第4話 ノエル様が、初めて、私を引き止めてくださった日
森でノエル様を見つけた日から、二週間。
その日も、私は、薬草籠を抱えて、ローゼンタール離宮の門をくぐった。
──その日が、私とノエル様にとって、特別な一日になることを、私はまだ、知らなかった。
「リリィ様、本日も、ありがとうございます」
セバスチャンが、いつものように、深く頭を下げて、私を迎えてくれた。
「うん、こんにちは、セバスチャン様」
「セバスチャンと、お呼びください」
「えへへ、なんか、それは、ちょっと、申し訳ない気が、するんだもん」
「いえいえ、私は、坊ちゃまの執事でございますから」
セバスチャンの目尻のしわが、笑うと深くなる。
おじいちゃん、と呼びかけたくなるような、あたたかい笑顔だった。
「リリィ様。ーー、坊ちゃまは、本日は、お加減が、よろしいようで」
「ほんと?」
「ええ。リリィ様の、薬草の、おかげかと」
──、嬉しい。
私は、ぱっと顔を上げて、二階の窓の方を見上げた。
ほんのり開いた窓の隙間に、影が、ひとつ。
すぐに、すっと引っ込んだ。
──、ふふ。
ノエル様、待っててくれてた。
◇◇◇
寝室の扉を、こんこん、と、控えめに叩いた。
「ノエル様、リリィです。お薬、持ってきた」
「入れ」
──最初の頃は「来るな」「帰れ」しか、言わなかったノエル様。
それが、今では、「入れ」と言ってくれる。
私はぱぁっと胸が温かくなって、扉を開けた。
ベッドの上で、上体を起こしているノエル様。
最初に会った日と比べると、頬の青白さが、少しだけ薄くなっていた。唇に、もう紫色は、なかった。声も、ずいぶん、はっきりしてきている。
「ノエル様、おはよう」
「もう、昼だ」
「あ、そっか。こんにちは」
「お前、本当に……」
「うん?」
「……いや、何でもない」
──、ふふ。
私は、ベッドの脇に、ぺたんと座って、籠から、竹の水筒を取り出した。
中には皮の保温袋が入っていて、お湯が冷めにくくなっている。お父さんが、私のために作ってくれた、特別な水筒。
「お母さんが、家で煎じてくれた、薬草茶」
「また、それか」
「うん、また、これ」
「毎日、よく飽きないな」
「だって、ノエル様、これ、好きでしょ」
「別に」
ノエル様の頬が、ほんの少しだけ、染まった。
──ふふふ。
ノエル様、本当に、わかりやすい。
「水筒の口から、そのまま飲んで。ちょうど、いい温度に、なってるから」
「品が、ない」
「療養中は、こっちが、楽だよ」
「……」
ノエル様は、ぷいっと顔を背けながらも、両手で水筒を受け取った。
口に近づけて、ゆっくり傾ける。
エルダーフラワーとカモミールの甘い香りが、ふわっ、と立ち昇った。
こく、こく、と、喉が動く。
「美味しい?」
「別に」
「うふふ」
「何が、おかしい」
「ノエル様のほっぺ、ピンク色になったから」
「なって、ない」
「なってる」
「鏡で見てやろうか、と、言うんだったら、見ない」
「ふふ、先回りして、断った」
「うるさい」
水筒の薬草茶を半分ほど飲んだあと、ノエル様は、ぼそりと言った。
「……もう、すこし、くれないか」
──!
ノエル様が、自分から、おかわり。
「うん、いいよ。いっぱい、飲んで」
二杯目を、ノエル様は、こく、こく、と、ゆっくり、飲んでくれた。
◇◇◇
私は、薬草茶のお代わりを淹れる合間に、ノエル様の手を、両手で握った。
「放せ」
「やだ」
「また、それか」
「うん、また、これ」
ーーふふ。
ノエル様の手は、最初の頃の冷たさは、もうなかった。
ほんの少しだけ、温かい。
──生きている。
──ノエル様、ちゃんと、生きている。
そう思うだけで、私のお腹のずっと奥が、じんわりと熱くなる気がした。
◇◇◇
「リリィ」
「うん?」
ノエル様が、ふと、ベッドの脇の机を、指さした。
「それを、取ってくれ」
「絵本?」
「いや。──忘れろ」
「読みたいの?」
「いや、ーー」
「読みたいなら、取ってあげる」
私は、絵本を、手に取った。
革張りの、ずいぶん古そうな、立派な絵本だった。
「これ、ノエル様、読んでたの?」
「退屈しのぎだ」
「すごい、こんな分厚い本、読めるの?」
「当たり前だろう」
──ふふ。
ノエル様、本が、好きなんだ。
新しい、ノエル様のこと、ひとつ、知れた。
「ノエル様、これ、私に、読んで」
「は?」
「絵本、読んで」
「誰が、読んでやるか」
「読んで読んで」
「……しょうがない奴だ」
そうぶつぶつ言いながら、ノエル様は、絵本を、開いてくれた。
ーー、ふふ。
ノエル様、ーー、本当は、嬉しいんでしょ。
「昔々、ある所に、一人のお姫様が住んでいました」
ノエル様の声で、絵本のお話が始まった。
ぼそぼそしている、声。
聞き取りにくいところもある。
それでも、お話の中の、お姫様の歩く道や、王子様の馬の蹄の音や、城の塔の灯りや──そういうものが、ノエル様の声に乗って、寝室いっぱいに広がっていくのが、私には、見えた。
