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第二十三話 無言の賛辞

 その夜、自室に戻った慶太は、布団の中で、スマートフォンの写真フォルダを開いていた。


 今日一日の出来事が、まだ、頭の中で整理できていなかった。

 父の震えない手。

 母の涙。

 これまでの自分の中の「家族」という輪郭が、今日一日で、大きく揺さぶられていた。


 今日撮った写真は、一枚だけだった。

 父が作った料理を、テーブルに置かれた瞬間に、ほとんど反射的に撮った一枚だった。

 あの場では、それ以上撮ることはできなかった。

 母の涙を、画面の中に収めることだけは、どうしてもできなかった。

 その一枚を、慶太は、何度も見返した。

 フランス風の盛り付けに、淡い琥珀色のソース。

 湯気が、まだうっすらと立ち上っている様子まで、写真の中に残っている。

 皿の縁の光の反射、料理の配置のバランス。

 自分でも、なぜか、よく撮れていると思った。

 誰かに教わったわけでもないのに、こういう瞬間を切り取ることだけは、昔から、自然とできた。

 就職活動でも、仕事でも、誰にも評価されたことのない感覚だった。


 スマートフォンの画面を通して見る世界は、いつも、現実よりも少しだけ、整って見えた。

 そこに、自分なりの「正しい角度」を見つける感覚が、昔から好きだった。

 誰かに見せたい、という気持ちが、ふと湧き上がった。

 その気持ち自体が、ひどく久しぶりのものだった。

 これまでは、何かを見ても、ただ眺めるだけで、共有したいという欲求すら、起きないことがほとんどだった。

 いつもなら、画面の中の誰かの日常を、ただ眺めるだけだった。

 自分から何かを発信するという行為は、長い間、慶太の生活から、すっかり消えていた。

 最後にSNSへ何かを投稿したのは、もう半年以上前だ。

 会社を辞める前、何気なく載せていた、日常の一コマのようなものばかりだった。

 あの頃の自分と、今の自分は、もう、まったく違う人間になっている気がする。

 あの頃は、ただ、周りに合わせて、当たり障りのない日常を発信していただけだった。

 今、投稿しようとしているものは、そういう種類のものとは、何かが違っていた。

 これは、誰かの失敗を笑うための記録でもなく、ただの暇つぶしの記録でもなかった。

 慶太自身、初めて、何かを「作品」として誰かに見せたいと感じた瞬間だった。


 迷った末、慶太は、その写真を、短い投稿として公開した。

 文章は、ほとんどつけなかった。「今日、食べたもの」――それだけだった。

 投稿ボタンを押す指が、わずかに震えた。

 何かを発信するという、ただそれだけの行為が、こんなにも勇気を必要とするものだったとは、忘れていた。

 投稿を終えた後、しばらく、画面を見つめた。

 誰かが見るかどうかも、分からない投稿だった。

 それでも、何かをまた外に出せたことに、自分でも驚いていた。

 反応がなくても、それでいいと思った。

 ただ、自分の中に、何かを外に出す力が、まだ残っていることを、確かめたかった。


 数分後、通知が一つ届いた。

 高梨沙耶。

 数週間、開くことを避け続けてきた名前。

 それが今、自分への反応として、画面に現れている。

 その事実だけで、慶太の胸は、ひどく騒がしくなった。

 その名前を見た瞬間、慶太の心臓が、小さく跳ねた。

「これ、いいじゃん」

 短いコメントだった。

 それでも、何週間ぶりかに、彼女からの言葉に、直接触れた気がした。


 慶太は、しばらく、返信の文字を打とうとして、何度も消した。

 これまでのように、何も返さずにいることも、できたはずだ。

 だが、今夜は、そうしたくなかった。

 何週間も無視してきた相手に、今さら何を言えばいいのか。

 気まずさと、それでも繋がりたいという気持ちが、交互に押し寄せてきた。

「ありがとう。たまたま撮れた一枚だけど」

