第二十二話 三膳の箸、その後
その夜、三人は、いつもより遅く家に帰った。
慶太は、玄関を入ってすぐ、「先に休むよ」と言って、自分の部屋へ上がっていった。
いつもと同じ言葉だったが、その声には、わずかに、柔らかさが混じっていた気がした。
哲也は、それを聞いて、小さく安堵した。
今日という日が、息子の中にも、何かを残したのかもしれないと、そう感じられた。
台所には、哲也と恵だけが残された。
恵は、いつものように、お茶を用意しようとした。
だが、いつものように、それだけで一日を終わらせる気には、なれなかった。
急須を持つ手を、しばらく止めたまま、恵は、何から話すべきか、頭の中で何度も組み立て直していた。
湯気の立つ急須を、テーブルの真ん中に置く。
いつもなら、それぞれが黙って茶碗を取るだけの時間だった。
今夜は、その静けさの中に、何か違う緊張感が漂っていた。
哲也も、同じように感じていたのか、テーブルの椅子に座ったまま、何かを言おうとして、何度も言葉を探しているようだった。
二十年以上、こんな風に、お互いの顔を見ながら、言葉を探した夜は、なかった気がした。
「……あの料理の、栗とラム酒の」
哲也が、ようやく、そう切り出した。
「あれは、どうして分かったの」
恵の声は、抑えていたつもりだったが、わずかに震えていた。
「押し入れの箱を整理してた時、偶然、見つけたんだ」
哲也は、視線を、テーブルの木目に落としたまま、続けた。
「自分のレシピ帳を探してて、その下に、お前のノートがあった。中を見るつもりはなかったんだが、開いてしまって……それで、知った」
恵は、しばらく、何も言えなかった。
あの手帳の存在を、これまで誰にも見せたことがなかった。
それを、哲也が、すでに知っていたという事実が、恥ずかしさと、それとは違う、何か温かいものを、同時に運んできた。
「もっと早く言うべきだったと思う。だが、どう伝えればいいのか、分からなかった」
「……どれくらい前から、知ってたの」
「イベントの前日だ。新しいソースを考えてた時に、見つけた」
恵は、その日のことを思い返した。
確かに、あの日から、哲也の様子が、少しだけ違っていたような気がする。
「黙ってたこと、ずるいと思われるかもしれないけど」
哲也は、そう続けた。
「お前の手帳を、勝手に見てしまったこと自体も、本当は、すぐに謝るべきだった」
「黙っていたこと、怒ってる?」
哲也が、恐る恐る尋ねた。
恵は、首を横に振った。
「怒ってない。むしろ……ずっと、誰にも言えなかったことを、誰かに知ってもらえたみたいで」
恥ずかしさは、もちろんあった。
けれど、それ以上に、長年一人で抱えてきた重さを、誰かと分け合えたことへの安堵が、恵の中では、大きく勝っていた。
その言葉に、哲也の表情が、わずかに緩んだ。
恵は、椅子から立ち上がり、押し入れの方へ向かった。
今度は、自分の意思で、あの手帳を取りに行った。
戻ってきた恵は、テーブルの上に、その古い手帳を置いた。
表紙を開く前に、恵は、少しだけ躊躇した。
それでも、もう、隠す理由はなかった。
「見せたことなかったから、ちゃんと、見てほしい」
哲也は、頷いて、それを手に取った。
ページをめくるたび、恵は、少しずつ言葉を添えた。
これは、初めて成功したタルトのレシピ。
これは、店主に褒められた日のこと。
これは、コンクールに出すはずだった、未完成のケーキ。
「アングレーズソースを、もう少し――」のところで、ページが途切れていることを、恵は、改めて指で示した。
「結局、ここで終わってる。続きは、もう、一生書けないと思ってた」
別のページには、店主から教わった、生地を寝かせる際の、温度管理のコツが、細かく書き込まれていた。
恵が、当時どれだけ真剣に、技術を学ぼうとしていたかが、その筆跡からも伝わってきた。
哲也は、一つ一つの記述に、丁寧に耳を傾けた。