私は、ノエル様のベッドの脇で、頬杖をついて、絵本の続きを、聞いていた。
最後のページに来た頃には、私はもう、すっかり夢中になっていた。
「ノエル様、上手」
「別に」
「もっと、読んで」
「今日は、もう、終わりだ」
「明日は?」
「ーー」
「明日は、読んでくれる?」
「知らない」
ーー、ふふふ。
ノエル様の「知らない」は、「YES」って意味だ、と、私はもう、知っていた。
◇◇◇
そのとき、ノエル様が、ふと、ベッドの縁から、足を、おろした。
「外に、行く」
「いいね、一緒に行こう」
「いや、ーー」
「うん?」
「立ち上がれるか、自分でも、わからない」
──ああ。
ノエル様は、ずっと、ベッドの上で過ごしていたから。
自分の足で歩くのが、まだ、つらいんだ。
「私、手を貸す」
「お前の手は、借りない」
「えへへ、ノエル様、頑固」
「お前、本当に──」
そう言いながら、ノエル様は、ふらり、と、立ち上がろうとした。
膝が、震える。
足先が、床にしっかりと着かない。
「あ、危ない」
私は、慌てて、ノエル様の腰を、両側から支えた。
ノエル様の足は、もう、ぷるぷるとしか言えないくらい、震えていた。
歩くどころか、立ち続けるのが、精いっぱい、という様子だった。
「ノエル様。今日は、戻ろう?」
「……」
ノエル様は、悔しそうに、唇を、ぎゅっと結んだ。
──ノエル様。
──ーー、お外、出たかったんだね。
「明日も、明後日も、いっぱい、薬草、持ってくる」
「ーー」
「もっと、もっと、お元気になったら、一緒に、お庭、行こうね」
「ーー」
私は、ノエル様を、ベッドに、ゆっくりと、座らせた。
ノエル様の肩が、ほんの少しだけ、震えていた。
悔しさのせいだ、と、私には、わかった。
ノエル様、頑張りたいんだ。
自分の足で、ちゃんと、立ちたいんだ。
◇◇◇
しばらく、ノエル様は、何も言わなかった。
ただ、ずっと、窓の外を見ていた。
お庭の薔薇を、見ていた。
私も、隣で、しずかに、座っていた。
ノエル様が、悔しい時間。
私にできるのは、ただ、そばにいることだけ。
時計の針が、こちっ、こちっ、と進む。
外で、鳥が鳴いた。
ノエル様は、それでも、何も言わなかった。
◇◇◇
帰り際。
「ノエル様、また、明日、来るね」
私が、籠を抱えて、扉に向かおうとした、その時。
──ぎゅっ。
ノエル様の、ちっちゃな手が、私の服の袖を、握った。
「あ」
「ーー」
「ノエル様?」
「ーー、ーー」
ノエル様は、何かを言いかけて、ぐっ、と口をつぐんだ。
──ノエル様の頬は、真っ赤、だった。
──耳まで、真っ赤、だった。
「うん?」
「ーー、ーー」
ノエル様は、しばらく唇を結んだまま、それでも、私の袖を、放さなかった。
そして、消えてしまいそうに、ちっちゃな声で、呟いた。
「もう、すこし、いて、くれないか」
──!
──!!
──ノエル様。
「来るな」「放せ」って、いつも言ってたノエル様が。
自分から、──「いて」って、言ってくれた。
胸の奥で、何かが、ぱっと、開いた。
「うん、いるよ。いっぱい、いる」
私は、ぱたん、と、籠を置いて、ノエル様の隣に、もう一度、ぺたん、と座り直した。
「ーー」
ノエル様の手は、まだ、私の袖を握っていた。
放したくないみたいに。
絶対に、放したくないみたいに。
◇◇◇
そのとき、扉が、開いた。
セバスチャンが、お盆を持って、入ってきた。
そして、私の袖を握りしめているノエル様の姿を見て──お盆を、ぱしゃん、と取り落としそうになった。
「坊ちゃま……」
セバスチャンの目に、じわ、と涙が滲んでいく。
「坊ちゃまが、ご自分から、誰かを引き止めるなんて……」
その先は、もう、言葉にならなかった。
ぼろぼろ、と、白い髭の上に、涙が落ちた。
長いこと、誰にも心を開かなかった、ノエル様。
ずっと、独りでいることを選んできた、ノエル様。
その人が、いま──、自分から、人を、引き止めた。
私の目からも、いつの間にか、涙が、こぼれていた。
「セバスチャン、よかったね」
「リリィ様、ありがとうございますぅぅぅぅ」
「二人とも、うるさい」
ノエル様は、ぷいっ、と顔を背けた。
──けれど。
私の袖を握る、ノエル様の手は、もっと、ぎゅっと、強くなった。
──ふふ。
◇◇◇
帰り道。
夕焼けが、空を、燃えるような橙色に染めていた。
私は、空になった籠を、ぶんぶん、と、振りながら、歩いた。
ノエル様、私を引き止めてくれた。
ノエル様、絵本を読んでくれた。
ノエル様、お外に、出たがってくれた。
ふと、振り返ると、ローゼンタール離宮の、寝室の窓に、小さな影が、見えた。
その影は、私を、ずっと、見送ってくれていた。
ーー、ふふ。
「明日、絶対、来るからね」
私は、小さく、手を振った。
影が、ほんの一瞬、こちら側に、揺れた──気がした。
リリィ・ホーニング、六歳の春。
呪われた男の子に、毎日、薬草を運ぶ日々の、二週間目。
ノエル様が、初めて、ご自分から、私を引き止めてくださった日。