 ようやく、それだけを送った。

 短い文章だったが、慶太にとっては、久しぶりに、自分の意思で誰かに向けた言葉だった。


 送信した直後、また心臓が、落ち着かなく動いた。

 後悔とも、安堵ともつかない感覚。

 数分後、既読のマークがついた。

 それから、もう一つ、通知が届いた。

「たまたまでも、いい写真だよ。また何か撮ったら見せて」

 その一言に、慶太は、思わず、口元が緩むのを感じた。

 この数ヶ月、何の反応も返さなかった自分に、それでも彼女は、メッセージを送り続けてくれていた。

 その意味を、慶太は、今夜、ようやく、少しだけ理解できた気がした。


 その夜のうちに、見知らぬアカウントからのコメントも、いくつか増えていった。

「これ、どこのお店ですか?」

「すごく美味しそう。気になります」

「プロのカメラマンさんですか?構図が綺麗です」

 慶太は、その文字を見て、最初、戸惑った。

 自分が撮った写真に、まったく知らない誰かが、こんな風に反応するとは、思っていなかった。

 これまで、慶太が発信してきたものに、こんな反応がついたことは、一度もなかった。

 ただの日常の一コマには、誰も興味を示さなかった。

 だが、今回は、何かが違っていた。

 プロ、という言葉が、自分に向けられたことが、不思議で、どこか落ち着かなかった。

 これまで、自分に「得意なこと」があるなどと、考えたことすらなかった。

 会社でも、特に評価されることもなく、ただ、与えられた仕事をこなすだけの日々だった。

 写真の構図を褒められるという経験は、慶太にとって、まったく新しい種類の感覚だった。


 店の名前を書こうとして、慶太は、一瞬、手を止めた。

 お増の店が、もうすぐ畳まれることを、慶太はまだ知らなかった。

 それでも、何となく、すぐに答えを書くことを、ためらった。

 あの場所は、まだ自分の中で、誰にでも教えていい場所には、なっていなかった。

 父にとっても、お増という女将にとっても、あの店は、簡単に名前を晒していい場所ではない気がする。

 理由は、まだはっきりと言葉にできなかったが、その直感だけは、確かだった。

 誰かを守りたいという感覚を、こんなに自然に持てたのは、いつぶりだろうか。

 それもまた、今夜、慶太の中に静かに芽生えた、小さな変化だった。


「商店街のイベントで、たまたま出会った一皿です」

 それだけ書いて、店名は、伏せたままにした。

 画面を閉じた後も、慶太は、しばらく、その小さな反応の数々を、何度も思い返していた。

 これまで、慶太にとってのスマートフォンは、ただ、世界を眺めるための窓だった。

 自分から何かを発することは、ほとんどなかった。

 今夜、初めて、自分が切り取った一枚が、誰かの心を、少しだけ動かしたという実感があった。

 それは、就職活動の失敗や、これまでの停滞とは、まったく関係のない場所で生まれた、小さな手応えだった。

 これまで、自分には、何の価値もないと思い込んでいた。

 会社では使い物にならず、家でも、ただ部屋にこもるだけの人間。

 だが、今夜の小さな反応は、その思い込みに、わずかな疑問を投げかけてきた。


 父が、震える手で何かを掴み直そうとしていたように、自分もまた、今夜、何かを掴み直そうとしているのかもしれない。

 そんな考えが、ふと、頭の中を過ぎった。

 布団の中で、慶太は、もう一度、その写真を見つめた。

 父の料理。

 母の涙。

 自分が、その瞬間を、確かに見ていたという証。

 まだ、何かが大きく変わったわけではない。

 それでも、今夜の小さな反応の数々が、慶太の中に、これまでとは違う何かを、静かに残した。


 窓の外には、もう、すっかり夜が更けていた。

 慶太は、スマートフォンの画面を閉じ、久しぶりに、明日のことを、少しだけ考えてみようと思った。

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