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第三話 赤提灯の女将

 赤い提灯は、店先の柱から心もとなく垂れ下がっている。

 色褪せた布に、墨で「ますや」と書かれている。

 明かりは点いているのに、人の出入りする気配はなく、本当に営業しているのか、哲也には判断がつかなかった。


 引き戸の隙間から、湯気のような白い気配が、わずかに漏れている。

 何かを煮込む匂い。

 醤油と、出汁と、名前のつけられない、誰かの暮らしのような匂い。

 その匂いに、哲也は思わず足を緩めた。

 今日、あの試食コーナーで嗅いだ匂いとは、まるで違う種類の匂いだ。

 焦げてもいない、誇示するような香りもない、ただ静かに、誰かの帰りを待っているような。


 哲也は、一度はその店の前を通り過ぎた。

 路地の向こうには、まだ夕焼けの名残が、細く尾を引いていた。

 今日はもう、誰とも話したくない。

 早く家に帰って、ひとりになりたい。

 そう思っていたはずだった。

 なのに、数歩進んだところで、足が止まった。


 振り返ると、提灯の赤だけが、暮れていく路地の中で、やけにはっきりと浮かんで見えた。

 気づいたときには、哲也はもう、引き戸に手をかけていた。

「いらっしゃい」

 よく通る、少しかすれた声だった。


 店の中は、思った以上に狭かった。

 カウンターが五席ほどと、奥に小さな座敷席があるだけの店。

 煮込み料理の入った大きな鍋が、カウンターの内側でとろとろと音を立てている。

 壁には、メニューを書いた紙が何枚も貼られ、古びて黄ばんでいる。

 カウンターの端には、誰かの好みなのか、小さな招き猫の置物が一つ、所在なさげに座っている。

 その隣に、もうほとんど読めなくなった古い日めくりカレンダーが、何年も同じ月のまま掛けられている。


 カウンターの向こうに立っていたのは、七十代と見える女将だった。

 割烹着の上から、エプロンを重ねて締めている。

 白髪をひとつにまとめ、化粧気のない顔には、深い皺が幾本も走っていた。

 けれど、その目だけは、驚くほど力強く哲也を見ていた。

 長年厨房に立ち続けてきた者だけが持つ、無駄のない佇まいだった。

 腰のあたりに、かすかに庇うような癖があることに、哲也はまだ気づいていなかった。


「一人?座んな」

 哲也は、言われるままに、空いている席に腰を下ろした。

 隅の方に置かれた小さなテレビが、音量を絞られたまま、ニュース番組を映している。

 客は、哲也のほかに誰もいなかった。


「何にする」

 女将――お増、と壁の貼り紙の隣に小さく名前が書かれていた――が、ぶっきらぼうに尋ねる。

 哲也は、メニューを目で追ったが、文字がうまく頭に入ってこなかった。

「……適当で、お願いします」

「適当って言われても、こっちは困るんだけどね」

 それでも、本当に迷っているのか、彼女はカウンターの中で、ちらりと哲也の顔をうかがった。

 疲れた顔をした客に、無理に多くを聞くつもりはないらしい。

 お増は、そう言いながらも、すでに鍋に向かって動き始めていた。

 哲也の返事を待つつもりは、最初からなかったらしい。


 しばらくして、目の前に置かれたのは、ぶり大根と、白い飯、それに豆腐とわかめの味噌汁。

 何の変哲もない、家庭料理そのものの組み合わせ。

「今日はこれしかないんだよ。文句あるなら、よそ行きな」

 哲也は思わず小さく笑った。

 今日一日で、初めて笑った気がした。


 ぶり大根に箸をつける。

 とろりと煮含んだ大根の甘み、ぶりの脂の旨み、生姜のかすかな香り。

 それだけのことなのに、口に入れた瞬間、なぜか喉の奥が詰まった。

 味の濃さも、技巧も、自分が昔目指していた料理とは、まるで違うものだった。

 けれど、この温かさには、覚えがあった気がした。

 ずっと昔、誰かが、自分のために作ってくれたもの。

 その記憶の輪郭は、はっきりとは思い出せないのに、舌の上だけが、それを覚えていた。


 昼間、あの試食コーナーで嗅いだ、焦げたバターの匂いとは正反対のものだった。

 あちらは、何かを思い出させて、哲也を苦しめる匂い。

 こちらは、何かを思い出させて、哲也の胸の奥を、そっと緩めてくる匂いだった。

 目の奥が、じんと熱くなる。

 哲也は、慌てて飯を口に運び、その熱を押し戻した。


「美味いか」

 お増が、鍋をかき混ぜながら、こちらを見もせずに聞いてくる。

「……美味いです。なんていうか、こういうのは、久しぶりに食べました」

 お増は、哲也のネクタイと、皺の寄ったスーツの肩を、ちらりと一瞥した。

「随分くたびれた顔して入ってきたから、てっきり酒目当てかと思ったよ」

「家じゃ、奥さんの飯、食ってないのかい」


 哲也は、その問いに、すぐには答えられなかった。

 家でも、ちゃんと食事はしている。

 恵の作る料理は、いつも丁寧で、味も悪くない。

 けれど、それを「美味い」と口に出して伝えたことが、いつからかなくなっていた。


「……食べてます。ただ」

「ただ?」

「最近、何を食べても、味がよく分からなくなる時があって」

 言ってしまってから、哲也は自分でも驚いた。

 初めて入った店で、初めて会った人間に、こんなことを話すつもりはなかった。


 お増は、それ以上深くは聞かなかった。

 ただ、鍋から立つ蒸気の向こうで、ふっと目を細めただけだった。

「そういう時は、誰かが作ったもんを、黙って食べるのが一番だよ。文句言わずに、美味い不味いだけ言ってりゃいい」

「……はい」

 哲也は、それだけ答えて、また箸を取った。


 その言葉は、何の答えにもなっていなかった。

 けれど、なぜか哲也の肩から、すっと力が抜けていくのが分かった。

 カウンターの向こうで、お増の手が動く。

 包丁の音、鍋の音、水を出す音。

 何十年も同じ動きを繰り返してきた人間だけが持つ、迷いのない手の運び。

 その手つきのどこかに、哲也は、自分の知っている誰かの面影を、ふと感じた気がした。


 棚の隅に、古い写真立てがひとつ置かれている。

 色褪せて、誰が写っているのかまでは判別できなかったが、その傍らに、いつも同じ場所に置かれ続けてきたのだろうという気配だけは、はっきりと伝わってきた。

 誰だったのか、思い出す前に、その感覚は溶けて消えてしまった。


 食べ終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 会計を済ませて立ち上がると、お増が、初めて正面から哲也の顔を見た。

「また来な」

 それだけ言って、彼女はもう、次の仕込みに取りかかっていた。

 その背中に向かって、哲也は小さく「ごちそうさまでした」と頭を下げた。

 返事はなかったが、それでいいような気がした。


 哲也は、暖簾をくぐって外に出る。

 赤い提灯の灯りが、夜の路地に、ぽつりと浮かんでいた。

 なぜこの店に、今日、足が向いたのか。

 哲也には、まだその理由が分からなかった。

 偶然、というだけでは片付けられない何かが、たしかにあった気がする。

 けれど、それを言葉にしようとすると、するりと逃げていく。

 ただ、もう一度、あの味を食べに来るだろうという確信だけが、静かに胸の中に残っていた。


 その夜、哲也が家に戻った時刻は、いつもより一時間以上遅れていた。

 だが、恵も慶太も、特に何も尋ねはしなかった。

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