第8話 ノエル様の部屋で長い時間を過ごした雨の日
その日、ローゼンタール離宮の門をくぐった頃に、空が、急に、暗くなった。
ぽつ、ぽつ、と、雨粒。
──、と思ったら。
ざぁぁぁぁ。
一気に、世界が水音で満たされる。
「うわっ、すごい」
慌てて、館の中に駆け込んだ私を、セバスチャンが、心配そうに、迎えた。
「リリィ様、お濡れになりませんでしたか」
「うん、ちょっとだけ」
「すぐに、タオルを」
セバスチャンは、白いタオルで、私の頭を、ふきふき、してくれた。
「ありがとう、セバスチャン」
「本日は、雨が、ひどそうでございますね」
「うん、ーー、止むまで、ここに、いてもいい?」
「もちろんでございます。坊ちゃまの寝室で、ーー、ごゆっくり」
──ふふ。
雨の日に、ノエル様の部屋で、長く過ごせる。
なんだか、嬉しい。
◇◇◇
寝室の扉を開けると、ノエル様は、いつものように、ベッドの上に、座っていた。
──、けれど。
その目の奥が、いつもよりほんの少しだけ、明るい気がした。
「ノエル様、こんにちは」
「こんにちは」
「すごい雨だね」
「知っている」
「止むまで、ここに、いてもいい?」
「勝手に、しろ」
──、ふふ。
ノエル様の「勝手にしろ」は、いつだって「YES」だ。
ノエル様も、嬉しいんだ。
私が、長くいられるのが、嬉しいんだ。
◇◇◇
「ノエル様、髪、梳く?」
「ーー、頼む」
──!
ノエル様、「頼む」って、言った。
「頼む」なんて、初めて、聞いた気がする。
胸の奥が、ぱっと、明るくなった。
「うん、梳く」
私は、銀色の櫛を取って、いつもの場所に、ぺたんと座った。
ノエル様は、自分から、後ろを向いてくれる。もう、私と髪を梳く時の姿勢は、二人の間の、決まりごとになっていた。
しゅるり。
しゅるり。
外では、激しい雨の音。
ざぁぁぁぁ、と、世界が水でできているみたいな音。
けれど、寝室の中は、不思議なくらい、静かで、温かかった。
「ノエル様」
「何だ」
「雨、好き?」
「ーー、わからない」
「わからない?」
「外に、ーー、出ない、から」
──、ああ。
──ノエル様は、外に、出ない。
──雨も、知らない。
──太陽の下の風も、知らない。
──お庭のお花の香りも、知らない。
そう思った瞬間、私の手が、ぴたっ、と止まってしまった。
「ーー、続けて、くれ」
「あ、うん、ごめんね」
私は、また、ゆっくりと、櫛を入れた。
──いつか、絶対、ノエル様を、お外に、連れていってあげたい。
そう、決めた。
◇◇◇
雨は、なかなか、止まなかった。
ノエル様の髪を梳き終えて、紅茶を飲んで、絵本を読んでもらって、それでも、まだ、雨は、降っていた。
「ノエル様」
「何だ」
「お外、行ったことが、ない、って、本当?」
「ーー」
「お庭にも、ない?」
ノエル様は、しばらく、黙っていた。
そして、ぼそっ、と。
「お庭から、見える、お花の名前を、ーー、知らない」
「ノエル様。お花の名前、私が、教えてあげる」
「知らない」
「絶対、教える」
「要らん」
「いいから、いいから」
私は、窓辺に、駆け寄った。
雨に濡れたお庭は、緑が、しっとり輝いて、ところどころに、薔薇の花が、ぽつん、ぽつん、と、咲いていた。
「ノエル様、見て、あの白いお花、薔薇って言うんだよ」
「知っている」
「えっ、知ってるの?」
「本で、読んだ」
「ふんふん、すごい」
「ーー、本物は、初めて、見る」
──、ああ。
「ノエル様、ーー、窓まで、おいで」
「ーー」
「見えるよ、お花」
「ーー、わかった」
ノエル様は、ゆっくりと、ベッドから降りた。
そして、私と一緒に、窓辺に、立った。
レースのカーテンを少しめくると、ガラス越しに、雨に濡れたお庭が、揺れていた。
「あれが、白い薔薇」
「ーー」
「あっちのピンクの薔薇は、また、別の種類」
「ーー」
「あの黄色いお花は、たんぽぽ。村の道端にも、いっぱい咲いてる」
「ーー、たんぽぽ」
ノエル様は、じっと、窓の外を、見つめていた。
その目が、なんだか、輝いていた。
初めて、お庭を、ちゃんと、見つめている、みたいに。
雨に揺れる白い薔薇が、ガラスの向こうで、ふわり、と、揺れていた。
「ノエル様」
「何だ」
「いつか、雨が止んだら、ーー、一緒に、お庭、出ようね」
「ーー」
「お薬の力で、ノエル様、もう少し、お元気になったら、ーー、絶対、出ようね」
ノエル様は、長い間、黙っていた。
それから、消えそうな声で、呟いた。
「ーー、約束だ」
──!
