隠さないほうがいいよ
「今日の先方、教えるの好きなタイプだから」
駅を出てすぐ、藤嶋さんが言った。
信号待ちの短い時間にも、相手先の癖を二つ三つ並べられる人だった。受付の人の名前、総務部長の好きな野球チーム、前回出されたお茶が熱すぎたことまで覚えている。
「有羽は、変にできる感じ出さなくていいよ」
春の昼は、朝よりも白っぽかった。ビルのガラスが、空ではなく光だけを返している。
「できない感じを出す仕事ですか」
「感じよく聞く仕事」
藤嶋さんは笑った。
有羽も笑った。
笑えた。
取引先のビルは古く、エレベーターの中に貼られた点検済みのシールだけが新しかった。
視界の端で、藤嶋さんが鏡でネクタイを直している。
会議室に通されると、白い蛍光灯と、少し強すぎる空調が先にあった。
総務部長だという男の人は、藤嶋さんと名刺を交換したあと、有羽の名刺を見て、それから顔を見た。
「藤嶋さん、今日はずいぶん感じのいい人連れてきたね」
有羽は笑った。
「有羽です。本日はよろしくお願いします」
声が少し高くなる。
明るくて、柔らかくて、相手が続きを話しやすい高さだった。
資料の料金表は、有羽が朝いちばんに差し替えたものだった。プランごとの違いも、更新時の注意点も、わかっている。質問されれば答えられる。たぶん、藤嶋さんが説明するより、細かいところまで言える。
資料の角が、指先に当たっていた。そのままめくれば、自分で説明できるページだった。
でも、総務部長は有羽の方に体を向けて、ペン先で資料を叩いた。
「ここ、最初はわかりにくいよね。まあ、慣れたら簡単なんだけど」
「はい。整理して覚えます」
膝の上で揃えた手が、自分のものではないみたいに行儀よく見えた。
「真面目だねえ」
藤嶋さんが横で笑う。
「彼女、真面目なんですよ」
それを言うなら、いま説明させてくれればいいのに、と思った。思ったまま、有羽は少し首を傾けた。
「まだまだです」
その言い方まで、うまくできた。
相手は気持ちよく話した。
藤嶋さんは気持ちよく相槌を打った。
資料の束が、机の上で少しずつ藤嶋さんの方へ寄っていく。総務部長のペン先は、説明したい箇所だけを何度も叩いた。
その音が重なるたびに、話の向きだけが少しずつ決まっていった。
有羽の声は、その少し前に置かれている気がした。
「若い人が一生懸命聞いてくれると、こっちも説明しがいがあるよ」
「ありがとうございます。勉強になります」
助かっているのは、たぶん向こうだった。
打ち合わせは悪くなかった。次回、条件を詰めることになった。
エレベーターを降りたところで、藤嶋さんはスマホを確認しながら言った。
「よかったよ。ああいう人、有羽みたいな子に弱いから」
「弱いって、何にですか」
「女の子感。変に隠さない方がいいよ。武器になるから」
隠す。
一瞬、言葉が遅れた。
「武器って、物騒ですね」
「営業なんて物騒だよ」
藤嶋さんは笑った。
有羽も笑った。
また、笑えた。
隠した覚えはなかった。
出した覚えもなかった。
それなのに、そう見えるものだけが、有羽より少し先に会議室へ入っていった気がした。名刺を差し出した手と、少し高い声で言った「まだまだです」が、あとから少し遅れて残った。
会社に戻る途中、彼に短く送った。
|有羽:今日、ちょっと長引いた
返事はすぐだった。
|彼:りょ
|彼:無理しないで
有羽は親指を止めた。
|有羽:してない
少し置いて、また震える。
|彼:ほんとに?
画面を見て、少し笑った。
さっきの笑いより、ずっと短くて、下手だった。




