第7話 ノエル様の黒い髪を、初めて梳いた日
その日、寝室の扉を開けて、私は、思わず、ぱちぱちと、まばたきをした。
「ノエル様、おはよう」
ベッドの上に、いつも通り、上体を起こして、座っているノエル様。
──、けれど。
その艶やかな黒い髪が、ぐしゃぐしゃに、乱れていた。
寝癖だけでは説明がつかない、それは、なにかと、いっしょうけんめい、戦った後のような、ぼさぼさ加減だった。
「ノエル様、髪が、ぐしゃぐしゃ」
「知っている」
「えっ、知ってるの?」
「当たり前だ」
「セバスチャン、梳いてくれなかったの?」
「自分で、梳く、と、言った」
「えっ」
「自分の髪くらい、ーー、自分で、梳けるはずだ」
──、ああ。
ノエル様、自分で、頑張ろうとしたんだ。
枕元のテーブルを見ると、銀色の櫛が、ぽつんと置いてあった。
──手が、震えるんだろうな。
──きっと、何度も、梳き始めて、何度も、絡まって、何度も、諦めて。
──それでも、人には、お願いできなくて。
「ノエル様。私が、梳いてあげる」
「要らん」
「いいから、いいから」
「女の手で、ぼくの髪に、触るな」
──、また。
ノエル様、ツンツン。
──、けれど。
最近、私は、ノエル様の「ツンツン」が、もう、刺じゃないことが、わかってきた。
口癖、みたいなものだ、と。
「女の子の手でも、髪は、梳けるよ」
「ーー」
「いいから、いいから」
私は、銀の櫛を、ひょいっと取って、ベッドの上に、登った。
ノエル様の後ろに、ぺたんと座る。
──夜空、みたいだった。
ノエル様の、黒い髪。
ただ黒いだけじゃなくて、よく見ると、青の、銀の、藍の、いくつもの色が、重なっている。
月の光を、撚り合わせて、編んだ糸。
そんなふうに、私には、見えた。
◇◇◇
櫛を、ゆっくり、ゆっくり、と入れた。
しゅるり。
ノエル様の体が、ぴくっ、と震えた。
「あ、痛かった?」
「ーー、痛くは、ない」
「よかった」
もう一度、ゆっくり、櫛を入れる。
しゅるり。
ノエル様の髪は、長いこと寝込んでいたせいで、汗と熱で、ところどころ、もつれて、ごわついていた。
それでも、もつれを、ひとつ、ふたつ、と丁寧にほどいていくうちに、櫛は、だんだん、通りやすくなっていった。
しゅるり、しゅるり。
「ノエル様の髪、すごく、綺麗」
「別に」
「お母さんの髪も綺麗だけど、ノエル様の方が、もっと、綺麗」
「ーー」
ノエル様は、答えなかった。
ただ、その耳が、ほんのり、染まっていた。
──ふふ。
しゅるり、しゅるり。
何度か繰り返すうちに、ノエル様の髪は、もとの、つるつるの、夜空に、戻った。
「できた」
私が宣言すると、ノエル様は、答えなかった。
「ノエル様?」
そっと、横から、覗き込む。
──、と。
ノエル様は、目をぎゅっと、閉じていた。
頬は、桜色に染まり、唇は、固く結ばれていて、なにか、すごく、緊張しているような顔をしていた。
「ノエル様、大丈夫?どこか、痛い?」
「痛くは、ない」
「じゃあ、どうしたの?」
しばらく、答えがなかった。
そして、ぼそりと。
「人に、髪を、梳かれるのは、初めて、だ」
──え。
「セバスチャンも?」
「セバスチャンにも、触らせなかった」
「えっ」
「人に、触られるのが、嫌だった」
──、ああ。
ノエル様、ずっと、独りで、頑張ってきたんだ。
呪いが移らないように、と。
誰も、巻き込まないように、と。
そうやって、髪に触れることさえ、誰にも、許してこなかったんだ。
何年も。
何年も。
胸の奥が、ぎゅっと、痛くなった。
「ノエル様」
「何だ」
「梳いて、嫌だった?」
ノエル様は、しばらく、黙っていた。
それから、消えそうなくらい、ちっちゃな声で。
「嫌じゃ、なかった」
──!
私の心臓が、跳ねた。
「えへへ、よかった」
「ーー」
「明日も、梳いてあげるね」
「ーー」
「ノエル様?」
「勝手に、しろ」
──、ふふ。
ノエル様の「勝手にしろ」は、いつだって、「YES」だ。
◇◇◇
その時、扉が、ぎぃ、と開いた。
セバスチャンが、銀のお盆を持って、入ってきた。
そして、艶やかに整えられた、ノエル様の髪を見て、ぴたり、と足を止めた。
「ーー、坊ちゃまの、髪が、ーー」
セバスチャンの目に、また、涙が、にじんだ。
「リリィ様が、坊ちゃまの髪を、梳いてくださったので、ございますか」
「うん」
「坊ちゃまが、人に、髪を、お触らせに、なるなど、ーー」
「セバスチャン、うるさい」
「申し訳、ございません、坊ちゃま」
セバスチャンは、ぼろぼろ、と涙を流した。
──、また、泣いている。
セバスチャンは、ちょっとしたことで、泣いてしまう。
でも、その涙が、なんだか、温かい。
ノエル様が、そうやって、誰かに泣いてもらえる人で、よかった、と思った。
◇◇◇
その日、紅茶を飲みながら、ノエル様が、ぼそりと、呟いた。
「リリィ」
「うん?」
「明日も、ーー、梳いて、くれるか」
──!
ノエル様、自分から、頼んでくれた。
「うん、梳く、絶対、梳く」
「ーー」
ノエル様の頬が、また、桜色に染まった。
──ふふ。
可愛い、ノエル様。
「ノエル様、明日は、リボンも、付ける?」
「いや、要らん」
「えへへ、可愛くなるよ?」
「男に、リボンを、付ける奴があるか」
「えへへ」
「ーー」
──ふふふ。
リボンは、まだ、ダメみたい。
◇◇◇
帰り道。
私は、空の籠を、ぶんぶん、と振りながら、歩いた。
ノエル様の、艶やかな黒い髪。
櫛を入れたときの、しゅるり、という音。
ノエル様の、桜色の頬。
──、ふふ。
私の指が、まだ、ノエル様の髪の感触を、覚えていた。
絹みたい。
ずっと、触っていたかった。
ふと、振り返ると、ローゼンタール離宮の、二階の窓に、ノエル様の影が、見えた。
夕焼けに照らされて、艶やかな黒い髪が、夜空みたいに、輝いていた。
──ふふ。
明日も、絶対、来る。
ノエル様の髪を、また、梳いてあげる。
リリィ・ホーニング、六歳の春。
呪われた男の子に、薬草を運ぶ日々の、二週間と三日目。
ノエル様の艶やかな黒い髪を、初めて、私が梳いた日。
ノエル様が、初めて、私に、「触れていい」と、許してくださった日。




