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第七話 三膳の箸

 夕方の台所には、出汁の匂いが満ちていた。

 恵は、煮物の鍋に火を入れながら、窓の外がゆっくりと藍色に変わっていくのを、目の端で追っていた。

 この時間が、一日の中で一番、何も考えずにいられる時間だった。

 パートにも出ず、一日のほとんどを家の中で過ごす生活が、もう何年も続いている。

 誰かと言葉を交わす時間は、驚くほど少ない。

 哲也の左手の指に、小さな絆創膏が貼られていることに、恵が気づいたのは、その日の夕食の支度の最中だった。


「どうしたの、それ」

 聞くと、哲也は箸を取りながら、視線を逸らした。

「……ちょっと、油で跳ねただけだ」

 それ以上は何も言わず、哲也は新聞に視線を落とした。

 会話を、そこで終わらせるための仕草だった。

 恵には、その仕草の意味がよく分かっていた。


 嘘だということは、すぐに分かった。

 油で跳ねた傷と、刃物で擦った傷とでは、形がまるで違う。

 けれど、恵はそれ以上、何も尋ねなかった。

 長い結婚生活の中で、彼女はそういう距離の取り方を覚えていた。


 漆塗りの盆から、箸を三膳取り出す。

 恵は、毎晩同じ手順で、それを丁寧に並べていく。

 先を揃え、箸置きにそっと乗せる。

 慶太の分は、今夜も食卓に着くかどうか分からない。

 それでも、並べないという選択肢は、恵の中には一度もなかった。


 箸を置く時の、かすかな音。木と木が触れ合う、ほんの小さな響き。

 恵にとって、それは祈りに似ていた。

 声に出して願うことができない分だけ、この音に、想いを込めているような気がしていた。

 三つの箸置きを、いつも同じ位置に揃える。

 哲也の分は右端、慶太の分は左端、自分の分は真ん中。

 誰かに教わったわけでもない、

 二十年以上続けてきた、自分だけの順番だった。


 哲也の過去について、恵が知っていることは、実のところそう多くない。

 哲也と恵が出会ったのは、まだ二人とも二十代の頃だった。

 恵は、当時通っていた洋菓子店の見習い仲間の紹介で、哲也と知り合った。

 本気で料理人を目指していた彼の眼差しに、恵は強く惹かれた。

 だが、彼がパリへ修行に出てからは、しばらく連絡が途切れていた。


 再び会うようになったのは、哲也がパリから戻ってきてからのことだった。

 以前よりも痩せて、口数が少なくなっていた。

 ある夜、二人で食事をした帰り道、川沿いの道を歩いていた。

 哲也は、その夜珍しく、ワインを多めに飲んでいた。

 月明かりに照らされた横顔が、いつもより少しだけ、頼りなく見えた。

 彼は、酔った勢いで、ぽつりとこう言った。


「……大切なものを、台無しにした」

「何があったの」

「もう、その話は」

 それだけだった。

 恵は、それ以上聞かなかった。

 聞いてはいけないことだと、その時の哲也の顔を見て分かった。


 結婚してからも、欠片のようなものが、時々こぼれ落ちることがあった。

 新婚の頃、たまたまバターを焦がしてしまった恵に、哲也が珍しく声を荒らげたことがある。

 あとで彼は何度も謝ってきたが、あの時の哲也の目に浮かんだ怯えだけは、恵の中にずっと残った。

 あの怯えは、恵が日々一緒に暮らしてきた哲也のものとは、まるで違う表情だった。

 まるで、何かに追われているような、子供のような目だった。

 それを見た瞬間、恵は、これ以上深くは踏み込まないと、心の中で決めた。


 それでも、新婚の頃には、笑い合う夜も確かにあった。

 哲也が、覚えたばかりの英語の歌を、下手な発音で歌ってみせたこと。

 休みの日に、二人で近所の公園まで歩いて、コンビニのアイスを分けて食べたこと。

 そんな何でもない記憶が、恵の中には、まだ温かいまま残っている。


