第十八話 再び厨房へ
午前六時、哲也は、震える手でスマートフォンを取り、浜田の番号に電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、寝起きらしいかすれた声が応えた。
「……黒沢部長?こんな時間に、何かありました?」
「浜田、頼みがある。今日の方針会議、お前に出てほしい」
短い沈黙があった。
「俺が、ですか。あれ、部長の昇進が決まる会議じゃ――」
浜田の声には、戸惑いと、わずかな興奮が混じっていた。
憧れていた上司から、こんな重要な役目を託されるとは、思っていなかったのだろう。
「事情があって、どうしても外せない用がある。資料はまとめてある。お前なら、説明できるはずだ」
哲也は、それだけ言った。
詳しい理由までは、話さなかった。
話したところで、理解してもらえるとは思えなかったし、何より、今は、一秒も惜しい時間だった。
電話の向こうで、浜田が、しばらく黙っていた。
それから、はっきりとした声で答えた。
「分かりました。やらせてください」
その声には、迷いがなかった。
後輩としてではなく、一人の社会人としての覚悟が、その短い言葉に込められているのが分かった。
「頼む」
その一言を、自分の声で、誰かに向かって言えたことに、哲也は、わずかな安堵を覚えた。
昨夜、何度も口にした、あの弱々しい「頼む」とは、まるで違う響きだった。
誰かに頭を下げて何かを託すことが、これまでは、自分の弱さの証のように思えていた。
だが今は、それが、人を信じるという、もう一つの強さなのだと、初めて理解できた気がした。
決断は、夜が明ける少し前についていた。
震える手のまま、何十回もニンジンを切り続けた、あの長い夜の果てに、答えは、自然と出ていた。
会議に出れば、これまでの自分の延長線上で、何も変わらずに生きていける。
だが、その延長線の先に、自分が本当に望むものはなかった。
哲也は、もう一度、二十六年前と同じ選択をすることだけは、どうしてもできなかった。
雨宮には、後で正式に詫びを伝えるつもりだった。
昇進の話が、これで白紙に戻る可能性もあるだろう。
それでも、今この瞬間、後悔はなかった。
商店街には、すでに大勢の人が集まっていた。
テントの下に並ぶ屋台、子供たちの声、揚げ物の匂い。
普段の静かな裏路地とは、まるで違う賑わいだった。
子供たちが、屋台の間を駆け回っている。
スピーカーから流れる、商店街のテーマソング。
哲也は、その喧騒の中を、エプロンを抱えながら、お増の屋台へ向かった。
お増の屋台は、商店街の中央あたりに設けられていた。
簡易のガス台と、小さな調理台。
普段の厨房とは比べものにならないほど、簡素な設備だった。
「来たね」
お増は、哲也の顔を見て、短くそう言った。
それ以上、何も聞かなかった。
哲也が、ここに立つと決めたことを、すでに分かっているような顔だった。
「会議の方は、いいのかい」
「後輩に託しました」
お増は、それを聞いて、小さく頷いた。
「そうかい」――それだけで、十分だった。
お増は、それ以上何も言わず、調理台の準備を黙々と進めていく。
その背中に、わずかながら、安堵の色が見えた気がした。
「今日は、よろしくお願いします」
哲也は、頭を下げた。
エプロンを身につけ、まな板の前に立つ。
周りには、すでに人垣ができていた。
手が震えるかもしれない。
失敗するかもしれない。
大勢の前で、二十六年前と同じ過ちを繰り返すかもしれない。
そうした恐れは、もちろん、まだ残っていた。
だが、その恐れは、もう、哲也を立ち止まらせる力を持っていなかった。
怖さを抱えたまま、それでも前に進む。
そのことを、哲也は、この数週間で、ようやく学んでいた。
哲也は、まな板の上に、フランス産の魚と、お増から借りた出汁の入った鍋を並べた。
ポケットの中には、昨夜書き上げた、新しいレシピのメモがあった。
包丁を、手に取る。
柄を握る指先に、いつもの震えの予兆が、わずかに感じられた。
哲也は、それを振り払うのではなく、ただそこにあるものとして、受け入れた。
柄を握った瞬間、哲也は、目を閉じて、深く息を吸った。
