第二十四話 残された店、残されたもの
イベントの熱気から数日が経ち、哲也の日常は、少しずつ、いつもの形に戻っていった。
それでも、以前とは、どこか違う感覚があった。
イベントから数日後、哲也は、出社した朝、浜田に呼び止められた。
「部長、会議の件、報告が遅くなりましたけど」
浜田は、緊張した面持ちで、資料を差し出した。
会議は、無事に乗り切れたという。
昇進の件は、来期へ持ち越しになったが、それ以上のお咎めはなかったらしい。
「お前のおかげだ。助かった」
哲也が、そう言うと、浜田は、少し誇らしげな顔をした。
その誇らしさの中に、これまでの憧れとは違う、何か新しい自信のようなものが、垣間見えた気がした。
それから、ふと、思い出したように尋ねてきた。
「そういえば、部長が休んでた日、何があったんですか。差し支えなければ、聞いてもいいですか」
哲也は、少し考えてから、簡単に話した。
商店街のイベントで、料理を作っていたこと。
それだけを、控えめに伝えた。
「料理、ですか。今度、その店、教えてください」
浜田は、そう言って笑った。
哲也も、自然と、笑みを返すことができた。
いつか、本当に連れて行く日が来るかもしれない。
そんな小さな想像が、哲也の中に、ふと浮かんだ。
その同じ週、慶太のもとには、沙耶から、また一通のメッセージが届いていた。
「知り合いに、町の定食屋を紹介してるサイトやってる人がいるよ。良かったら紹介する」
慶太は、その文字を、しばらく見つめた。
すぐに何か動く気にはなれなかったが、それでも、その一文を、すぐには消さずに残しておいた。
いつかは、その紹介を受けてみてもいいかもしれない。
そう思えるようになった自分に、慶太自身、まだ少し戸惑っていた。
休みの日、慶太は、父に頼んで、「ますや」へ連れて行ってもらった。
これまで、慶太自身は、一度も、店の中に入ったことがなかった。
商店街の裏路地を歩きながら、慶太は、深夜の台所で見た父の姿と、今、隣を並んで歩く父の姿を、何度も重ね合わせていた。
同じ人間のはずなのに、どこか、まだ少し不思議な感覚があった。
引き戸をくぐると、カウンターの向こうに、お増がいた。
哲也から話を聞いていたのか、彼女は、慶太を見ても、特に驚いた様子は見せなかった。
「あんたが、慶太か」
「……はい」
お増は、慶太の顔を、しばらくじっと見つめていた。
自分の息子の若い頃と、どこか重なるところがあるのか、それとも、まったく別の何かを見ているのか、慶太には、判断がつかなかった。
「あんたの父さん、ずいぶん世話になったよ」
お増は、そう言って、軽く笑った。
慶太は、何と返せばいいか分からず、ただ頭を下げた。
店の中は、想像していたよりも、ずっと小さかった。
それでも、その狭さの中に、長年積み重ねられてきた何かが、確かに息づいているのが感じられた。
会話の中で、慶太は、店が、もうすぐ本当に畳まれることを知った。
来月の終わりには、シャッターが、永久に下りるという。
「永久に」という言葉の重さが、慶太の中で、ゆっくりと広がっていった。
その事実を聞いた時、慶太の中で、ある考えが、自然と浮かび上がった。
なくなる、という言葉が、思った以上に、慶太の胸に重く響いた。
父が、震える手で取り戻そうとしていたこの場所が、もう、永遠には残らないのだという事実が、急に、生々しく感じられた。
「お増さん、店が、なくなる前に、写真を撮らせてもらえませんか」
言ってから、慶太は、自分でも、その理由を、はっきりと説明できないことに気づいた。
なぜ、撮りたいのか。誰に見せるためでもない。
それでも、この場所の今の姿を、どうしても、残しておきたいという思いだけが、確かにあった。
これまでの自分なら、こんな申し出を、自分から口にすることは、なかったはずだ。
何かを「したい」と思うことすら、長い間、忘れていた感覚だった。
