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第二十話 突然の客

 午後の日差しが、少しずつ傾き始めていた。

 客の波も、ようやく落ち着きを見せ始めた頃だった。


 次の注文を受けようと、哲也が顔を上げた瞬間、視線が止まった。

 行列の中、数人先に、見覚えのある顔があった。

 恵だった。

 その隣には、慶太も並んでいる。

 二人とも、いつもの普段着のままだった。

 慌てて出てきたのか、恵の髪は、いつもより少し乱れていた。


 哲也は、しばらく、自分の目を疑った。

 何度も、瞬きを繰り返した。

 それでも、視界の中の二人は、消えなかった。

 なぜ、二人が、ここにいるのか。

 商店街のイベントのことを、家族には何も話していなかったはずだった。

 手元のヘラが、思わず止まった。

 鍋の中の出汁が、少し焦げつきそうになり、哲也は慌てて火を弱めた。


 誰にも見せるつもりのなかった自分の挑戦が、いつの間にか、家族の目に触れていたという事実が、哲也の頭の中を、一瞬で真っ白にした。

 会議のことも、一瞬、頭から消えていた。

 今、目の前にある現実の方が、はるかに重く、はるかに鮮明だった。


「どうしたんだい」

 お増が、その様子に気づいて、声をかけてきた。

 哲也は、言葉に詰まりながら、行列の方を、目だけで示した。

 お増は、その視線をたどり、すぐに気づいたようだった。

 何か言いかけて、それ以上は何も言わず、ただ小さく頷いた。

 お増の目には、何かを見透かしたような、優しい光があった。

 それ以上、何も聞かれなかったことが、哲也には、むしろありがたかった。


「行ってきな、なんて言わなくても、あんたはもう、行く気でいるんだろう」

 お増の言葉に、哲也は、小さく頷くことしかできなかった。

「あんたの番だよ」

 お増の声に押されるように、哲也は、再び手を動かし始めた。

 だが、心臓は、ずっと早く打ち続けていた。

 恵と慶太は、行列の前の方にいる客たちに紛れて、まだこちらに気づいていない様子だった。

 あるいは、気づいていて、わざと声をかけずにいるのかもしれない。


 哲也の頭の中で、様々な考えが渦巻いた。

 二人は、いつから、ここを知っていたのだろう。

 もしかしたら、これまでの自分の様子を、ずっと見ていたのかもしれない。

 震える手で台所に立っていた、あの夜のことも。

 その可能性に気づいた瞬間、恥ずかしさと、そして、不思議な安堵が、同時に押し寄せてきた。

 隠してきたものを、すでに知られているのなら、もう、これ以上、何かを取り繕う必要はない。

 それでも、二人がどんな顔でこちらを見ているのか、想像するだけで、足がすくむような感覚があった。

 軽蔑されているのか、それとも、別の何かなのか。

 哲也には、判断がつかなかった。


 順番が、近づいてくる。

 哲也は、いつものように注文を取りながら、その時を待った。

 ついに、恵と慶太が、屋台の前に立った。


「……いらっしゃい」

 哲也の声は、自分でも驚くほど、かすれていた。

 いつも客に向ける、慣れた笑顔を作ろうとしたが、うまく作れなかった。

 代わりに出てきたのは、ただの、剥き出しの表情だった。

 恵は、何も言わず、ただ哲也の顔を見つめていた。

 慶太も、視線を合わせようとはしなかったが、逸らすこともしなかった。

 その中途半端な距離感が、かえって、慶太の正直さを表しているように、哲也には感じられた。


「二人分、お願いします」

 慶太が、それだけ言った。

 声は、小さく震えていた。

 その震えが、父親に対する緊張からくるものなのか、それとも、別の感情からくるものなのか、哲也には、判断がつかなかった。

 それでも、その声が、確かに、自分に向けられたものであることだけは、はっきりと感じられた。


 哲也は、頷いて、二皿分の支度を始めた。

 手元が、いつもより緊張しているのが分かった。

 震えではなく、別の種類の緊張だった。

 仕上げのソースを、丁寧に回しかける。

 これまでで、一番丁寧に。

 一番、心を込めて。