これまで、知らなかった恵の二十代を、ようやく、ゆっくりと知っていくような時間だった。
知れば知るほど、これまでの自分の不甲斐なさが、胸に刺さった。
二十年以上、隣にいたはずの人間のことを、こんなにも知らずにいたという事実が、改めて、重くのしかかってきた。
二十年以上、隣同士で眠り、隣同士で食事をしてきたはずなのに、お互いの本当の顔を、ようやく今、初めて見ているような気がした。
「これを、諦めたこと、後悔してるか」
哲也が、静かに尋ねた。
恵は、少し考えてから、答えた。
「後悔は、ないと思う。慶太を産んだことも、ここまでの暮らしも。でも、諦めたものが、ずっとそこにあったことも、本当だった」
哲也は、その言葉に、深く頷いた。
自分も、同じような感覚を、長い間、抱えてきたはずだった。
家族のためという言い訳の下に、本当は、ただ怖くて逃げていただけだったのに。
二人は、しばらく、黙ったまま、手帳のページを眺めていた。
「俺も、同じだ。二十六年間、何かを諦めたまま、ずっと逃げてきた」
哲也が、ぽつりと言った。
パリで起きたことを、哲也は、初めて、恵に詳しく語った。
ベルトランのこと、焦がしたソースのこと、二度と厨房に戻れないと思い込んでいたこと。
これまで一度も、誰にも話したことのない記憶だった。
「だから、今日、お増さんの店で、もう一度向き合えた時、何か、これまでとは違う場所に立てた気がした」
恵は、その言葉を聞いて、小さく頷いた。
「私も、今日、初めて、自分の中の何かが、終わってなかったことに気づけた」
その一言を口にした時、恵は、長年自分を縛っていた何かが、少しだけ軽くなるのを感じた。
二階では、慶太が、いつもより早く、布団に入っていた。
階下から聞こえる、両親の話し声に、耳を澄ませることもなく、ただ、今日見た光景を、何度も思い返していた。
台所の灯りの下で、二人は、これまでにないくらい長く、向き合って話し続けた。
時には、笑いながら。時には、涙ぐみながら。
これまでの二十年間に、積み残してきた言葉を、少しずつ、取り戻していくような時間だった。
「いつか、また店を持つ、なんて考えてる?」
哲也が、半分冗談のように、そう尋ねた。
恵は、少し考えてから、首を傾げた。
「分からない。でも、また何か作ってみたい気持ちは、ある」
その答えに、哲也は、満足そうに頷いた。
窓の外の月が、いつの間にか、高く昇っていた。
それでも、二人とも、時間を気にする様子は、まったくなかった。
会話が一区切りついたところで、恵が、ふと、口を開いた。
「今度、これ教えて」
恵は、手帳のページを指でなぞりながら、そう言った。
「あなたが今日、作ってた料理。あの、隠し味の使い方」
哲也は、少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「教えるなんて、まだ偉そうに言えないけどな」
「それでもいい。一緒に、台所に立ってみたい」
恵の声には、これまでの遠慮や諦めとは、まったく違う、はっきりとした意志があった。
哲也は、その変化に、誰よりも驚き、誰よりも嬉しく思った。
その一言に、哲也は、これまで感じたことのない、静かな喜びを覚えた。
厨房は、もう、自分一人だけの再生の場ではなかった。
これから、二人で、一緒に立っていく場所に、変わっていくのかもしれない。
震える手で、たった一人、夜中に立ち続けていたあの孤独な日々が、今、ようやく、誰かと分かち合える場所に変わろうとしていた。
窓の外には、夜が深く広がっていた。
テーブルの上の手帳は、もう、誰にも隠されることなく、二人の間に、静かに開かれたままになっていた。
明日からの暮らしが、すぐに何か大きく変わるわけではないだろう。
それでも、この夜の静かな対話だけは、きっと、二人の間に、長く残り続けるはずだ。