お増は、しばらく、慶太の顔を見つめていた。
「いいよ。好きに撮りな」
お増の声には、これまで聞いたことのない、柔らかさが混じっていた。
その許可をもらった瞬間、慶太の中で、何かが、すっと軽くなった気がした。
慶太は、スマートフォンを取り出し、店の中を、丁寧に撮っていった。
古びたカウンター、何年も同じ月のままの日めくりカレンダー、使い込まれた鍋や包丁。
どれも、何の変哲もない、ただの道具だった。
それでも、慶太の目には、その一つ一つに、長い時間の重みが宿っているように見えた。
カウンターの木目には、無数の傷が残っていた。
何十年もの間、ここで何かが作られ続けてきたという証だった。
慶太は、その傷の一本一本に、レンズを近づけてみた。
午後の柔らかい光が、引き戸の隙間から、斜めに差し込んでいた。
その光の中で、埃や湯気の名残が、ゆっくりと舞っているのが見えた。
慶太は、その光景も、忘れずにレンズに収めた。
棚の隅にある、古い写真立ても、そっと撮らせてもらった。
色褪せて、誰が写っているのかは、はっきりとは分からなかった。
それでも、お増にとって、大切な何かであることだけは、伝わってきた。
その写真立ては、いつも同じ場所に置かれているのだろう。
埃の積もり方が、そう物語っていた。
慶太は、それ以上、深く尋ねることはしなかった。
「いい写真、撮るね、あんた」
お増が、横から覗き込んで、そう言った。
「うちの息子も、昔、写真が好きだったんだよ」
その一言に、お増自身が、少し驚いたような顔をした。
長い間、口にしてこなかった言葉が、思いがけず、こぼれ出たようだった。
お増は、それ以上、何も続けなかった。
それでも、その短い一言の中に、これまで誰にも語らなかった、長い年月の重みが、確かに滲んでいた。
慶太は、それ以上、何も聞かなかった。
ただ、その言葉の重みだけを、静かに受け止めた。
その夜、店を閉めた後、お増は、奥の部屋で、一人になった。
茶箪笥の引き出しを開け、書きかけのままの年賀状を取り出す。
何十年も、同じように、途中で止まっていた言葉だった。
慶太の、あの何気ない申し出が、お増の中で、何かを動かしていた。
誰かが、この店の――この人生の、残された時間を、惜しんでくれている。
その事実が、お増に、もう一度、ペンを取る勇気を与えていた。
謝るための言葉を、何十年も探し続けてきた。
それでも、見つからなかった。
今夜は、謝るためではなく、ただ、もう一度繋がりたいという思いだけを、書こうと思った。
哲也のことを、お増は、ふと思い出した。
あの男も、長い沈黙の果てに、ようやく一歩を踏み出した。
自分も、同じように、できるはずだ。
そう思えたことが、今夜の、何よりの支えだった。
お増は、震える指先で、ペンを握った。
「正一、元気にしているか」
そこまで書いて、一度、手を止めた。
それから、続けて、もう一行を書き加えた。
「店は、もうすぐ畳むことになった。一度、顔を見せてくれないか」
短い文章だった。
それでも、何十年分の思いが、その短い行間に、確かに込められていた。
書き終えた文字を、お増は、何度も読み返した。
これで十分なのか、もっと書くべきことがあるのか、判断がつかなかった。
それでも、これ以上付け加えれば、却って、本当の気持ちが薄れてしまう気がした。
お増は、その葉書を、封筒に入れ、そっと文机の上に置いた。
投函するのは、明日にしよう。
今夜は、ただ、書き終えたという事実だけを、静かに胸に抱いていたかった。
長年、自分を縛っていた何かが、ようやく、少しだけ緩んだ気がした。
結果がどうなるかは、まだ分からない。
それでも、一歩を踏み出せたという事実だけで、十分だった。
窓の外では、夜が、いつものように静かに更けていった。
だが、その静けさの中には、これまでとは違う、何か温かいものが、確かに混じっているよううに思えた。




