第十六話 レシピの書き換え
イベント前日の夜、恵と慶太が眠りについた後、哲也は、一人で押し入れの整理を始めた。
明日の一皿のために、パリで作っていたあのソースの配合を、できる限り正確に思い出しておきたかった。
完璧に再現するつもりはなかったが、土台として、もう一度、自分の中にあるものを掘り起こしておく必要があると思った。
震える手で、完璧な再現ができるとは思っていなかった。
それでも、自分が一体何を目指して刃を握ろうとしているのか、今一度、はっきりと確かめておきたかった。
押し入れの奥には、引っ越しの時からそのままにしてきた段ボール箱が、いくつも積まれていた。
哲也は、埃を被ったそれらを、一つずつ取り出し、蓋を開けていった。
古い保険の書類、子供の頃の慶太の絵、結婚式の写真アルバム。
写真アルバムを開くと、まだ若かった恵と自分が、ぎこちない笑顔で並んでいる写真があった。
あの頃の自分たちは、まだ何も諦めていなかった。
慶太の描いた絵には、まだ拙い字で「おとうさん」と書かれた、不器用な人物の絵があった。
哲也は、それを見て、思わず小さく笑った。
こんな絵を描いていた頃の慶太と、今の慶太との間に、いつの間にこんな距離ができてしまったのだろう。
どれも、長い時間、開かれることのなかった記憶の層だった。
三つ目の箱の底から、見覚えのある黒い表紙のノートが出てきた。
パリにいた頃、自分が使っていたレシピ帳だった。
哲也は、それを手に取り、ゆっくりとページを開いた。
当時の自分の字で、いくつものソースの配合が、几帳面に書き込まれている。
ところどころに、ベルトランから受けた指摘の覚え書きもあった。
読み返すうち、二十六年前の厨房の匂いまで、鮮明に思い出されてくる気がした。
ページの端には、ベルトランの口癖を、そのまま書き留めた一文もあった。
「弱火だ。急ぐな」。
その文字を見た瞬間、胸の奥が、きゅっと締まるような感覚があった。
マリー=アンジュのページには、配合の比率が、何度も書き直された跡が残っていた。
哲也は、その文字を、しばらく指でなぞった。
あの夜の失敗は、もうただの絶望ではなく、自分の歩んできた道の、一つの記録として、そこに静かに刻まれていた。
ノートを閉じ、箱の中をさらに探っていると、底の方に、もう一冊、見覚えのないノートがあることに気づいた。
表紙は、自分のものより、ずっと古びていた。
哲也は、何の気もなく、それを手に取り、開いてみた。
最初の数ページは、白紙だった。
これは何かの空のノートかもしれない、と一瞬思った。
だが、何枚か進めたところで、文字が現れ始めた。
中には、見覚えのある、けれど自分のものではない筆跡があった。
恵の字だった。
普段、買い物リストやメモで見慣れている字よりも、ずっと若々しく、丸みを帯びていた。
何年前のものか、すぐには分からなかった。
最初は、何かの家計簿かと思った。
だが、ページをめくるうち、それが違うことに気づいた。
「タルト・オ・シトロン」「ムース・ショコラ」――フランス語の菓子の名前が、丁寧な字で、いくつも書き込まれている。
配合の比率、焼き時間、生地の捏ね方。
そこには、恵が、かつて本気で菓子作りに打ち込んでいた時間の跡が、確かに残っていた。
字の端々に、修正の跡があった。
配合を変え、また書き直し、また変える。
一つの菓子に、何度も向き合った跡が、ページの上に、はっきりと残されている。
これだけの熱量を、若い頃の恵は、確かに持っていたのだ。
哲也は、しばらく、そのページから目を離せなかった。
後半には、未完成のまま残されたページがあった。
栗とラム酒を使ったケーキのレシピが、何度も書き直された跡とともに、途中で止まっていた。
日付を見ると、慶太が生まれる、半年ほど前のものだった。
ページの最後の行は、書きかけのまま、止まっていた。
「アングレーズソースを、もう少し――」。
その続きは、二度と書かれることがなかった。
哲也は、その意味を理解するのに、しばらく時間がかかった。
恵にも、自分と同じように、夢があった。
自分と同じように、それを、ある日、諦めなければならない出来事があった。