ノエル様、「約束」って、言ってくれた。
私の頬が、ぱあっと、熱くなった。
「うん、約束」
私は、ノエル様の白い小さな手を握って、指を、絡めた。
「ゆーびきり、げーんまん、嘘ついたら、針千本のーます」
「何を、しているんだ」
「指切り、知らないの?」
「知らない」
「えへへ、約束する時に、こうやって、するの」
「ーー」
──ふふ。
ノエル様、指切りも、知らないんだ。
私が、いっぱい、教えてあげる。
◇◇◇
その時、扉が、開いた。
セバスチャンが、お盆に、温かいスープを乗せて、入ってきた。
「リリィ様、本日は、雨がひどく、お夕食までは、止みそうにございません」
「うん」
「よろしければ、お夕食も、こちらで、お召し上がりください」
──!
ノエル様と、お夕食。
「うん、食べる、絶対、食べる」
「お父様には、館の者を、お知らせに、向かわせております」
「ありがとう、セバスチャン」
「坊ちゃまも、本日は、ご一緒に、お召し上がりに、なりますか?」
ノエル様は、ぷいっ、と顔を背けた。
「勝手に、しろ」
──、ふふ。
「勝手にしろ」は、YES。
◇◇◇
お夕食は、温かいスープと、ふわふわの白いパン、それから、お野菜の煮込み。
向かい合った、ちっちゃなテーブルで、ノエル様と二人で、食べた。
「ノエル様、これ、美味しい」
「別に」
「お野菜も、いっぱい食べてね」
「命令、するな」
「お野菜、嫌い?」
「ーー、好きでも、嫌いでも、ない」
「えへへ」
「何が、おかしい」
──ふふ。
ノエル様、お野菜を、ちゃんと、食べていた。
嫌いだったら、絶対、食べないはず。
スプーンを口に運ぶ仕草が、最初の頃よりも、ずいぶん、しっかりしている。
──ちょっと、ずつ、元気に、なっている。
◇◇◇
お夕食を食べ終わる頃。
ふと、外を見ると、雨は、まだ、止まなかった。
「リリィ」
ノエル様が、ぼそっ、と、呼んだ。
「うん?」
「お前、ーー、家まで、帰れるのか」
──、あ。
ノエル様、心配してくれてる。
「お父さんが、迎えに、来てくれるはず」
「ーー、雨が、ひどい」
「うん」
ノエル様は、しばらく、黙っていた。
それから、ぼそりと。
「ーー、無事に、帰れよ」
──!
ノエル様、心配してくれた。
「うん、絶対、無事に、帰る」
「ーー」
──ふふ。
ノエル様の頬が、また、ピンクに染まった。
──可愛い。
◇◇◇
雨が、ようやく、止んだ頃。
館の玄関に、お父さんが、迎えに来てくれた。
「リリィ、大丈夫だったか」
「うん、大丈夫」
「坊ちゃまには、ご迷惑を、おかけしました」
「いえいえ、こちらこそ、リリィ様が、いてくださって、本当に、楽しい一日でございました」
セバスチャンが、深々と、頭を下げた。
ーーと、ふと振り返ると。
二階の、ノエル様の寝室の窓に、小さな影が見えた。
ノエル様、見送ってくれてる。
私は、両手を、ぶんぶん、と振った。
「ノエル様ーーー、また明日ーーー」
──、と。
ノエル様の、ちっちゃな手も、ぴょこっ、と、上がった。
──ふふ。
◇◇◇
帰り道。
雨上がりの空に、虹が、出ていた。
「お父さん、虹だ」
「お、本当だな」
──ノエル様が、いつか、初めて外に出るとき、虹を見たら、どんな顔をするんだろう。
──ふふ。
いつか、絶対、ノエル様と、虹を見たい。
リリィ・ホーニング、六歳の春。
呪われた男の子に、薬草を運ぶ日々の、二週間と四日目。
雨の日に、ノエル様と、たくさんお話しした、特別な一日。
そして、ノエル様と、お外に出る、約束を、した日。




