第八話 苛立ちの矛先
午後の遅い時間、慶太はいつものように、布団の中でスマートフォンの画面を眺めていた。
動画サイトを眺めていると、ふと、ひとつの投稿が目に留まった。
「脱サラして三年、念願のパン屋を開業しました」
慶太と同じくらいの年頃に見える男が、白い粉のついた手で、焼き上がったパンを誇らしげに掲げている。
コメント欄には、称賛の言葉が並んでいた。
すごい、勇気がある、夢を叶えてかっこいい。
動画の再生回数は、もう五十万を超えていた。
慶太は、何の気なしに開いたその動画に、なぜか目が離せなくなっていた。
動画の中の男は、何度も失敗した話を、笑いながら語っていた。
最初の半年は赤字で、家族にも反対された、と。
それでも、今は楽しそうに、自分の店の話をしている。
慶太には、その「楽しそう」という部分が、一番受け入れがたかった。
慶太は、その動画を最後まで見ることができなかった。
途中で画面を閉じ、スマートフォンを布団の上に投げるように置いた。
別に、その男に何かを言われたわけではない。
なのに、胸の奥が、ちりちりと焼けるように熱くなっていた。
その感覚に、慶太は覚えがあった。
父の背中を見るたびに浮かんでくる、あの苛立ちと、よく似ていた。
父は、昔、料理人になりたかったらしい。
母が、ずっと前に、ぽつりとそう漏らしたことがあった。
「お父さんも、昔は違う道を考えてたのよ」。
母がそう言った時の表情を、慶太は今でも覚えている。
どこか寂しそうな、それ以上聞いてほしくないような顔だった。
だから、慶太もそれ以上、深く尋ねることはなかった。
詳しいことは何も知らない。
ただ、その夢を、父は途中で諦めて、今の会社に入った。
そういうことだけは分かっていた。
夢を諦めて、安定を選んだ男。
家では何も語らず、ただ仕事だけをこなして帰ってくる男。
慶太は、父のその背中を見るたびに、軽蔑に近い感情を抱いていた。
小学生の頃、父が休日に台所で何かを作ろうとして、結局失敗して笑っていたのを、慶太はぼんやりと覚えている。
あの頃の父は、もう少し、笑うことが多かった気がする。
いつから、あんなに無口になったのか、慶太にはよく分からない。
夢を追うことから逃げて、会社の歯車になることを選んだくせに、たまに、まるで人生の先輩のような顔で、慶太に「最近どうだ」と聞いてくる。
その図々しさに、いつも苛立った。
先日も、夕飯の席で「最近どうだ。何か、考えてることあるのか」と聞かれた。
慶太は、その問いに、いつも同じ言葉でかわしてきた。
「……特に、ないよ」。
それ以上、何かを話す気にはなれなかった。
「焦らなくていいから」と、父は続けてそう言おうとして、言葉を途中で止めた。
あの時の中途半端な優しさも、慶太には、どこか居心地が悪かった。
最後まで言わないなら、最初から何も言わなければいいのに、と思った。
お前に、何が言えるんだ。
お前自身、夢を諦めて逃げた人間じゃないか。
そう思うたびに、何かが胸の中で小さく爆ぜた。
けれど、その怒りを、面と向かって父にぶつけたことは一度もなかった。
ぶつけたところで、何かが変わるとも思えなかったし、何より、父の顔を見て、はっきりと言葉にすることが、なぜか怖かった。
動画の中の男のことを、もう一度思い出す。
彼は、安定した会社を自分の意思で辞め、夢に向かって歩き出した。
慶太も、会社を辞めた。
けれど、慶太の場合は、辞めた先に何もなかった。
歩き出す方向すら、見つけられていない。
動画の男には、目指す場所があった。
父には、たとえ諦めたとしても、選び直した場所があった。
自分には、どちらもなかった。
会社に入った頃は、慶太にも、ぼんやりとした将来の絵があった。
営業として経験を積んで、いつかは独立する。
そんな漠然とした夢を、本気で語ったこともある。
今は、そんな自分がいたことすら、思い出すのが恥ずかしかった。
ふと、ある考えが、頭の隅をちらりと過ぎった。
父を軽蔑する資格が、自分にあるのだろうか。
一度浮かんだその問いは、簡単には消えてくれなかった。
考えないようにしようとするほど、却って頭の中で大きくなっていく。
父は、夢を諦めたとしても、その後二十年以上、ちゃんと働き続けてきた。
家族のために、毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、頭を下げ続けてきた。
それがどれだけ虚しい人生だったとしても、少なくとも、逃げ続けてはいなかった。
父は、少なくとも二十年以上、同じ仕事を続けてきた。
慶太は、たった一年半で、それを投げ出した。
その差を、数字で考えるだけで、惨めな気持ちになった。
ふと、沙耶の顔が頭に浮かんだ。彼女は、ちゃんと就職して、ちゃんと働き続けている。
慶太の周りにいる人間は、誰も彼も、何かを選び、その道を歩き続けている。
自分だけが、どの道にも乗れていない。
自分はどうだ。
会社を辞めてから、もう三月以上、何もしていない。
求人サイトを眺めるだけで、応募する勇気さえ出せない。
父よりも、もっと深く、もっと早く、何かから逃げ出してしまった。
その考えに行き着いた瞬間、慶太の中で、苛立ちの矛先が、急に行き場を失った。
父に向けていたはずの軽蔑が、急に方向を変えて、自分自身に向かって戻ってくる。
それは、父に対する怒りよりも、何倍も鋭く、何倍も重かった。
父を見下していたつもりが、いつの間にか、自分自身を見下す材料を探していたのかもしれない。
そう思うと、これまで抱いていた苛立ちの正体が、急に分からなくなった。
父が憎いのか、自分が情けないのか、その境界線が、もうよく分からなくなっていた。
たぶん、最初からそんな境界線など、なかったのかもしれない。
慶太は、その感覚から逃げるように、急いで別の動画を再生した。
誰かの猫が、箱に入ろうとして失敗する、何の意味もない動画だった。
部屋の中を、意味もなく一往復した。
座り直して、また画面を見る。
落ち着かない気持ちを、どこにぶつければいいのか、自分でも分からなかった。
画面の中の猫を見ながら、慶太は、自分の頭の中で起きたことを、なるべく早く忘れようとした。
忘れたつもりでも、その考えは、夜になっても、何度も戻ってきた。
父を見下す資格なんて、自分にはないのかもしれない。
けれど、その考えを正面から認めてしまったら、これまで自分を支えてきた、薄っぺらい正当化が、すべて崩れてしまう気がした。
このまま考え続けても、答えは出ないことが分かっていた。
それでも、考えずにいることもできなかった。
堂々巡りの中で、慶太はただ、時間だけをやり過ごしていた。
それでも、父の背中を見る目だけは、もう前と完全に同じではいられない気がした。
軽蔑したいのに、うまく軽蔑できない。
その中途半端な感覚が、何より気持ち悪かった。
だから、慶太は、その考えに、まだ名前をつけることができなかった。
ただ、行き場のない苛立ちだけが、誰にも向けられないまま、胸の奥で、じっと重く沈んでいった。
カーテンの隙間から漏れる光が、いつの間にか、夕方の色に変わっていた。




