今日選ばなかっただけで
玄関の電気をつけると、部屋は朝のままだった。
靴を脱いで、鍵を小皿に置く。少しこもった音がした。朝は急いでいて気づかなかったけれど、皿の端に、いつ買ったのかわからないレシートが一枚折れたまま乗っていた。
有羽はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
ちゃんとしている部屋、ではなかった。
鞄を床に置いて、ブラウスのボタンを外す。肩から布を抜くと、昼の会議室の空調の冷たさが、少し遅れて肌から剥がれた気がした。
鏡の中に、CKの黒いウエストバンドが見えた。朝、自分で選んだものだった。会議室にも、橋の上にも、ここまで一緒に来た。
有羽は鏡から目を外した。
ブラウスを椅子の背にかける。
朝、出かける前に開けた下着の引き出しが、ほんの少し開いたままになっていた。
有羽はしゃがんで、指先で引き出しを引いた。朝、戻したレースが、端の方で少し潰れていた。急いで押し込んだせいで、薄い縁が折れて、隣の布の下に入り込んでいる。
彼に似合うと言われたい自分を、今日はまだ、引き出しの奥に置いておく。
有羽はレースをつまんで、そっと形を直した。
選ばなかったからといって、潰したままにしておく理由はなかった。今日選ばなかっただけで、嫌いになったわけでもなかった。
指を離すと、レースは頼りない薄さのまま、そこに戻った。
スマホが震えた。画面には、彼の名前。
|彼:着いた?
有羽は片手で返す。
|有羽:着いた
すぐに既読がついた。
|彼:おつかれ
有羽は返信欄を開いた。
|有羽:帰ってきた
送ってから、スマホをベッドの上に伏せた。
洗面所へ行く前に、玄関の方を見た。小皿の上で、鍵がひとつだけ光っている。
もし、と思う。
もしこの部屋に、彼がいたら。
朝の引き出しも、椅子にかけたブラウスも、レシートの乗った小皿も、たぶんそのまま見られる。
仕事で少し削れて、橋の上で「ばか」と言って、「帰ってきた」とだけ返して画面を伏せる自分も、いつか同じ部屋に置かれる。
それはまだ、少し怖かった。
でも、怖いだけでもなかった。
有羽はレシートを取り、小皿の端に寄っていた鍵を、指で真ん中に戻した。
さっきより、軽い音がした。
今はまだ、これでいい。
2026.5.6 ラストを一部調整しました




