第6話 セバスチャン老執事が、私に温かい紅茶を出してくれた日
その日、ローゼンタール離宮の門で私を迎えてくれたのはぴかぴかに磨き上げた銀のお盆を抱えた、セバスチャンだった。
「リリィ様、本日はちょっとご相談が」
「うん?」
セバスチャンは優しく微笑んだ。
「本日は坊ちゃまの寝室ではなく、応接間にお通しいたしましょう」
「応接間?」
「ええ。坊ちゃまもご自分の足で応接間までいらっしゃると」
え。
ノエル様、寝室から出てくるの?
胸の奥がぴょこんと跳ねた。
「坊ちゃまがリリィ様と応接間でお茶をご一緒したい、と」
「!」
ノエル様が私と?
応接間でお茶?
「うん、行く、絶対行く」
「ふふ、リリィ様、楽しそうで」
楽しい。
ノエル様とお茶。
それだけでこんなに嬉しくなる。
◇◇◇
応接間は館の一階の大きな部屋だった。
暖炉の薪がぱち、と弾ぜている。
足の長い、ふかふかのソファが向かい合って、ふたつ。
その間に白いレースのテーブルクロスが敷かれた、低い卓。
奥には見たこともないくらい大きな窓があって、レースのカーテン越しに午後の光が差し込んでいる。
「うわぁ……お姫様のお部屋みたい」
私は思わず、目をまんまるにした。
「リリィ様、こちらにお掛けください」
セバスチャンが片方のソファを示した。
座ったソファはぽふん、と私の体を丸ごと受け止めるくらい、柔らかかった。
「うわっ、ふわふわ」
「ふふ、可愛らしい」
セバスチャンはちらり、と扉の方を見た。
「まもなく、坊ちゃまがお越しになります」
「うん」
ドキドキ。
ドキドキ。
私はソファの上で姿勢をぴしっ、と直した。
ノエル様が来る前にお行儀よくしておかなきゃ。
◇◇◇
扉がぎぃ、と開いた。
そして、ノエル様がゆっくりと入ってきた。
わぁ。
寝間着、じゃない。
ちっちゃな白いシャツに紺色のベスト。
髪もいつもよりきちんと整えられて、襟元には銀色の細いリボンが結ばれていた。
絵本の挿絵から抜け出してきた、子供の王子様みたいだった。
「リリィ」
「ノエル様」
私は思わず、ソファから立ち上がろうとした。
「座れ」
「あ、はい」
ぺたん、と座り直す。
ノエル様は向かいのソファにゆっくりと腰を下ろした。
二人で向かい合って、座る。
初めて。
ベッドの脇じゃない。
ちゃんと向かい合って。
それだけのことで私の心臓はもう、ばくばくになっていた。
◇◇◇
セバスチャンが銀のお盆に紅茶のセットを乗せて、入ってきた。
「リリィ様、本日は温かい紅茶を」
「うん、ありがとう」
セバスチャンは丁寧に私のカップに紅茶を注いだ。
ふわっ、と甘い香りが立ち昇る。
「こちらは坊ちゃまがご指定くださった、紅茶でございます」
「ノエル様が?」
「ええ、リリィ様のお好きそうな、甘い香りのものをと」
──、!
