第十九話 融合のソース
最初の客は、近所に住む年配の女性だった。
「これ、何の料理?」
不思議そうに、屋台のメニューを覗き込んでくる。
哲也は、自然と、いつもの営業スマイルを浮かべていた。
「フレンチの技法で仕立てた魚料理に、和風の出汁ソースを合わせたものです。見た目は洋風ですが、味はどこか懐かしい感じがすると思いますよ」
言葉が、すらすらと出てきた。
商談先で、新商品の説明をする時と、同じ感覚だった。
相手が何を不安に思っているのか、どこに興味を持っているのかを、瞬時に読み取る。
それは、二十六年間、営業として積み重ねてきた技術そのものだった。
「懐かしい感じ、っていうのが気になるわね。じゃあ、一つもらうわ」
女性は、そう言って、笑顔で一皿を受け取った。
一口食べた瞬間、その表情が、ふっと緩んだ。
目を閉じて、もう一口。
何かを噛み味わうように、ゆっくりと味わっている。
「あら、本当に。なんだか、おばあちゃんの作る煮魚みたいな味がする」
その言葉に、哲也の胸が、じんと熱くなった。
技術の正確さを誇示するためではなく、誰かの記憶に触れるための料理。
それが、お増から学んだことの、何よりの実践だった。
次に来たのは、若い男性会社員だった。
スーツ姿で、休日出勤の合間に立ち寄ったらしい。
「正直、こういう屋台の料理は当たり外れがあるんで、ちょっと迷ってたんですけど」
「分かります。私も、ほぼ毎日、初対面の人に商品を売る仕事をしているので、その迷いはよく分かりますよ」
哲也が、そう笑って答えると、男性も、つられて笑った。
警戒していた表情が、少し緩んだのが分かった。
「じゃあ、その営業マンが太鼓判を押す一品、いただきます」
男性は、そう言って、一皿を受け取った。
一口食べた後、彼は、しばらく無言で、何度も頷いていた。
その後も、客は途切れることなく訪れた。
年配の男性は、一口食べて、何も言わずに、ただ静かに頷いた。
小さな子供を連れた母親は、子供が美味しそうに食べる様子を見て、安堵したような笑顔を見せた。
それぞれの反応は違っていたが、共通していたのは、誰もが、ほんの一瞬、何かを思い出すような表情を見せることだった。
客は、次第に増えていった。
哲也は、注文を取りながら、それぞれの客に、少しずつ違う言葉をかけた。
子供連れの家族には「お子さんでも食べやすいように、辛みは抑えてます」、年配の客には「優しい味付けにしてあります」。
それは、商品説明というよりも、相手の暮らしを想像しながら言葉を選ぶ、もう一つの会話だった。
「あんた、客あしらいが上手いね」
お増が、鍋をかき混ぜながら、横目でそう言った。
「料理人としては、まだまだですけどね」
「いや、それも才能だよ。腕がいいだけの料理人なんて、案外いくらでもいる。だけど、客の顔を見て、欲しい言葉をすぐに渡せる人間は、そう多くない」
お増は、そう言って、鍋に向き直った。
その背中越しに、もう一言、付け加えるように呟いた。
「あんたの二十六年は、無駄じゃなかったってことだよ」
その言葉が、哲也の中で、ゆっくりと染み込んでいった。
これまで、自分の二十六年間を、夢から逃げた、空白の時間だと思い込んでいた。
安定のために、本当にやりたかったことを諦めた、屈服の歴史だと。
だが、今、客の前に立ちながら、哲也は、初めて違う見方ができていた。
商談先で、何百人もの担当者と向き合ってきた経験。
相手の表情から、本当の要望を読み取る技術。
それらは、ただの会社員としての処世術ではなく、今、この一皿を、誰かの心に届けるための、確かな力になっていた。
商談相手の顔色から、契約を結べるかどうかを読み取ってきた日々。
クレーム対応で、相手の怒りの裏にある本当の不満を聞き取ってきた経験。
そうした一つ一つが、今、屋台の前に立つ客の表情を読むための、確かな土台になっている。
ふと、あの夜、自分に問いかけた言葉を、哲也は思い出していた。
