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第十七話 震える夜、もう一度

 ノートを押し入れに戻し、布団に入った後も、哲也は、しばらく眠れなかった。

 それでも、心の中には、これまでにない静かな手応えがあった。

 明日、自分は、ようやく自分の意志で、厨房に立つ。

 震えはまだあるが、何のために立つのかが、もう分かっている。

 そう思うだけで、不思議と落ち着いていられた。


 恵と慶太の顔を思い浮かべながら、もう一度、刃を握る。

 そんな単純な目標が、これまでのどんな技術的な目標よりも、哲也の心を、静かに支えてくれていた。

 長い間、自分を縛り付けてきた何かが、ようやく少しだけ緩んだ気がした。

 明日のことを考えても、不思議と恐怖だけではない感情が、胸の中にあった。


 眠りに落ちたのは、午前一時を過ぎた頃だった。

 その眠りを破ったのは、スマートフォンの着信音だった。

 画面を見ると、雨宮からのメッセージが届いていた。 

 こんな時間に、本部長から連絡が来るのは、これまでに一度もなかった。

 哲也は、嫌な予感を覚えながら、画面を開いた。

 深夜にこんな連絡が来るということ自体が、何かただならぬ事態を示していた。

 指先が、画面をタップする前から、すでに微かに冷たくなっていた。


「急で悪いが、明日、来期方針会議が入った。お前の昇進の件も、その場で正式に決まる。十時から本社だ。必ず出てくれ」

 文字を、何度も読み直した。

 明日の十時。

 それは、商店街のイベントの開始時刻と、ほとんど同じ時間だった。

 偶然、という言葉では片付けられない巡り合わせだった。

 まるで、これまで避け続けてきた選択を、ようやく突きつけられたかのようだった。


 哲也は、布団の中で、しばらく動けなくなった。

 これまで、いつかは決断を迫られるだろうと、頭の片隅では分かっていた。

 だが、それが、こんなにも突然、こんなにも直接的な形で訪れるとは、思っていなかった。

 昇進の正式決定が、その会議でなされる。

 出席しなければ、これまで積み上げてきたものが、すべて水の泡になるかもしれない。

 雨宮の信頼を裏切ることにもなる。

 だが、出席すれば、お増との約束を、自分から破ることになる。


 二十六年前、ベルトランの厨房を去った時も、自分は、誰にも何も言わずに、ただ姿を消した。

 今、また同じように、黙って約束を破れば、きっと誰にも咎められない。

 お増は、優しく「仕方ないね」とでも言ってくれるだろう。

 それが、何よりも怖かった。

 お増に「行けなくなった」と告げる自分の姿を、想像してみた。

 彼女は、きっと怒らないだろう。

 それが分かっているからこそ、余計に、その想像が哲也の胸を締めつけた。

 怒られるよりも、黙って受け入れられることの方が、時に、よほど重い。


「物好きだね、あんたも」――あの時の笑い声を、もう一度、失望の中で聞くことになるのだろうか。

 想像するだけで、胸の奥が、ひどく苦しくなった。

 哲也は、布団から起き上がり、台所へ向かった。

 眠れないまま、また包丁を手にする。

 せめて、何かを動かしていなければ、この感情の渦に押し流されてしまいそうだった。


 まな板の上にニンジンを置く。

 柄を握る。

 その瞬間、右手が、これまでにないほど激しく震え始めた。

 昨夜までの練習で、わずかながらも、震えが収まりかけていた瞬間があったはずだった。

 だが今、その積み重ねが、嘘だったかのように、震えは元の激しさに戻っていた。

 刃先が、ニンジンに触れる前から、もう大きく揺れている。

 哲也は、刃を構えたまま、しばらく動けなかった。


 手のひらに、冷たい汗が滲んでいた。

 心臓が、いつもより速く、不規則に打っている。

 十数日かけて積み上げてきたはずの何かが、たった一通のメッセージで、根こそぎ崩れ落ちていくようだった。

 二階では、恵が、何も知らずに眠っている。

 慶太も、同じように、自分の部屋で夜を過ごしているはずだった。

 この家の中で、今、自分だけが、こんな大きな分かれ道の前に立っていることを、誰も知らない。


 慶太は、今の自分を見て、何を思うだろうか。

 父親として、誇れる選択をしているところを、一度も見せられていない気がした。

 震える手で何かに挑むくらいなら、安全な道を進む方が、息子のためにもなるのか。

 それとも――。

 逃げたい、という気持ちが、はっきりと胸の中に浮かんだ。

