家では何も語らず、ただ淡々と日々をこなしているだけの男。
そういう父の姿しか、慶太は知らなかった。
夕飯の席で、いつも何かを聞きたそうにしながら、結局何も聞けずに黙り込む父。
会社の話も、家庭の話も、一切しない父。
慶太の中の父のイメージは、いつも、何かを抑え込んでいる、平坦な背中だった。
それが今、目の前で、震えながらも、何度も同じ動作を繰り返している。
これまでのイメージと、あまりにもかけ離れていた。
目の前の父は、何度も同じ失敗を繰り返しながら、それでも、まな板の前から離れようとしなかった。
脇腹を支える左手にも、力が入りすぎているのが分かる。
額には、うっすらと汗が滲んでいた。
シャツの背中も、汗で薄く色が変わっているのが見える。
こんな時間まで、もうどれくらい、こんなことを繰り返しているのか。
慶太には、見当もつかなかった。
何度目かの失敗の後、父は、両手をまな板につき、肩を大きく上下させた。
荒い息が、静かな台所に、低く響いていた。
父の肩が、小刻みに揺れていた。
怒っているのか、それとも、別の感情なのか、慶太には判断がつかなかった。
ただ、その揺れが、見ていて辛くなるほど、痛々しかった。
声をかけようか、という考えが、ふと頭をよぎった。
だが、何と声をかければいいのか、分からなかった。
それに、この光景を、父に見られたと知られることが、なぜか、ひどく気まずく感じられた。
慶太は、結局、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
慶太は、ポケットの中のスマートフォンに、無意識に手を伸ばした。
いつもの癖だった。
何か珍しいもの、何か意味のあるものを見ると、画面越しに記録しておきたくなる。
父の知らない姿。
誰も見たことのない場面。
それを切り取ることに、何の迷いもなかったはずだった。
だが、指がポケットの中で止まった。
これまで、慶太は、何にでもレンズを向けてきた。
誰かの失敗も、誰かの本気も、画面の中に切り取ってしまえば、自分とは関係のない、ただの「面白いもの」に変換できた。
そうすることで、自分は、安全な場所から、世界を眺めていられた。
だが今、目の前にあるものを、同じようにレンズの向こうに置いてしまったら――それは、取り返しのつかないことになる気がした。
これを、画面の中に閉じ込めてはいけない。
そう思った。
理由は、自分でも、うまく説明できなかった。
ただ、目の前にあるものは、誰かに見せるための映像ではなく、父が、たった一人で抱えている何かなのだと、慶太には、はっきりと分かった。
慶太は、手をポケットから出した。
何も持たずに、ただその場に立ち続けた。
父は、また新しいニンジンを取り出し、まな板に置いた。
震える手で、刃を構え直す。
何度も、何度も、同じ動作を繰り返していく。
その背中を見ているうちに、慶太の中で、これまで積み上げてきた感情が、ゆっくりと崩れていくのを感じた。
夢を諦めて、安定を選んだ男。
挫折を恐れ、安全な場所に逃げ込んだだけの男。
そう思っていた父の姿が、今、目の前で、誰よりも不器用に、誰よりも必死に、何かに立ち向かっていた。
これが、本当に、自分が軽蔑していた相手なのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、これまで自分が見てきた父の姿が、ひどく一面的なものだったということだけは、否応なく分かった。
慶太は、それ以上見ていることができなくなり、静かに後ずさった。
水を飲むことも忘れ、足音を立てないよう、階段を上がる。
部屋に戻ってからも、心臓は、なぜか速く打ち続けていた。
布団に入っても、目を閉じても、あの震える手と、まな板に落ちるニンジンの音が、何度も頭の中で再生された。
父が何のために、あんなことをしているのか、慶太には、まだ分からなかった。
それでも、あの背中に浮かんでいた必死さだけは、嘘ではないと、はっきりと感じた。
これまで抱いていた感情に、簡単に名前をつけることは、もうできなくなっていた。




