表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/18

第六話 パリの幻影

 哲也は、布巾を巻かれた左手の指先を見つめながら、なかなか寝付けなかった。


 隣で恵は、もう静かな寝息を立てている。

 震えは、もうほとんど治まっていた。

 けれど、お増に見透かされた言葉だけが、何度も頭の中で繰り返されていた。

「包丁を、怖がってるね」

 その一言は、刃物のように、まっすぐ哲也の奥深くまで入り込んでいた。


 二十年以上、誰にも見せずに済んできたものを、たった一度で見抜かれてしまった。

 哲也は、目を閉じて、今夜はもう何も考えないようにしようとした。

 だが、いつもなら途中で押し戻していた記憶が、今夜は、堤防が崩れたように、なだれ込んできた。


 それは、もう二十六年前のことだった。

 哲也は、二十八歳だった。

 パリ十六区にある小さなレストランの厨房で、見習いから数えて五年目になる。

 シェフのベルトランは、頑固で口数の少ない男だったが、料理に対する厳しさだけは、誰よりも本物だった。

 日本で働いていた頃、偶然読んだ雑誌でベルトランの店を知り、矢も盾もたまらず、渡航費用を貯めてこの店を訪ねた。

 住む場所も、言葉も、ほとんど分からないまま飛び込んだ二十二歳だった。


「お前は、手先は悪くない。だが、まだ料理が分かっていない」

 厳しい言葉の合間に、ベルトランが見せる小さな仕草――皮を剥く哲也の手元を、黙ってじっと見てくれる時間や、出来上がった一皿を味見して、ほんの一瞬だけ目を細める表情。

