第二話 焦げたバターの記憶
その日の商談先は、都内に複数店舗を構える高級食品スーパーだった。
新作のソース類を売り込むため、哲也は試食イベントの立ち会いに同行していた。
平日の昼下がりだというのに、店内には買い物客が途切れることなく流れている。
陳列棚には、輸入チーズや高級な瓶詰めソースが並び、季節の変わり目とあって、秋向けの新商品が大きく取り上げられている。
哲也の会社が新たに開発した、フレンチ仕立てのソースシリーズも、その一角に陣取っていた。
「黒沢部長、こちらの試食ブース、思った以上に人が集まってますね」
隣に立つ浜田大輝が、嬉しそうに声をかけてくる。
今年で三年目になる後輩で、哲也の営業のやり方を、ことあるごとに真似したがる青年だった。
商談の場でメモを取る姿勢から、名刺の出し方まで、どこかぎこちなく哲也を真似ている。
「人が集まるのと、買ってもらえるのとは、別の話だぞ」
「じゃあ、買ってもらうには、何が一番大事なんですか」
浜田が、半分本気で尋ねてくる。
哲也は少し考えて、「味より先に、安心感だ」と答えた。
「うちの商品は、ちゃんとした人間が、ちゃんと考えて作ってますよ、っていう顔をしてないと」
哲也はそう返しながら、試食コーナーの様子を見渡した。
契約を結んでいる店舗の厨房スタッフが、白いコック服を着て、小さな鉄板の上でソースを温めている。
バターをひとかけ落とし、軽く揺すって溶かしていく、何気ない仕草だった。
哲也は、その手元を眺めながら、自社のソースがどう絡むかを考えていた。
客に出す直前の、火加減ひとつで仕上がりが変わる瞬間だった。
そのときだった。
ふわりと立ち上がった匂いが、哲也の鼻先をかすめた。
バターが焦げる匂い。
ほんの少し、火が強すぎたのだろう。
ありふれた失敗だった。
けれど、その匂いを嗅いだ瞬間、哲也の足が、地面に縫いつけられたように動かなくなった。
立ち止まったまま、彼はしばらく、自分がどこにいるのかさえ分からなくなった。
耳の奥で、何かがどっと鳴り出す。
自分の心臓の音だと分かるまでに、わずかなタイムラグがあった。
――焦げるな。早く、火から外せ。
声にならない声が、頭の中で叫んでいる。
それは、自分の声ではなかった。
もっと低く、苦々しい響きを持った、誰かの声だった。
視界の端に、白い厨房の壁が見えた気がした。
今いる場所とは、まるで違う場所の光景だった。
ステンレスの作業台。
フランス語の早口の指示。
何人もの足音が、せわしなく行き交う音。
そして――鍋の中で、急速に色を変えていくソースの表面。
あの匂い。
厨房の熱気、鍋からあがる蒸気、誰かの怒声に似た叫び。
そして――自分の手の中で、みるみる黒く焦げついていく、白いはずのソース。
それを目にした瞬間の、胃の底が抜けるような感覚まで、鮮明に覚えている。
哲也の手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
指先が、勝手に強張っていく。
喉の奥が、ひどく狭くなったように感じられて、息がうまく吸えない。
「部長? 大丈夫ですか」
浜田の声が、思いのほか近くで聞こえて、哲也はようやく自分が今どこにいるのかを取り戻した。
「……ああ、平気だ。少し、立ちくらみがしただけだ」
言いながら、哲也は試食コーナーから視線を逸らした。
コック服のスタッフは、何事もなかったように、焦げた部分を取り除いて、新しいソースを鉄板に流し込んでいる。
客の誰も、それに気づいていない。
浜田だけが、まだ怪訝な顔で哲也を見ていた。
「顔色、ちょっと悪いですよ。どこか座って――」
浜田は、すぐ近くにあった休憩用のベンチを指差したが、哲也はそれを手で軽く制した。
「大丈夫だと言っただろう」
声に、思った以上の硬さが出てしまった。
浜田が、わずかに言葉を呑み込む。
哲也は、すぐに表情を緩めて、何でもないことのように笑ってみせた。
「すまん。ちょっと寝不足でな」
それで会話は終わった。
だが、浜田の視線が、その後もしばらく哲也の横顔を追っていたことに、哲也自身は気づいていなかった。
哲也は、何か言い訳をつけて、一度その場を離れた。
化粧室の鏡に映る自分の顔は、思ったより青白かった。
水道の水で顔を軽く拭い、両手を見下ろす。
指先は、まだ細かく震えていた。
あの夜、初めてこの震えに気づいたときから、もう二十年以上が経っている。
震えはいつも唐突に訪れ、唐突に消えていく。
今日もきっと、そう長くは続かないはずだった。
鏡の中の自分に、いつまで経ったらこの震えと縁が切れるのか、哲也は問いかけた。
けれど、答えはいつも同じ。
分からない。
少なくとも今は、まだ。
商談は、その後も滞りなく進んだ。
担当者との打ち合わせでも、いつもと変わらない口調で、商品の優位性を説明することができた。
少なくとも、表面上はそう見えたはずだった。
けれど、哲也の意識のどこかは、まだあの匂いの中に取り残されていた。
二十年以上前――まだ彼が、料理人としてパリの厨房に立っていた頃の記憶。
あの時、自分が何をして、何を失ったのか。
そのすべてを、哲也は今もはっきりとは思い出そうとしない。
思い出そうとした瞬間、決まって同じ場所で、記憶に鍵がかかる。
ただ、誰かに名前を呼ばれた記憶だけは、いつも声の質感まで鮮明に残っている。
怒っているのでも、呆れているのでもない、もっと深い場所から零れ出るような、低い声だった。
ただ、焦げたバターの匂いだけが、毎回その鍵を、無理やりこじ開けてくる。
商談先を出て、駅に向かう道を歩きながら、哲也は何度も小さく息を吐いた。
動悸は、もうほとんど治まっている。
けれど、手のひらの汗だけは、まだ完全には引いていなかった。
「部長、今日はもう直帰されますか」
浜田が、遠慮がちに尋ねる。
「いや。少し、歩いてから帰る」
哲也は、そう答えて、いつもとは違う方向に足を向けた。
会社に戻る通りではなく、もう少し遠回りになる、裏路地の方へ。
家に帰れば、また恵と慶太と、あの静かな食卓が待っている。
今のこの顔のまま、あの空気の中に座ることを、哲也はどうしても避けたかった。
なぜそちらに向かったのか、自分でもよく分からない。
ただ、今すぐ電車に乗って、人の多い場所に押し込まれることが、ひどく億劫に思えた。
夕方の光が、ビルの隙間から斜めに差し込んでいる。
哲也は、ネクタイを少し緩め、見覚えのない通りを、あてもなく歩き続けた。
仕事帰りのサラリーマンたちが、足早に哲也を追い越していく。
誰も、彼の歩く速さが普段より遅いことに、気づきはしない。
頭の中では、まだあの匂いの残像が、ちらちらと揺れていた。
昨夜も、恵が静かに並べた三人分の箸を、哲也は思い出していた。
あの箸の並びと、記憶の中の厨房の喧騒とが、なぜか同じ重さで胸に積もっていく。
両方とも、自分がうまく扱えないものだと思う。
何か大切なものを焦がしてしまった遠い日の記憶。
それが何だったのか、はっきりと言葉にすることだけはどうしてもできなかった。
気づけば、見知らぬ路地の奥に、赤い提灯がひとつ、ぽつりと灯っているのが見えた。
哲也は、その灯りに向かって、ふらりと足を進めた。




