第5話 ノエル様が、館の窓から手を振ってくれるようになった日
ノエル様がベッドからゆっくり、降りるようになった頃。
最初はベッドの傍の椅子まで二歩。
次の日は窓辺の小卓まで五歩。
それから寝室の壁ぞいをいったり、きたり。
それでもまだ、ノエル様の足は頼りなかった。
「リハビリ、というのが必要らしい」
そう、セバスチャンが教えてくれた。
「毎日、少しずつ、お体を動かして、お力を取り戻すのです」
「ふんふん」
「リリィ様のお力もぜひ」
「うん、私、お手伝いする」
ノエル様の体が元気になるように。
私ができることを、いっぱいする。
◇◇◇
その日の朝。
私はいつも通り、薬草籠を抱えて、森を抜けた。
小道を歩いて。
ローゼンタール離宮の大きな鉄の門が見えてきた、その時。
ふと、二階の窓を見上げた。
その日、窓はいつもと違って、ほんの少し、開いていた。
そして、その開いた窓の向こうに夜のような黒髪の頭がひとつ、覗いていた。
あ。
ノエル様。
窓からこっちを見てる。
胸の奥が温まる前に私の体がもう、勝手に動いていた。
「ノエル様ーーー」
声が館の壁に反響して、春の空に消えていった。
と、ノエル様の影が、ぴくっと動いた。
「あれ」
私は息を止めた。
もしかして。
手、振って、くれる?
ノエル様の小さな手の影が窓のふちに上がりかけて。
ぷいっ、と引っ込んだ。
そのまま、窓辺から影が消えた。
「ふふ」
照れちゃったんだ。
私は籠を抱えなおして、門の方へ駆け出した。
でもいいの。
ちゃんと私を見てくれてた。
それだけで嬉しい。
◇◇◇
寝室に着くとノエル様はベッドの上に戻って、何食わぬ顔で本を読むふりをしていた。
「ノエル様、こんにちは」
「ああ」
ぼそっといつもよりほんの少しだけ、優しい返事。
「窓からお外、見てたの?」
「見てない」
「ふふ、影が見えたよ」
「気のせいだ」
「えへへ」
「何がおかしい」
ノエル様、本当にわかりやすい。
私はベッドの脇にぺたん、と座って、いつものように竹の水筒を取り出した。
「お母さんが煎じてくれた薬草茶」
「また、それか」
「うん、また、これ」
「毎日、よく、飽きないな」
「だって、ノエル様、好きでしょ」
「別に」
そう言いながら、ノエル様はちゃんと両手で水筒を受け取った。
こく、こく、と喉が上下する。
「美味しい?」
「別に」
「ふふ」
「何がおかしい」
「ノエル様、今日は自分からごくごく飲んでくれたから」
「……喉が渇いていただけだ」
「昨日はなかなか、口をつけてくれなかったのに」
「うるさい」
◇◇◇
その日も絵本を読んでもらった。
ノエル様のぼそぼそした声は不思議と心が落ち着く声だった。
ゆっくりと温かいお湯に足先からつかっていくような。
そんな気持ちにさせる、声。
最後のページを閉じて、ノエル様がぼそりと呟いた。
「リリィ」
最近、ノエル様、たまに私の名前を呼んでくれる。
いつもは「お前」だけど、何かの拍子に、「リリィ」がこぼれる。
それがなんだか、嬉しい。
「うん?」
「明日も来るのか」
「うん、来るよ」
「……何時に」
「いつもの時間に」
「わかった」
「わかった」って言うときのノエル様の声はちょっとだけ、嬉しそうな響きを含んでいた。
私にはわかる。
きっとノエル様、明日も窓のところで待っている。
◇◇◇
帰り際、館の門を出た私はいつものように振り返った。
二階の寝室の窓にノエル様の影が見えた。
また、見送ってくれてる。
私は嬉しくて、両手をぶんぶん、と振った。
「ノエル様ーーー、また明日ーーー!」
その時。
ノエル様の影の片手が、ふっと上がった。
と思ったら、すぐに引っ込んだ。
「あ」
私は固まった。
振った?
ノエル様、手を振ってくれた?
もう一度、確かめようと目をこする間に影はもう、窓から消えていた。
ふふ。
気のせい、かもしれない。
けど、絶対、振ってくれた。
ノエル様のちっちゃな手が上がったのを私は確かに見た。
◇◇◇
家に帰って、お母さんに嬉しそうに報告した。
「お母さん、お母さん。今日、ノエル様、手を振ってくれたの」
「あら、本当?」
「うん、窓から」
「リリィ、よかったわね」
お母さんは私の頭を優しく、撫でた。
「ノエル様、少しずつ、心をひらいてくださっているのね」
「うん」
「人を助ける手伝いができるって、素敵なことよ」
「うん」
「でも無理はしないでね」
「うん、お母さん」
お母さんの瞳は青くて、深くて、いつもどおりだった。
けれど、その奥になにか、私の知らない、長い時間が揺れていた。
その揺らぎの意味を私はまだ、見つけられないでいた。
◇◇◇
次の日の朝。
私はいつもより早く目が覚めた。
なんだか、お腹の中がそわそわしている。
今日も振って、くれるかな。
「お母さん、薬草、用意できた?」
「あら、今日はずいぶん、早いのね」
「うん、早く、行きたいから」
お母さんはふっと優しく微笑んだ。
「楽しそうね、リリィ」
「うん、楽しい」
ノエル様に会いに行くのが楽しい。
毎日、楽しい。
私は籠を抱えて、家を飛び出した。
◇◇◇
離宮の門が見えてきた。
ドキドキしながら、二階の窓を見上げた。
いた。
ノエル様の影が窓辺に立っていた。
そして、私と目が合った瞬間に。
小さな手がぴょこっ、と上がった。
「ノエル様ーーー、おはようーーー」
私は両手をぶんぶん、ぶんぶん、と振った。
ノエル様の影ももう一度、手を振ってくれた。
ふふ。
ノエル様、手を振るのがちょっとだけ、上手になっていた。
けれど、まだ、ぎこちなくて。
たぶん、こっそり、鏡の前で練習したのかもしれない。
ふふふ。
可愛い、ノエル様。
◇◇◇
その日の帰り際、私はわざとノエル様に聞いてみた。
「ノエル様」
「何だ」
「窓から手、振ってくれたよね?」
「……」
「振ってくれたよね?」
「……知らない」
ふふふ。
ノエル様の「知らない」はいつだって、「YES」だ。
「えへへ、ありがとう」
「……」
「明日も振ってくれる?」
「振らない」
「ふふ、振ってくれるんでしょ」
「振らない、と言っている」
けれど。
ノエル様の耳はまた、ほんのり、赤くなっていた。
明日も絶対、振ってくれる。
私にはわかる。
◇◇◇
リリィ・ホーニング、六歳の春。
呪われた男の子に薬草を運ぶ日々の二週間と一日目。
ノエル様が初めて、窓から手を振ってくれた日。
その小さな手の動きが私にはーー、世界一の宝物に見えた。