 欠片を繋ぎ合わせても、全体の形は分からない。

 けれど、哲也が一度、料理人になる夢を持っていたこと、それを自分の手で壊してしまったこと、そのことだけは、確かに分かっていた。

 だから恵は、彼に料理を頼んだことが一度もなかった。

 包丁を持たせたことも、台所に立たせたこともなかった。

 それが、彼女にできる、唯一の優しさだと思っていた。


 息子の慶太についても、恵は似たような距離を保っていた。

 何も聞かず、何も急かさず、ただ毎日、彼の分の箸を並べる。

 それが、今の自分にできる、せめてものことだった。

 今夜も、慶太の箸は、もしかしたら一度も持ち上げられないかもしれない。

 それでも、恵はその箸を、丁寧に磨いてから箸置きに乗せた。


 味噌汁の鍋をかき混ぜながら、恵は、夫の背中を思い出す。

 会社に行く時の、しっかりと伸びた背筋。

 家に帰ってきた時の、わずかに丸まった肩。

 その差を、恵はいつも黙って見ていた。


 二十年以上、哲也は家で何も語らなかった。

 恵もまた、何も聞かなかった。

 それは、お互いを思いやる優しさのつもりだった。

 けれど、その優しさが、いつの間にか、二人の間に分厚い壁を作っていたことにも、恵は気づいていた。

 壁を壊す勇気は、恵にはまだなかった。

 壊した先に何があるのか、想像するだけで、恵自身も怖くなることがあった。


 ときどき、恵は自分が、この家の中で、誰からも必要とされていない透明な存在になったように感じることがあった。

 夫は仕事に、息子は自分の部屋に、それぞれの世界を持っている。

 恵だけが、その狭間で、毎日同じことを繰り返している。

 それでも、それを寂しいと言葉にしたことは、一度もなかった。

 寂しさを認めてしまえば、これまで積み重ねてきた毎日の意味まで、崩れてしまう気がした。


 慶太が部屋に戻り、哲也と二人だけになった食卓で、恵は時々、こんなことを考える。

 もし、いつか哲也が、本当の自分を取り戻す日が来たら。

 そんな日が来ると信じる根拠は、何もなかった。

 それでも、恵は信じることをやめなかった。

 信じることだけが、彼女が彼のためにできる、たった一つのことだったから。


 食事を終え、皿を片付けていると、押し入れの奥にしまった古い手帳のことを、ふと思い出した。

 もう何年も、開いていない手帳だった。

 中には、若い頃に書き留めた、いくつかの菓子のレシピが残っている。

 それを見るたび、恵の中にも、小さく疼く何かがあった。

 けれど、その疼きに名前をつけることを、彼女はずっと避けてきた。

 哲也にも、慶太にも、その手帳の存在を話したことはなかった。

 誰にも見せないまま、ただそこにあるだけでいい。

 そう思って、何年も引き出しの奥に押し込んできた。

 もし今、その手帳を開いたら、自分の中の何かが、収まりがつかなくなってしまう気がした。

 だから、開かない。

 開かないことが、この家族を守るための、もう一つの方法だった。


 水を出す音だけが、静かな台所に響く。恵は、洗い終えた箸を布巾で拭きながら、明日もまた、同じように三膳の箸を並べるだろうと思った。

 最近、哲也の帰りが、以前より少し遅くなることが増えていた。

 理由を聞いても、はっきりとした答えはない。

 それでも、恵は、その変化を、悪いことだとは思わなかった。

 むしろ、何かが、ゆっくりと動き始めているような、そんな予感があった。

 理由を、もう誰にも説明できなくなっていても。

 それでも、並べることだけは、やめないでいようと思った。


 窓の外では、もう夜がすっかり満ちていた。

 恵は、明かりを一つだけ消し残し、台所をそっと後にした。

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