恵が、毎晩並べてきた三膳の箸。
慶太が、何も言わずに残してきた茶碗。
お増が、何十年も守ってきた、この街の小さな厨房。
すべての記憶を、一つの皿の上に重ねるために、自分は今、ここに立っている。
パリの厨房で学んだ技術。
お増から受け取った、人を想う気持ち。
恵が、長い間、誰にも見せずにきた、もう一つの夢。
それらすべてが、この一皿に、確かに込められている。
目を開け、刃先を、魚の身に当てる。
震えは――なかった。
代わりにあったのは、これまで感じたことのない、静かな手応えだった。
指先から伝わる、魚の身の弾力。
刃が、すっと通っていく感触。
すべてが、今、自分の手の中にあった。
刃は、まっすぐに、滑らかに動いた。
二十六年ぶりに、自分の手が、自分の意志通りに動くのを、哲也は、ほとんど信じられない気持ちで見つめていた。
一切れ、また一切れ。
手元に、迷いはなかった。
出汁の鍋に、お増から教わった隠し味を、迷いなく加えていく。
栗のペーストを、ソースの仕上げに、ひとさじ。
恵のノートにあった配合を、自分なりに調整した、新しい味の重なりだった。
周りの喧騒も、視線も、いつしか意識から消えていた。
あるのは、目の前の食材と、自分の手だけだった。
時折、周りから感心するような声が漏れているのが、遠くの方で聞こえた気がした。
それでも、哲也の意識は、ただ目の前の一皿に、まっすぐ向けられていた。
仕上がった一皿は、フランスの技法と、和の温もりが、自然に重なり合った、見たことのない色合いをしていた。
哲也自身、それを目にして、小さな驚きを覚えた。
その様子を、少し離れた人垣の中から、密かに見つめている二人がいた。
慶太は、数日前、商店街の公式アカウントが投稿した、フェアの告知記事を見つけていた。
出店者の一覧に、見覚えのある店名があった。
「大衆食堂ますや」。
父が、深夜の台所で、何度も何度も練習していた理由が、ようやく、その文字を見た瞬間につながった気がした。
いつ行くべきか、何日も迷っていた。
声をかけるべきか、それとも、見るだけにすべきか。
考えるほど、答えは出なかった。
それでも、今日という日だけは、見過ごしてはいけない気がした。
今朝、慶太は、思い切って、恵の部屋のドアを叩いた。
「母さん、ちょっと、付き合ってほしい場所があるんだけど」
理由は、はっきりとは説明しなかった。
それでも、恵は、何も聞かずに、上着を取って、慶太の後をついてきた。
息子から、こんな風に何かを頼まれるのは、何年ぶりだろうか。
恵は、その意外さに驚きながらも、不思議と、断る気にはならなかった。
人垣の隙間から、哲也の姿が見えた瞬間、恵は、思わず口元を押さえた。
いつも家では、台所に立つことのない夫が、エプロン姿で、堂々と魚を切っている。
その手元に、震えの跡は、どこにもなかった。
慶太も、言葉を失っていた。
あの夜、震えながら、何度も同じ動作を繰り返していた父の姿が、今、まったく別人のように、自信を持って厨房に立っている。
あの夜の弱々しい背中と、今、目の前にある、まっすぐな背中。
同じ人物だとは、とても思えなかった。
それでも、確かに、同じ父だった。
「……あれが、お父さん」
慶太が、誰に向けてでもなく、そう呟いた。
恵の目に、知らないうちに、涙が滲んでいた。
何年も、ただ並べ続けてきた箸の意味が、今、初めて、形になって目の前に現れたような気がした。
哲也が、また厨房に立つ日が来るとは、正直、想像もしていなかった。
それでも、目の前の光景は、紛れもない現実だった。
長年抱いてきた、根拠のない祈りが、今、ようやく報われたのかもしれない。
二人は、声をかけることもできず、ただ遠くから、その姿を見つめ続けた。
人垣に紛れるようにして、できるだけ目立たない場所を選んで立っていた。
哲也に気づかれることは、今は、まだ望んでいなかった。
刃を動かすたびに立つ、小さな音だけが、その場の静けさの中に、確かに響いていた。
やがて、最初の客が、屋台の前に並び始めた。
哲也は、深く息を整え、出来上がった一皿を、丁寧に盛り付けていった。




