表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/21

第一話 冷えた食卓

 午後七時、黒沢家の食卓には、今日も三人分の箸が並んでいた。


 妻の恵が、漆塗りの盆からひとつずつ取り出し、箸先を揃えていく。

 それだけの、ありふれた仕草だった。

 けれどこの家では、その所作だけが、毎日欠かさず繰り返される唯一の儀式のように見えた。

 炊きたての白米、出汁の効いた味噌汁、哲也の好きな鯵の塩焼き。

 どれも丁寧に作られていたが、誰もそれを言葉にして褒めることはなかった。


 箸置きにそっと触れる、かすかな音だけが、この家ではいちばん優しい音だった。

 哲也が帰宅したのは、その十分前のことだった。

 その日の商談は、上々の結果に終わっていた。

 取引先の食品担当者は、哲也が机に並べたサンプルと資料を前に、何度も頷いていた。

「黒沢さんのところは、いつも提案が早いですね」

 相手は資料をぱらぱらとめくりながら笑った。


 哲也は、競合三社の見積もりをあらかじめ調べておいたことを、あえて口にはしなかった。

 そういう細やかな仕事のやり方こそが、彼の強みだった。

 そう言われて、哲也は慣れた笑みを浮かべながら、契約書の余白に小さく日付を書き添えた。

 商品の特長を語る声には迷いがなく、相手の懐に踏み込む間合いも、長年の経験で完璧に身についていた。

 契約書にペンを走らせる右手は、迷いも震えもなく、すらすらと数字を書き連ねていく。


 この手が、家の包丁を前にすると別人のように強張ることを、目の前の担当者は知らない。

 黒沢食品の法人営業部長として、彼の名前を知らない取引先は、この界隈にはほとんどいない。

 二十年以上、その仕事だけを積み重ねてきた自負がある。


 帰り道、電車の窓に夕焼けが映り込んでいた。

 哲也はいつものように、コンビニの前を通り過ぎ、何も買わずに帰る。

 家の近くまで来ると、どこかの家から夕飯の支度をする匂いが漂ってくることがある。

 今日もそうだった。

 生姜と醤油の匂い。

 それだけで、胃の奥がきゅっと締まるような、説明のつかない緊張が走る。

 なぜそんな反応をするのか、彼自身にも、はっきりとした理由は分からなかった。

 けれど、その自負は、自宅のドアを開けた瞬間に、いつも静かに萎んでいく。

 スーツの上着を椅子の背にかけ、ネクタイを緩めただけで、洗面所にも寄らずにダイニングへ向かう。

 それが、彼の二十年来の習慣だった。


 ダイニングの照明は、白く乾いた光を放っていた。

 壁にかけられたカレンダーには、恵の字で几帳面に予定が書き込まれているが、今月の欄に、家族そろっての予定はひとつもない。

 以前は、慶太の誕生日や、年に一度の家族旅行の予定が、几帳面な字で書き込まれていたはずだった。

 今はもう、そういう欄自体が、いつからか消えてしまっている。


 席に着くと、すでに恵と慶太が座っていた。

 慶太は二十三歳になる一人息子で、今年の春に新卒で入った会社を辞めてから、めっきり口数が減った。

 今も、膝の上に置いたスマートフォンの画面と、目の前の料理とを交互に見るだけで、誰とも視線を合わせようとしない。


「いただきます」

 誰に向けた言葉でもなく、恵がそう呟くと、三人はそれぞれの箸を取った。

 恵の手の甲には、家事でできた小さな傷がいくつも見える。

 それを気にする様子もなく、彼女は黙って箸を動かしていた。


 かちん、と茶碗に当たる音。

 すすり込む味噌汁の音。

 電源の入っていないテレビの黒い画面が、蛍光灯の光をぼんやりと映している。

 生活音だけが、やけに大きく部屋に響く夜だった。


 哲也は味噌汁を一口含んで、ふと手を止めた。

 これは、自社が卸している出汁とは違う風味だった。