二十年以上、同じ家で暮らしてきたのに、哲也は、そのことを、今この瞬間まで、何一つ知らなかった。
結婚してすぐの頃、恵が、たまに洋菓子店の前で足を止めることがあった。
ショーケースを眺める恵の横顔を、哲也は、特に気にすることもなく見過ごしてきた。
あの横顔の意味を、今になって初めて、理解した気がした。
思えば、恵が何を考えているのか、深く尋ねたことは、これまでほとんどなかった。
仕事の話、家計の話、慶太の話。
会話はいつも、表面的な用件で終わっていた。
彼女の内側にあるものに、自分から踏み込もうとしたことは、一度もなかったのかもしれない。
自分の傷にばかり気を取られて、隣にいる人間の傷には、目を向けようとしてこなかった。
その事実が、哲也の胸に、重く沈んでいった。
恵は、いつも何も言わずに、三人分の箸を並べ続けてきた。
哲也の沈黙を、咎めることもなく、ただ静かに受け入れてきた。
その静かさの裏に、こんなに深い諦めが隠されていたとは、想像もしていなかった。
自分は、二十六年間、誰にも打ち明けられずに、傷を抱え続けてきたと思っていた。
だが、恵もまた、同じ屋根の下で、同じだけの年月、何も言わずに、自分の諦めを抱え続けてきたのだ。
二人は、互いに気づかぬまま、似たような孤独を、それぞれ別の場所で生きてきたのかもしれない。
寝室の方を、哲也は、しばらく見つめた。
恵は、もう眠っているはずだった。
今すぐ、このノートのことを話したい気持ちと、まだ自分の中だけで抱えておきたい気持ちが、同時に湧き上がってくる。
ドアの隙間から、恵の規則的な寝息が、微かに聞こえてくる。
何年も、当たり前のように聞いてきたその音が、今夜は、いつもより、ずっと尊いものに感じられた。
結局、哲也は、ノートを、見つけた時のまま、そっと箱に戻した。
今は、まだ、話せる時ではないと思った。
だが、知らなかったことにはもう戻れない。
いつか、きちんと向き合って話せる日が来るはずだ。
そう思いながらも、今夜は、まず自分のすべきことに、集中しなければならなかった。
哲也は、自分のレシピ帳を開き、新しいページに、何かを書き始めた。
マリー=アンジュの配合を土台に、お増から学んだ、出汁と醤油の隠し味を重ねる。
そこに、恵が手帳に書き残していた、栗とラム酒の組み合わせの記憶を、どこかに溶け込ませられないか。
誰の真似でもない、けれど、これまで自分が関わってきた、すべての人の記憶を含んだ、一つの新しい味。
ベルトランから学んだ技術。
お増から教わった、人を想う気持ち。
そして、恵が、ずっと胸の奥にしまい込んできた、もう一つの夢。
それらをすべて、一つの皿の上に重ねることができたなら――それは、もう、二十六年前の自分への、ただの償いではなくなる。
前を向くための、新しい一歩になるはずだった。
それを、明日、自分の手で作ってみたいと、哲也は、初めて、心から思った。
紙の上に、頭の中の構想を、簡単な図にして書き出してみる。
ベースとなるソースの輪郭、お増の隠し味を加えるタイミング、栗の風味をどこに溶け込ませるか。
技術的な正確さよりも、味の重なりが生む温かさを、何より大事にしたいと思った。
ペンを走らせる右手は、まだ、わずかに震えていた。
それでも、今夜だけは、その震えを、ただの恐怖としてではなく、何かを生み出そうとする手の、自然な揺れとして、受け止めることができた。
これまで、震える手を、ただ恥ずべきものとしか思っていなかった。
だが今、その震えの奥に、何かを本気で作ろうとする熱が、確かに残っていることに、哲也は、初めて気づいた。
窓の外は、もう深い夜だった。
哲也は、しばらくの間、ノートに向き合い続けた。
明日の準備のためというより、ただ、今この瞬間の自分の気持ちを、書き留めておきたかったからだった。
ノートを閉じる前、最後のページに、小さく一行だけ書き加えた。
「ありがとう、恵」。
誰に見せるためでもない、自分だけのための一文だった。
哲也は、ノートを静かに閉じ、押し入れの奥に、丁寧に戻した。
明日への扉が、今夜、確かに開かれた気がした。




