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第五話 見透かされた傷

 哲也が「ますや」に通うようになって、もう三週間が過ぎていた。


 週に二度か三度、会社帰りに寄る日が増えている。

 お増は、それについて何も言わない。

 ただ、来れば「いらっしゃい」と言い、出された皿を黙って食べる哲也を、特に気にする様子もなく眺めているだけだった。

 それでも、哲也はこの店に来るたびに、少しずつ何かが緩んでいくのを感じていた。

 会社でも、家でも、自分の振る舞いに、いつも何かの計算が働いている。

 ここでは、それを忘れていられる時間があった。


 その日は、店に客の姿がなかった。

 午後三時を過ぎた、いわゆる中休みの時間だった。

 カウンターの向こうで、お増が大きな笊に山ほどの大根を積んで、黙々と皮を剥いていた。

 いつもより、手の動きが遅い。

 時々、剥いた皮を置いて、腰のあたりに手を当てる仕草を見せる。

 大根の山は、見ているだけで気が遠くなるほどの量だった。

 お増の指先は、皮の硬さを確かめるように動き、けれど、その動きの端々に、明らかな疲れが滲んでいた。

 考えてみれば、ここ最近、お増の動きが少しずつ重くなっていることに、哲也も薄々気づいていた。

 だが、それを指摘する勇気はまだなかった。


「腰、大丈夫ですか」

 哲也が声をかけると、お増は顔も上げずに「大丈夫なわけないよ、こんな歳まで厨房に立ってりゃね」と返した。

 それでも、手は止めなかった。

 明日の仕込みだという。

 煮物用の大根を、これだけの量、ひとりで剥いて、切って、下茹でする。

 哲也は、その作業量を見ているだけで、自分の中に、ある衝動が湧いてくるのを感じた。

 誰かのために、手を動かしたい。

 そう思うこと自体が、もう何年もなかった感覚だった。

 会社では、常に頭で動いていた。

 家では、ただ座っているだけだった。


「俺にも、何か手伝わせてください」

 言ってから、自分でも驚いた。

 二十年以上、誰の前でも口にしなかった言葉だった。

 お増は、一瞬だけ手を止めて、哲也を見た。

「あんた、営業マンだろ。包丁、持てるのかい」

「……少しなら」

 嘘ではなかった。

 少しなら、という言葉の意味を、哲也自身、まだ正確には分かっていなかった。


 お増は、何も聞かずに、小さな出刃包丁と、洗った大根をひとつ、カウンターの上に置いた。

「半月切りにして。皮は剥いてあるから」

 哲也は、頷いて、包丁を手に取った。

 柄の部分は、長年の使用で角が丸くなっていた。

 重さは、見た目より軽い。

 刃先には、研ぎ続けてきた者の手の跡が、薄い曲線として残っている。


 大根を、まな板の上に置く。

 左手で軽く押さえ、右手で包丁を構える。

 ただそれだけの動作だった。


 その瞬間、右手の指先から、震えが這い上がってきた。

 最初は、小さな揺れだった。

 哲也は、それを誰にも気づかれないように、軽く息を整えた。

 これくらいなら、何とかなる。

 長年そう自分に言い聞かせてきた、聞き覚えのある言い訳が、頭の中で繰り返される。

 だが、刃先を大根に当てようとした途端、震えは急速に強くなっていく。

 手首から先が、自分のものではないように、勝手に上下に動き始めた。


 哲也は、奥歯を強く噛んで、震えを押さえつけようとした。

 だが、抑えようとするほど、震えはひどくなった。

 冷たい汗が、背中を一筋伝う。

 耳の奥で、何かが鈍く鳴っている。


 視界の端が、わずかに白くぼやけていく。

 まるで、自分の体だけが、この場から少し浮き上がっているような感覚。

 刃先が、大根の表面を滑った。

 皮一枚を削るつもりが、刃が斜めに逸れて、大根が台の上で半回転する。

 もう一度、構え直す。

 手のひらに、嫌な湿り気が広がっていた。

 震えは止まらない。

 むしろ、止めようとする意志そのものが、震えを増幅させているようだった。

 三度目、刃が大根に深く入りすぎた。

 何とか持ち直そうとした右手の指が、白く強張っているのが、自分の目にも見えた。

 手首が大きくぶれて、刃の角が、左手の指の付け根を浅く擦った。

 痛みより先に、血の色が見えた。


「……っ」

 哲也は、思わず包丁を取り落とした。

 刃が、まな板の上で乾いた音を立てる。

 一瞬、店の中が、ひどく静かになった気がした。

 自分の不甲斐なさだけが、その静寂の中で、やけに大きく響いている。

 お増の手が、すっと伸びてきて、哲也の左手を取った。

 指の付け根に、薄く血が滲んでいる。

 傷自体は浅い。

 それでも、お増は何も言わず、布巾でその部分を強く押さえた。


「……すみません」

 哲也は、震える右手を、もう片方の手で押さえながら、絞り出すように言った。

 声が、自分でも驚くほど掠れていた。

 お増は、布巾を押さえたまま、哲也の右手に目を落とした。

 震えは、まだ止まっていなかった。

 包丁から離れても、その震えだけが、まるで意思を持った別の生き物のように、指先に残っている。

 お増は、長い間、それを見ていた。

「あんた」

 低い声だった。

「包丁を、怖がってるね」


 哲也は、何も答えられなかった。

 否定の言葉を探したが、喉の奥でつかえて、出てこなかった。

 違う、と言いたかった。

 ただの不調だ、寝不足だ、そう言い訳できる言葉なら、いくつも知っていた。

 けれど、今この瞬間、それらの言葉のどれもが、自分の震える手の前では、ひどく薄っぺらいものに思えた。


「素人の手の震えとは、違う震え方だ。何かあったんだろう」

 それ以上を、彼女は聞かなかった。

 聞けば、哲也が壊れてしまうことを、長年の経験で分かっているようだった。


 哲也は、視線を逸らした。

 布巾の下で、まだ血の温かさが伝わってくる。

 痛みは大したことがなかった。

 それより、自分の手が、こんなにも簡単に、自分の意思を裏切ったことの方が、胸の底にずんと響いていた。

 二十年以上、誰にも見せずにきたものだった。

 妻にも、息子にも、隠し続けてきたものを、出会って三週間の老女に、たった一度、包丁を握っただけで、見透かされてしまった。


 商談の場では、どんな失敗も、表に出さずに乗り切れる自信があった。

 それなのに、たった一本の大根の前で、その自信は、あっけなく崩れていた。

 悔しさなのか、安堵なのか、自分でもよく分からない感情が、胸の中でせめぎ合っていた。

 ただ、もう取り繕うことはできないという事実だけが、はっきりと残った。


「……いえ。別に、何も」

 声が、自分でも聞いていられないほど、弱々しかった。

 お増は、それ以上は何も聞かなかった。

 布巾を巻き終えると、また大根に向き直り、何事もなかったように、自分の包丁を動かし始めた。

 手際の良い、迷いのない音が、再びカウンターの内側から響き始める。

「もういいよ。座って、おとなしく見てな」

 哲也は、言われるままに、椅子に腰を下ろした。

 血の止まった左手の指先と、まだ細かく震え続ける右手を、自分の膝の上で、ただ見下ろしていた。

 誰にも見せたことのない傷が、たった今、初めて誰かの目に触れた。

 その事実だけが、店の喧騒もない静かな厨房の中で、いつまでも重く尾を引いていた。


 帰り道、哲也は、震えの収まった右手を、何度も握り直した。

 その手が、本当にもう大丈夫なのか、確かめる勇気は、まだなかった。

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