 手元は、もう震えていなかった。

 けれど、震え以上に強い緊張が、指先から肩まで、ぴんと張っていた。

 これまで何百という客に出してきた皿とは、まったく違う重みが、この二皿にはあった。

 慶太の皿には、辛みをわずかに抑えた。

 恵の皿には、出汁の香りを、少し強めに。

 たった数日前に芽生えた、家族の好みへの想像力が、今、初めて、実際の形になっていく。


 屋台の脇には、簡易の長椅子とテーブルが、いくつか並んでいた。

 食べる場所がない客のために、商店街が用意したものだった。

 会議のことも、お増との約束のことも、もう、すべて片付いていた。

 今、自分の前にあるのは、ただ、家族という、最も向き合うことを避けてきた現実だけだった。

 哲也は、皿を二つ手に取り、自分から、その椅子の方へ歩き出した。

「俺が、運ぶよ」

 お増に、それだけ言って、屋台を出る。

 短い距離が、ひどく長く感じられた。

 一歩ごとに、心臓が、喉元まで上がってくるような感覚があった。

 皿を持つ手から、料理がこぼれないよう、いつもより慎重に、一歩一歩を確かめながら進んだ。


 テーブルに着いていた恵と慶太の前に、哲也は、皿を置いた。

「……食べてみてくれ」

 それだけしか、言葉が出てこなかった。

 二十年ぶりに、自分の作った料理を、家族の前に置くという行為が、こんなにも、言葉を奪うものだとは、思っていなかった。

 最後に家族のために何かを作ったのは、結婚してすぐの頃、恵の誕生日に、不器用な手つきでオムレツを焼いた時だったか。

 あの時はまだ、包丁を握っても、震えることはなかった。

 それから二十年、自分は、台所から、完全に遠ざかっていた。

 言葉で説明できることなら、もっと早くに、何か言えていたはずだった。

 二十年分の沈黙を、言葉で埋めることは、もう、哲也にはできなかった。

 それでも、この一皿になら、何か伝えられるものがあるはずだと、哲也は、信じるしかなかった。


 恵は、皿の上の料理を、しばらく見つめていた。

 フランス風の盛り付けに、和の出汁の香りが、ふわりと立ち上っている。

 その香りに、何かを感じたのか、恵の喉が、小さく動いた。

 恵の目が、わずかに潤んでいるように見えた。

 だが、まだ涙がこぼれるところまでは、いっていなかった。

 彼女は、ただ、皿の上の料理を、食い入るように見つめ続けていた。

 慶太も、何も言わず、皿を見ていた。

 いつもスマートフォンの画面ばかり見ていた慶太が、今は、画面に一度も目を落とさず、ただ、目の前の皿だけを見つめていた。

 慶太の中では、あの夜、震える手でニンジンに向き合っていた父の姿と、今、目の前で、堂々と料理を運んできた父の姿が、まだうまく重なっていなかった。

 それでも、その両方が、同じ一人の人間の中にあるのだということだけは、はっきりと感じられた。


 哲也は、その場に立ったまま、二人の反応を待った。

 逃げ出したい気持ちと、今この瞬間から、絶対に離れたくない気持ちが、同時に胸の中にあった。

 二十年前、パリの厨房を去った時、自分は、誰の反応も待たずに、ただ逃げ出した。

 今は、逃げ出すことだけは、どうしてもできなかった。


 恵が、ゆっくりと、フォークを手に取った。

 その手が、少し震えているのが、哲也の目にも見えた。

 周りでは、相変わらず、子供たちの笑い声や、他の屋台の呼び込みの声が、賑やかに響いていた。

 その喧騒の中で、この小さなテーブルだけが、まるで別の時間の中にあるようだった。

 誰も、何も言わなかった。

 屋台の喧騒だけが、三人の周りを、遠く包んでいた。

 数秒が、数分にも感じられるほど、長く伸びていった。

 哲也は、その沈黙の重さに耐えながら、ただ、二人の次の動きを待ち続けた。

 フォークの先が、皿の上の一切れに、ゆっくりと近づいていく。

 哲也は、息を止めて、その動きを見つめていた。

 時間が、ひどくゆっくりと流れているように感じられた。

 これまでの二十六年間の、すべての選択が、今、この一瞬に、収束していくようだった。

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