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ちゃんと帰ってる

退勤するころには、空の色が薄く沈みはじめていた。


昼の打ち合わせの見積もりを直し、藤嶋さんに確認してから先方にメールを送った。会議室でうまく流れたものの後始末を、結局、有羽が黙って片づけた。


会社を出たあとも、しばらく藤嶋さんの声が耳の奥に残っていた。


武器になるから。


営業なんて物騒だよ。


改札を抜け、駅前のスーパーの白い光を横目に過ぎる。袋を下げた人たちが、夕飯の匂いの方へ急いでいた。川沿いの道に入ると、人の声が少し遠くなった。


橋の手前で、風が強くなる。欄干の下、川は黒く、夕方の空だけを薄く映していた。満開だった桜はもうだいぶ散って、花びらの残りが、欄干の隅や排水口のまわりに濡れたまま貼りついている。


春なのに、風が冷たい。ブラウスの裾から、風が入ってくる。スマホを持つ指先が、風で少し冷えていた。



手の中で、画面が震えた。画面を開くと、彼からだった。


|彼:帰れた?


有羽は片手で返信した。


|有羽:帰ってる


すぐに既読がついた。


|彼:ちゃんと?


有羽は少しだけ眉を寄せる。


|有羽:ちゃんとってなに


今度は、数秒空いた。


|彼:迷子になってないかなって


足が止まった。


彼のアイコンは笑っている。


有羽はスマホを下ろした。


昼間、自分が言った「まだまだです」の声の高さが、まだ耳に残っている。


彼は何も知らない。朝の引き出しのことも、昼の会議室のことも。

なのに、その言葉だけが、少しだけ温かい場所に触った。


欄干の向こうに、桜の枝が見えた。もうほとんど葉の色に変わりかけていて、それでも枝先にだけ、薄い花がいくつか残っている。


泣くほどのことじゃない。そう思う前に、喉の奥が先に詰まった。


有羽は空を見た。涙がこぼれないように、というより、こぼれたら自分でも理由がわからなくなりそうだった。


風で目の端が冷えた。


少し笑った。


「ばか」


声は風に流されて、橋の上に残らなかった。でも、たしかに外に出た。


何もわかっていないくせに。



有羽はスマホを持ち直す。


|有羽:うるさい


すぐに返ってくる。


|彼:心配したのに


有羽は、しばらく画面を見ていた。

心配、という言葉は少し大げさで、少し雑で、彼らしかった。


有羽は短く打った。


|有羽:うん


送信してから、息を吐いた。

ブラウスの内側で、ウエストバンドが呼吸を支える。


有羽は足元を見た。歩道の継ぎ目と、自分のパンプスがあった。



橋の向こうには、コンビニの灯りがあった。マンションの窓がいくつか光っている。風の中で、桜の残りが揺れていた。


有羽はスマホを鞄にしまい、橋の続きを歩いた。

2026.5.6 彼のメッセージ周りを一部調整しました

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