 恵が、わざわざ別の出汁を選んで使っているのだと、今、初めて気づいた。

 二十年以上、毎晩この家で飯を食ってきたはずなのに。


 彼は、自社の食品のことなら、ほとんど何でも知っている。

 原材料の配合、賞味期限の設定基準、競合との差別化のポイント。

 商談先でどんな細かい質問をされても、答えに詰まったことはなかった。

 なのに、目の前にある鯵の塩焼きが、どんな手順で、どれくらいの火加減で焼かれたものなのか、彼にはまるで見当もつかなかった。

 この家で、哲也だけが、ずっと「お客様」のままだった。


 台所に立つことは、もう何年もしていない。

 包丁を握ろうとすると、決まって右手の指先から、覚えのある震えが這い上がってくる。

 そのことを、恵にも慶太にも、これまで一度も話したことはなかった。

 何かを聞かれそうになる前に、いつも自分の方から話題を変えてしまうからだ。


 ほんの数日前も、たまたま流し台に立てられた包丁を目にした瞬間、指先がひとりでに強張った。

 柄に触れる前から、もう手のひらに嫌な汗が滲んでくる。

 それが、いつから始まったことなのか、哲也はよく覚えている。

 けれど、その理由までは、まだ誰にも話せない。


「慶太、最近どうだ。何か、考えてることあるのか」

 箸を置いて、哲也はそう切り出した。

 声に少し力が入りすぎたのが、自分でも分かった。

 慶太は顔を上げない。

 スマートフォンの画面の光が、彼の頬をぼんやりと照らしている。

「……特に、ないよ」

「焦らなくていいから。お前のことは、お母さんと――」

 言いかけた言葉を、哲也自身が途中で止めた。

 続く言葉が見つからなかった。

 慶太は、その沈黙の長さに気づいたように、わずかに眉を寄せただけだった。


 それだけ言って、彼は残りの飯を急いで口に流し込み、椅子を引いて立ち上がった。

「ごちそうさま」

 部屋に戻る足音が、階段の途中で小さくなって消える。

 ドアの閉まる音までは、聞こえなかった。

 残されたのは、哲也と恵、そして空になった慶太の茶碗だけだった。

 慶太が座っていた椅子だけが、不自然な空白として残っている。

 哲也は、その空白を見ないようにして、視線を恵の方へ向けた。


 恵は何も言わず、それを静かに片付け始める。

「……俺、何か間違えたか」

 哲也が、誰に聞くともなく呟いた。

「間違えたわけじゃないと思うよ」

 恵はそう答えたが、その先の言葉は続かなかった。

 彼女は、夫の抱える傷のことを、もうずっと前から知っている。

 けれどそれを言葉にすることは、この家では、いつの間にか暗黙のうちに禁じられているようなものだった。


 水音だけが、台所からひとり聞こえてくる。

 恵は、洗い終えた茶碗を布巾で丁寧に拭き、棚に戻していく。

 その手つきは、何年も繰り返してきた者だけが持つ、迷いのない静かなリズムを保っていた。

 明日の朝のための米を、量って研ぎ始める。

 誰に頼まれたわけでもなく、それが彼女の一日の終わりだった。


 哲也は、空になった食卓の上で、まだきちんと並んだままの自分の箸に目を落とした。

 三人分、並べられた箸。

 今夜もまた、その箸が「三人で過ごす時間」をつくることはなかった。

 哲也は、それを誰よりも分かっていながら、立ち上がって妻の隣に並ぶことができない。

 皿を洗う恵の背中を、ただ黙って見ているだけだった。

 冷えていく食卓の上に、彼の箸だけが、まだ静かに置かれたままだった。


 窓の外では、もう完全に日が落ちていた。

 どこかの家の灯りが、ぽつりぽつりと夜の中に点っていくのを、哲也はガラス越しに、ただ眺めていた。

 その灯りのひとつひとつに、きっと自分の家のような夜があるのだろうと、彼はぼんやり思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