家族を守るという名目で、結局は自分自身を守っていただけではなかったか――その問いに、今、初めて、別の答えを出せる気がした。
守っていたのは、自分自身ではなく、知らず知らずのうちに育ててきた、もう一つの力だったのかもしれない。
二十六年は、空白ではなかった。
パリで学んだ技術と、営業マンとして積み重ねてきた経験。
どちらも、今この瞬間のために、必要なものだったのだ。
ソースを仕上げながら、哲也は、もう一度、レシピの全体を思い返した。
ベルトランから受け継いだ、丁寧な火加減の知識。
お増が教えてくれた、相手を想って加える、ひとさじの隠し味。
そして、恵が、若い頃に夢見ていた、栗とラム酒の組み合わせ。
どの要素も、単体では、ただの技術や記憶に過ぎなかった。
それが、一つの皿の上で重なり合った時、初めて、哲也だけの味になった。
仕上げに振りかけた、出汁の香りが、湯気とともに立ち上る。
フランス料理特有の濃厚さの中に、どこか、和食を思わせる軽さが残っている。
誰も見たことのない、けれど、誰の舌にも、どこか馴染みのある味だった。
皿の上で、ソースは、淡い琥珀色に輝いていた。
フランス料理の華やかさと、家庭料理の温かさが、同じ一皿の中で、不思議と喧嘩せずに共存している。
ふと、今この時間、浜田が、本社の会議室で、自分の代わりに資料を説明しているはずだと、哲也は思い出した。
心の中で、小さく「頼んだぞ」と呟く。
後悔は、不思議となかった。
行列が、少しずつ伸びていく。
お増の屋台は、いつしか、商店街でも目立つ存在になっていた。
通りすがりの人々が、行列を見て、何の店か気になって立ち止まる。
口コミは、あっという間に広がっていった。
お増にとっても、こんなに賑わう屋台に立つのは、何年ぶりのことだったか。
額に滲む汗を拭いながらも、その表情は、どこか晴れやかだった。
「最後にこんな景色が見られるとは、思わなかったよ」――お増が、誰に言うともなく、そう呟いた。
その一言には、長年一人で店を守ってきた女将の、様々な思いが詰まっているようだった。
哲也は、それに何と返せばいいか分からず、ただ静かに、次の客への準備を続けた。
「人気じゃないか、あんたの皿」
お増が、満足そうに笑った。
哲也は、何と答えればいいか分からず、ただ深く頭を下げた。
これまでの自分の人生のすべてが、今、この屋台の上で、一つに繋がっていく感覚があった。
後悔も、誇りも、その両方を抱えたまま、それでも前に進んできた二十六年間。
それは、決して無駄ではなかった。
少し離れた人垣の中で、慶太と恵は、その光景を、まだ見つめ続けていた。
「すごい人気だね」
慶太が、小さくそう呟いた。
恵は、何も答えなかった。
ただ、行列の向こうに見える夫の姿を、瞬きも忘れたように見つめていた。
二十年以上、隣で暮らしてきたはずの男が、今、まったく知らない誰かのように見えた。
それでも、その知らない誰かは、確かに、自分が長年信じ続けてきた哲也そのものだった。
二人とも、まだ、声をかける勇気が持てなかった。
哲也の世界に、自分たちが踏み込んでいいのか、分からなかった。
これまで、哲也が見せてこなかった顔を、今、初めて目にしている。
その実感だけで、二人とも、胸がいっぱいだった。
しばらくの沈黙の後、慶太が、先に口を開いた。
「……並んでみる?」
慶太が、恵の方を見て、そう聞いた。
恵は、しばらく迷ってから、小さく頷いた。
声をかけてしまえば、もう、後には戻れない。
それでも、これ以上、遠くから見ているだけでは、何かが足りないと、二人とも、同じように感じていた。
慶太は、歩きながら、自分のスマートフォンには、もう一度も手を伸ばさなかった。
この光景を、画面の中に閉じ込めるつもりは、今は、なかった。
二人は、人垣を離れ、行列の最後尾へ、ゆっくりと歩み寄っていった。
哲也は、まだ、そのことに気づいていなかった。
行列は、少しずつ短くなっていく。
二人の番が来るまで、もう、そう長くはかからないはずだった。