 会議に出れば、すべてが、これまでの自分の生き方の延長線上で、丸く収まるだろう。

 お増には、後で詫びればいい。

 最初から、震える手で人前に立つことの方が、無謀だったのだ。

 誰も、それを責めはしないだろう。

 家族だって、安心するはずだ。

 昇進すれば、給料も上がる。

 震える手でフェアの場に立って、もし大勢の前で失敗したら、それこそ、家族に恥をかかせることになるかもしれない。

 そう考えると、会議に出ることの方が、むしろ筋の通った、まともな選択にさえ思えてくる。


 だが、その「まともな選択」という言葉に、哲也は、どこか引っかかりを覚えた。

 二十六年前も、自分は「まともな選択」をして、夢を諦めた。

 その選択の先に、本当に何かを守れていたのか。

 今、ようやく自分に問い直せるようになった、その答えを、また同じ理屈で、なかったことにしてしまうのか。

 そう自分に言い聞かせかけた、その時だった。

 ふと、瞼の裏に、三膳の箸が並んだ食卓の光景が浮かんだ。

 恵が、毎晩、無言で並べ続けてきた箸。

 慶太の分が、何日も使われないままでも、決して並べることをやめなかった、あの静かな手つき。

 そして、押し入れの奥に眠る、恵自身のレシピ帳。

 栗とラム酒のケーキの、書きかけのまま終わったページ。

「アングレーズソースを、もう少し――」。

 その一文を見つけた夜、自分は何を思ったのか。

 誰かのために、もう一度立ち上がろうと、確かに思ったはずだった。

 その決意は、一晩で消えてしまうほど、薄いものだったのか。


 恵もまた、何かを諦めた人間だった。

 それでも、彼女は、二十年以上、毎晩同じように、家族のために箸を並べ続けてきた。

 逃げることを、彼女は、一度も選ばなかった。

 自分だけが、ここで、また逃げてもいいのだろうか。

 その問いが、哲也の中で、震えと同じくらい激しく、胸を揺さぶった。

 二十六年間、安全な道を選び続けてきたことで、自分は本当に、何かを守れていたのか。

 あの夜、自分自身に問いかけた言葉が、今、また同じ重さで、戻ってきていた。

 今度もまた、同じ問いに、同じように目を逸らすのか。


 もう一度、ニンジンに刃を当てる。

 震えは、まだそこにあった。

 むしろ、さっきよりひどくなっている気さえした。

 刃が逸れ、ニンジンが、まな板の上で転がる。

 哲也は、それを拾い直し、また構え直した。

 拾い直し、また構える。

 二度目も、三度目も、同じだった。

 刃が震えるたびに、頭の中では、雨宮の文字と、お増の顔が、交互に浮かんでは消えていく。

 どちらの顔も、今の自分には、まっすぐ見ることができなかった。

 四度目、五度目になっても、結果は変わらなかった。

 それでも、哲也は、刃を置くことができなかった。

 何かを続けていなければ、この夜の重さに、押し潰されてしまいそうだった。

 それでも、哲也は、まな板の前から離れなかった。


 答えは、まだ出ていない。

 会議に出るのか、イベントに出るのか。

 その選択を、今夜のうちに決める必要があることは、分かっていた。

 恵にも、慶太にも、まだ何も話していない。

 この決断を、誰かに相談することすら、哲也には、できなかった。

 すべてを、自分一人で決めなければならない。

 その重さが、震える手に、さらに重くのしかかっていた。


 時計の針は、もう三時を回っていた。

 あと数時間で、夜が明ける。

 その数時間のうちに、自分は、何かを決めなければならなかった。

 すでに何週間も続けてきた寝不足に、さらにこの夜の混乱が重なっていた。

 目の奥が、重く痛んだ。

 それでも、布団に戻る気には、どうしてもなれなかった。


 窓の外が白み始めても、哲也は、まだ台所に立ち続けていた。

 震える右手を、何度も見下ろしながら、決断の時が、すぐそこまで迫っていることを、痛いほど感じていた。

 どちらを選んだとしても、もう、これまでの自分のままではいられない。

 そのことだけは、はっきりと感じていた。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、まな板の上に散らばった、無数のニンジンの欠片を、静かに照らし出していた。

 答えは、まだ、どこにも見つからなかった。

 それでも、夜が明けるまでには、何かを選ばなければならない。

 哲也は、震える指先を握り込みながら、その事実だけを、重く受け止めていた。

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