 それだけで、哲也は救われる気がした。

 ベルトランは、よくそう言っていた。

 それでも、哲也は腐らなかった。

 早朝の仕込みから深夜の片付けまで、誰よりも長く厨房に立ち続けた。

 いつか、ベルトランの店で、自分の名前を冠した一皿を出せるようになりたい。

 そう本気で思っていた。


 休みの日には、市場に通って魚や野菜を見て歩いた。

 安い赤ワインを片手に、レシピ帳に思いついたことを書き込む夜が、何より楽しかった。

 日本にいた頃は感じたことのない、生きている実感が、そこにはあった。

 店には、ベルトランが決して他の誰にも作らせない一品があった。

 ソース・マリー=アンジュ。

 亡くなった母の名を冠した、バターと魚の出汁だけで仕立てる、繊細極まりないソースだった。

 火加減を一瞬でも誤れば、バターは分離し、香りも、艶も、すべて台無しになる。

 仕上がった時の色は、淡い黄金色をしていた。

 舌に乗せると、まず魚の出汁の旨みが広がり、その奥から、バターの甘い香りが追いかけてくる。

 一度食べた客は、必ずもう一度頼む――そう言われるほどの一皿だった。


「弱火だ。急ぐな。沸かすんじゃない、なだめるんだ」

 ベルトランが、まだ教え始めだった哲也に、何度もそう言って聞かせたことを、よく覚えている。

 あの低く、苦々しい響きを持った声――それは、怒っているのではなく、何より大切なものを守ろうとする者の声だった。


 その日の夜、店は創業二十周年を祝う特別な夜だった。

 常連客が次々と訪れ、厨房は戦場のような忙しさだった。

 オーダーを叫ぶ声、鍋がぶつかる音、皿を運ぶ足音。

 哲也は、その喧騒の中でも、自分の持ち場だけは絶対に乱さないよう、必死に集中していた。

 ベルトランは、別の皿の指示で手が回らず、ふと哲也を呼んだ。

「マリー=アンジュを、お前が仕上げろ」

 その一言に、哲也の胸は震えた。

 五年間、誰にも触れさせなかったソースを、初めて任された。

 これは、認められた証だと思った。

 ようやく、本物の料理人として見てもらえたのだと。


 鍋の前に立つ。

 バターを少しずつ落とし、木べらでゆっくりと馴染ませていく。

 順調だった。

 香りも、艶も、教わった通りに仕上がりかけていた。

 あと少しで完成する。

 哲也は、自分の手が、初めてこの店の心臓部に触れている感覚に、誇らしさを覚えていた。


 その時、裏口の方から、配達の荷物について誰かが哲也の名前を呼んだ。

 日本語ではない、聞き慣れたはずの呼び声だった。

 それでも、その一瞬だけ、哲也の意識は鍋から離れてしまった。

 視線が、ほんの一瞬、鍋から逸れた。

 たった数秒のことだった。


 視線が戻った時、鍋の底から、焦げた匂いが立ち上っていた。

 バターは、茶色く分離し、なめらかだったはずの表面に、黒い斑点が浮いていた。

 哲也は、慌てて鍋を火から外したが、もう遅かった。

 スプーンで掬っても、もうあの淡い黄金色は戻らなかった。


 哲也は、何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

 ただ、立ち尽くしたまま、その黒い斑点を見つめていた。

 ベルトランが、別の鍋を置いて、こちらに気づいた。

 彼は、何も言わずに歩いてきて、鍋の中を覗き込んだ。

 長い沈黙があった。


「……母のソースを、お前は焦がした」

 それだけだった。

 怒鳴られることも、皿を投げられることもなかった。

 ベルトランは、ただそう言って、哲也から目を逸らし、別の作業に戻っていった。


 その夜以降、ベルトランは、哲也に二度と重要な仕事を任せなかった。

  指示は他の見習いを通して伝えられ、直接言葉をかけられることもなくなった。

 一週間後、哲也は自分から、店を辞める旨を伝えた。

 ベルトランは、それにも何も言わなかった。


 最後の日、厨房を出る時、哲也はベルトランの背中に向かって深く頭を下げた。

 返事はなかった。

 それでも、これだけは伝えたいと思って、フランス語で「すみませんでした」と口にした。

 ベルトランの肩が、わずかに動いた気がしたが、振り返ることはなかった。


 帰りの飛行機の中で、哲也は、自分の中の何かが、完全に終わったのを感じていた。

 包丁を握る手は、もうあの夜から、小さく震えるようになっていた。

 窓の外に広がる雲を眺めながら、哲也は、自分が何を失ったのか、まだ正確には分かっていなかった。

 分かっていたのは、もう二度と、あの厨房には戻れないということだけだった。


 日本に戻り、結婚を考えていた恵に再び会った時、哲也は、料理人になる夢のことを、もう口にしなかった。

 代わりに、安定した会社に就職し、家族を支えることに、自分の人生の意味を見出そうとした。

 それは、夢から逃げるための、もっとも分かりやすい言い訳だった。

 恵は、何も聞かずに、哲也の決めたことを受け入れた。

 彼女がどこまで気づいていたのか、哲也は今でも分からない。


 布団の中で、哲也はゆっくりと目を開けた。

 窓の外は、まだ暗い。

 二十六年経った今でも、「弱火だ。急ぐな」という声が、耳の奥に残っている。

 あの声に応えられなかった自分を、哲也は一度も許せたことがなかった。

 包丁を持つたびに、あの夜の黒い斑点が、まぶたの裏に浮かんでくる。

 だから、ずっと逃げてきた。

 逃げることだけが、これ以上何かを焦がさずにいる、唯一の方法だと思っていた。

 それでも今夜、初めて思った。

 もし、もう一度だけ、あの鍋の前に立てるなら。

 今度こそ、誰かの大切なものを、焦がさずに済むなら――。

 その思いは、長い後悔の底から、ひどく不確かな、けれど確かに哲也自身のものである声として、静かに浮かび上がっていた。


 哲也は、震える左手の指先を、もう一度、そっと握り直した。

 今度は、何かを隠すためではなく、何かを確かめるための握り方だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