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第四話 閉ざされたドア

 慶太の一日は、たいてい昼を過ぎてから始まる。


 目が覚めても、すぐには起き上がらない。

 部屋の電気はつけない。

 カーテンも開けない。

 カーテンの隙間から入る光の角度で、何時頃かをだいたい判断する。

 スマートフォンを確認するのは、もう少し後でいい。

 確認したところで、特に何があるわけでもない。

 部屋の隅には、退職した日に持ち帰った段ボール箱が、まだ開けられないまま置かれている。

 中に何が入っているのか、慶太自身もよく覚えていない。


 春に会社を辞めてから、もう三月以上が経っていた。

 辞めた理由は、特別なものではなかった。

 配属された部署で、同期が次々と異動願いを出し、慶太の担当する仕事量だけが、なぜか増えていった。

 ある朝、出社する前に動けなくなった。

 それだけのことだった。

 本人にも、はっきりとした説明はできない。

 辞めてから、同期の誰からも連絡は来ていない。

 たぶん、それも当然のことだった。

 会社を辞めるというのは、そういうことなのだろうと、慶太はどこか他人事のように思っていた。


 窓の外の桜は、とうに散っている。

 今は、もう蝉の声が聞こえる季節になっていた。

 慶太は、それを誰かに言われて初めて気づくくらい、外の時間の流れから、自分だけが切り離されているように感じていた。


 起きたあとは、まず天井を見る。

 それから、枕元のスマートフォンを手に取る。

 通知は、たいてい数件。

 求人サイトからのお知らせ、利用していないアプリの更新情報、たまに、母からの「ご飯あるよ」の一言。

 スマートフォンの画面表示時間は、設定で確認できる。

 先週は、一日平均で九時間を超えていた。

 九時間が多いのか少ないのか、慶太にはもう判断する基準もなくなっていた。


 その中に、もう何週間も同じ名前が並んでいる。

 高梨沙耶。

 大学時代からの付き合いで、就職してからも、たまに連絡をくれていた相手だった。

 高校は別だったが、大学のサークルで知り合い、就職してからもなぜか縁が切れなかった。

 彼女の方が先に就職し、今もちゃんと働き続けている。

 それだけのことが、最近の慶太には、少し眩しく感じられた。

 最後のメッセージは、「元気?」という、それだけの文字だった。


 慶太は、その文字を、もう何度も見ていた。

 けれど、返事を打つことはなかった。

 読んでいないことにすれば、何も答えなくていい。

 そう思って、通知だけを確認し、本文は開かないようにしている。

 既読がつかないことを、何度も画面の隅で確かめてから、また布団に戻る。


 起きてからの動作は、いつも同じ順番だった。

 スマートフォンを確認し、トイレに行き、また布団に戻る。

 それを二度か三度繰り返してから、ようやく一階に下りる気力が湧いてくる。

 一階に下りるのは、家族が誰もいない時間を選ぶようにしていた。

 今日も、母がパートに出かけたのを、物音で確認してから階段を下りた。

 母のパートは、火曜と木曜、それから土曜の午前中だけだった。

 その時間を、慶太は自然と覚えてしまっていた。


 台所には、ラップのかかった皿が置かれている。

 それを温め直し、立ったまま食べる。

 食卓の椅子に座る気にはならない。

 座ってしまうと、何かが始まってしまう気がした。

 味は、特に気にしていない。

 ただ、何も食べないと、もっと面倒なことになると分かっているから、機械的に箸を動かしているだけだった。


 食べ終えた皿を洗い、また自分の部屋に戻る。

 部屋に戻ってからは、特に何をするわけでもない。

 求人サイトを開いて、いくつかの条件で検索をかける。

 営業、未経験可、土日休み。

 表示される会社の名前を、ひとつひとつ眺める。

 けれど、応募ボタンを押すことはない。

 条件を変えて、また検索しなおすだけの時間が、午後の大半を占めていた。


 動画サイトを開く。

 誰かの旅行記、誰かの料理動画、誰かの猫の動画。

 画面の中の誰かは、いつも何かをしていた。

 それを眺めているだけの自分とは、別の生き物のように見えた。

 たまに、知らない誰かのアカウントが、料理の写真を流れるように投稿しているのに気づくことがある。

 見るたびに、特に意味もなく、画面を流していく。

 保存することも、いいねを押すこともない。


 夕方になると、階下から物音がする。

 父が帰ってきた音。

 スーツの上着を椅子にかける音、ネクタイを緩める気配。

 それから、母と何か短い言葉を交わす声が、壁を通して薄く聞こえてくる。

 その日は、いつもより少し早く、ドアの外に足音が止まった。

 とん、とん、と二回、軽くノックの音がした。


「慶太、ちょっといいか」

 父の声だった。

 慶太は、ベッドの上で身を起こしたまま、何も答えなかった。

「夕飯、一緒に食わないか」

 しばらく、ドアの向こうで沈黙が続いた。

 父は、すぐには立ち去らなかった。

 返事をしなければ、いずれ諦めて去っていく。

 それは、いつものパターンだった。

 慶太は、布団の端を握ったまま、ドアの方を見ずに待った。

 一瞬、何か言葉を返しそうになる。

 けれど、口を開く前に、その気力の方が先に萎んでしまう。


 数秒の沈黙があった。

 ドアの向こうで、父が何か言いかけて、それを止めたような気配があった。

「……いや、いい。無理にとは言わない」

 足音が、階段の方へ遠ざかっていく。

 慶太は、その音が完全に消えてから、ようやく肩の力を抜いた。


 別に、父のことが嫌いなわけではなかった。

 ただ、何を話せばいいのか分からない。

 父が何か言おうとするたびに、慶太の中で、説明のつかない苛立ちが先に立ってしまう。

 それが、自分でもよく分からない感情だということは、薄々気づいていた。

 父が会社で何を売っているのか、慶太はよく知らない。

 知ろうとしたこともなかった。

 ただ、夕方に帰ってくる父の顔は、いつも同じくらい疲れていて、同じくらい何も語っていなかった。


 スマートフォンの画面が、また光った。沙耶からの新しいメッセージだった。

「最近どう?また今度ご飯行こうよ」

 慶太は、その文字を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 返事を書こうとして、文字を打ち始める。

「最近、特に変わりなく」と打って、すぐに全部消した。

 何を書いても、嘘になる気がした。

 もう少し正直に書こうとしても、最初の一文字を打つ前に、指が止まった。

 結局、何も送らずに、画面を閉じた。


 窓の外は、もう完全に暗くなっていた。

 階下から、皿の音と、テレビの小さな音が聞こえてくる。

 三人分の食事が始まる時間だった。

 慶太は、布団をかぶり直し、その音を、ただ遠くで聞いていた。

 箸が茶碗に当たる、小さな音まで聞こえた気がした。

 三人分のはずなのに、聞こえてくるのは、いつも二人分くらいの音だった。


 ドアの向こうで、今日もまた、誰かが自分を呼ぶことはなかった。

 それでいい、と慶太は思うことにしていた。

 本当にそう思っているのかどうかは、自分でもよく分からなかった。 

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