私は思わず、ノエル様の顔を見た。
ノエル様はぷいっ、と顔を背けていた。
「セバスチャン、余計なことを言うな」
「申し訳ございません、坊ちゃま」
ふふふ。
ノエル様、私のために紅茶を選んでくれた。
「ノエル様、ありがとう」
「知らん」
「えへへ」
◇◇◇
私はふーふー、と紅茶を冷まして、一口、飲んだ。
舌の上ではちみつみたいな甘い香りと果物みたいな酸っぱい香りがふっとほどけていく。
「ノエル様、これ、美味しい」
「当たり前だ」
「お母さんが淹れる紅茶とはちょっと違うね」
「特別な銘柄だ」
「ふんふん」
「もう少し、覚えておけ」
ふふ。
ノエル様、私にいろんなことを教えてくれる。
ノエル様も自分のカップを両手で包んでゆっくり口に運んだ。
湯気がノエル様のまつげにふわり、と乗った。
その光景がなんだか、すごく、絵みたいに綺麗で私は思わず、じっと見つめてしまった。
「何を見ている」
「ノエル様、綺麗だなって」
ノエル様の紅茶を持つ手がぴくっ、と震えた。
頬がぱっと染まる。
「お前、本当に──」
「うん?」
「いや、なんでもない」
ふふふ。
◇◇◇
セバスチャンがちっちゃなクッキーをお皿に並べてくれた。
丸い、サクサクのクッキー。
ふんわりとバターの匂いが鼻をくすぐる。
「リリィ様、こちらもどうぞ」
「お菓子」
「坊ちゃまが本日はリリィ様のためにと」
「セバスチャン、余計な──」
「失礼いたしました」
ふふ。
セバスチャン、わざと教えてくれている。
ノエル様の優しさを。
「ノエル様、お菓子も?」
「……」
「ありがとう、ノエル様」
私は嬉しくて、嬉しくて、頬が勝手に持ち上がってしまうのを止められなかった。
ノエル様は顔を背けたまま、ぼそりと呟いた。
「毎日、毎日、お前は──」
「うん?」
「いや、忘れろ」
ふふ。
ノエル様、何か言いたいけど、言えないみたい。
私にはわかる。
ノエル様、嬉しいんでしょ。
私が毎日来るのが嬉しいんでしょ。
◇◇◇
クッキーをノエル様にも勧めた。
「ノエル様、これ、美味しいよ。食べてみて」
「要らん」
「美味しいって」
「……」
「あーん」
私はクッキーをふーふー、して、ノエル様の口元に運んだ。
「子供扱い、するな」
「あーん、して」
「お前、本当に──」
そう言いながら、結局、口を開けてくれるノエル様。
ふふ。
慣れた、みたい。
ノエル様の喉がこくん、と上下した。
「美味しい?」
「別に」
「ふふ」
「何がおかしい」
ふふふ。
◇◇◇
紅茶を全部、飲み終わった頃。
暖炉の薪がぱちんと音を立てた。
「リリィ様」
セバスチャンが私の方に身をかがめた。
「坊ちゃまのこうしたお顔は私、初めて、拝見いたします」
「えっ」
「リリィ様のおかげでございます」
ああ。
私はノエル様を見つめた。
ノエル様は顔を背けたまま、紅茶の空のカップを両手で大切そうに握っていた。
ノエル様。
勇気を出してくれたんだ。
私とお茶をするために。
寝間着じゃなくて、ちゃんと服を着て、髪も整えて、紅茶も選んで。
「ノエル様、ありがとう」
「知らん」
「えへへ嬉しい」
「……」
ノエル様の頬は暖炉の火のせいなのか、紅茶のせいなのか、それとも──、ほんのりと桜色に染まっていた。
ふふ。
ノエル様、本当に優しい。
◇◇◇
帰り際、セバスチャンが玄関まで私を見送ってくれた。
「リリィ様」
「うん?」
「本日は本当にありがとうございました」
「ううん、私、楽しかった」
「坊ちゃまのお顔が日々、明るくなっていきます」
「うん」
「リリィ様のお力でございます」
「えへへ私の力じゃないよ。ノエル様のお力だよ」
「リリィ様、ーー」
セバスチャンの目にまた、涙がにじんでいた。
私はセバスチャンのしわのある手を両手で握った。
「セバスチャン、ありがとうね」
「リリィ様、ーー」
セバスチャンのもう片方の目からぽろり、と涙がこぼれた。
◇◇◇
帰り道。
夕焼けがいつもより優しい橙色に見えた。
私は空になった籠をぶんぶん、と振りながら、歩いた。
ノエル様と応接間でお茶をした。
ノエル様、私のために紅茶を選んでくれた。
ノエル様、お菓子も用意してくれた。
ノエル様、私のこと好きになってくれた、かな。
お友達として、好きになってくれたら、嬉しいな。
ふと振り返るとローゼンタール離宮の二階の窓にノエル様の影が見えた。
ふふ。
また、見送ってくれてる。
私は両手をぶんぶん、と振った。
ノエル様の影もちっちゃな手をぴょこっ、と上げてくれた。
えへへ。
明日も絶対、来よう。
リリィ・ホーニング、六歳の春。
呪われた男の子に薬草を運ぶ日々の二週間と二日目。
ノエル様が初めて、私を応接間にお招きくださった日。




