第六話 パリの幻影
哲也は、布巾を巻かれた左手の指先を見つめながら、なかなか寝付けなかった。
隣で恵は、もう静かな寝息を立てている。
震えは、もうほとんど治まっていた。
けれど、お増に見透かされた言葉だけが、何度も頭の中で繰り返されていた。
「包丁を、怖がってるね」
その一言は、刃物のように、まっすぐ哲也の奥深くまで入り込んでいた。
二十年以上、誰にも見せずに済んできたものを、たった一度で見抜かれてしまった。
哲也は、目を閉じて、今夜はもう何も考えないようにしようとした。
だが、いつもなら途中で押し戻していた記憶が、今夜は、堤防が崩れたように、なだれ込んできた。
それは、もう二十六年前のことだった。
哲也は、二十八歳だった。
パリ十六区にある小さなレストランの厨房で、見習いから数えて五年目になる。
シェフのベルトランは、頑固で口数の少ない男だったが、料理に対する厳しさだけは、誰よりも本物だった。
日本で働いていた頃、偶然読んだ雑誌でベルトランの店を知り、矢も盾もたまらず、渡航費用を貯めてこの店を訪ねた。
住む場所も、言葉も、ほとんど分からないまま飛び込んだ二十二歳だった。
「お前は、手先は悪くない。だが、まだ料理が分かっていない」
厳しい言葉の合間に、ベルトランが見せる小さな仕草――皮を剥く哲也の手元を、黙ってじっと見てくれる時間や、出来上がった一皿を味見して、ほんの一瞬だけ目を細める表情。
それだけで、哲也は救われる気がした。
ベルトランは、よくそう言っていた。
それでも、哲也は腐らなかった。
早朝の仕込みから深夜の片付けまで、誰よりも長く厨房に立ち続けた。
いつか、ベルトランの店で、自分の名前を冠した一皿を出せるようになりたい。
そう本気で思っていた。
休みの日には、市場に通って魚や野菜を見て歩いた。
安い赤ワインを片手に、レシピ帳に思いついたことを書き込む夜が、何より楽しかった。
日本にいた頃は感じたことのない、生きている実感が、そこにはあった。
店には、ベルトランが決して他の誰にも作らせない一品があった。
ソース・マリー=アンジュ。
亡くなった母の名を冠した、バターと魚の出汁だけで仕立てる、繊細極まりないソースだった。
火加減を一瞬でも誤れば、バターは分離し、香りも、艶も、すべて台無しになる。
仕上がった時の色は、淡い黄金色をしていた。
舌に乗せると、まず魚の出汁の旨みが広がり、その奥から、バターの甘い香りが追いかけてくる。
一度食べた客は、必ずもう一度頼む――そう言われるほどの一皿だった。
「弱火だ。急ぐな。沸かすんじゃない、なだめるんだ」
ベルトランが、まだ教え始めだった哲也に、何度もそう言って聞かせたことを、よく覚えている。
あの低く、苦々しい響きを持った声――それは、怒っているのではなく、何より大切なものを守ろうとする者の声だった。
その日の夜、店は創業二十周年を祝う特別な夜だった。
常連客が次々と訪れ、厨房は戦場のような忙しさだった。
オーダーを叫ぶ声、鍋がぶつかる音、皿を運ぶ足音。
哲也は、その喧騒の中でも、自分の持ち場だけは絶対に乱さないよう、必死に集中していた。
ベルトランは、別の皿の指示で手が回らず、ふと哲也を呼んだ。
「マリー=アンジュを、お前が仕上げろ」
その一言に、哲也の胸は震えた。
五年間、誰にも触れさせなかったソースを、初めて任された。
これは、認められた証だと思った。
ようやく、本物の料理人として見てもらえたのだと。
鍋の前に立つ。
バターを少しずつ落とし、木べらでゆっくりと馴染ませていく。
順調だった。
香りも、艶も、教わった通りに仕上がりかけていた。
あと少しで完成する。
哲也は、自分の手が、初めてこの店の心臓部に触れている感覚に、誇らしさを覚えていた。
その時、裏口の方から、配達の荷物について誰かが哲也の名前を呼んだ。
日本語ではない、聞き慣れたはずの呼び声だった。
それでも、その一瞬だけ、哲也の意識は鍋から離れてしまった。
視線が、ほんの一瞬、鍋から逸れた。
たった数秒のことだった。
視線が戻った時、鍋の底から、焦げた匂いが立ち上っていた。
バターは、茶色く分離し、なめらかだったはずの表面に、黒い斑点が浮いていた。
哲也は、慌てて鍋を火から外したが、もう遅かった。
スプーンで掬っても、もうあの淡い黄金色は戻らなかった。
哲也は、何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
ただ、立ち尽くしたまま、その黒い斑点を見つめていた。
ベルトランが、別の鍋を置いて、こちらに気づいた。
彼は、何も言わずに歩いてきて、鍋の中を覗き込んだ。
長い沈黙があった。
「……母のソースを、お前は焦がした」
それだけだった。
怒鳴られることも、皿を投げられることもなかった。
ベルトランは、ただそう言って、哲也から目を逸らし、別の作業に戻っていった。
その夜以降、ベルトランは、哲也に二度と重要な仕事を任せなかった。
指示は他の見習いを通して伝えられ、直接言葉をかけられることもなくなった。
一週間後、哲也は自分から、店を辞める旨を伝えた。
ベルトランは、それにも何も言わなかった。
最後の日、厨房を出る時、哲也はベルトランの背中に向かって深く頭を下げた。
返事はなかった。
それでも、これだけは伝えたいと思って、フランス語で「すみませんでした」と口にした。
ベルトランの肩が、わずかに動いた気がしたが、振り返ることはなかった。
帰りの飛行機の中で、哲也は、自分の中の何かが、完全に終わったのを感じていた。
包丁を握る手は、もうあの夜から、小さく震えるようになっていた。
窓の外に広がる雲を眺めながら、哲也は、自分が何を失ったのか、まだ正確には分かっていなかった。
分かっていたのは、もう二度と、あの厨房には戻れないということだけだった。
日本に戻り、結婚を考えていた恵に再び会った時、哲也は、料理人になる夢のことを、もう口にしなかった。
代わりに、安定した会社に就職し、家族を支えることに、自分の人生の意味を見出そうとした。
それは、夢から逃げるための、もっとも分かりやすい言い訳だった。
恵は、何も聞かずに、哲也の決めたことを受け入れた。
彼女がどこまで気づいていたのか、哲也は今でも分からない。
布団の中で、哲也はゆっくりと目を開けた。
窓の外は、まだ暗い。
二十六年経った今でも、「弱火だ。急ぐな」という声が、耳の奥に残っている。
あの声に応えられなかった自分を、哲也は一度も許せたことがなかった。
包丁を持つたびに、あの夜の黒い斑点が、まぶたの裏に浮かんでくる。
だから、ずっと逃げてきた。
逃げることだけが、これ以上何かを焦がさずにいる、唯一の方法だと思っていた。
それでも今夜、初めて思った。
もし、もう一度だけ、あの鍋の前に立てるなら。
今度こそ、誰かの大切なものを、焦がさずに済むなら――。
その思いは、長い後悔の底から、ひどく不確かな、けれど確かに哲也自身のものである声として、静かに浮かび上がっていた。
哲也は、震える左手の指先を、もう一度、そっと握り直した。
今度は、何かを隠すためではなく、何かを確かめるための握り方だった。




