第3話 ノエル様の呪いが暴れた夜、私は本気で神様にお祈りしました
それから、何日か。
私は、毎日、ローゼンタール離宮へ通った。
雨の日も、風の日も、晴れの日も。
カゴに薬草を入れて、毛布を入れて、お母さんが焼いてくれた、ちっちゃな焼き菓子を入れて。
ノエル様は、相変わらず、ツンツンしていた。
「また、お前か」
「うん、また、私」
「本当に、毎日来るな」
「ふふ、来るよ」
──けれど。
私がほんの少し遅れて寝室に着いた日、扉を開けた途端、ノエル様と目が合うようになった。
最初の頃はぷいっと背を向けていたあの人が、いまでは、扉の方をじっと見つめて、待っている。
もちろん気づかれると、慌てて窓の方を向き直して、「たまたまだ」とか、「窓の外を、見ていただけだ」とか、ありもしない言い訳を、いそいそと並べる。
「あ、ノエル様、こっち見てた」
「見てない」
「ふふ」
「笑うな」
──ノエル様。
わかりやすい人だなぁ、と、私は心の中でこっそり思った。
◇◇◇
ある日、薬草を枕元に並べていたら、ノエル様が、ぼそりと言った。
「リリィ」
「うん?」
「これ」
差し出されたのは、ちっちゃな紙の包みだった。
「えっ、なに」
「別に、お前にやるわけじゃ、ない」
「いま、差し出したじゃない」
「お前が、勝手に受け取ったんだ」
「まだ、受け取ってない」
「いいから、受け取れ」
「ふふ」
包みを、そっと開いた。
中には、小さな押し花が、入っていた。
青い、忘れな草。
「わぁ、綺麗」
「庭に、咲いていた」
「お庭、出たの?」
「窓から、見えた、だけだ」
「セバスチャンに、摘んでもらったの?」
「自分で、摘んだ」
──後で、セバスチャンに、こっそり、聞いた。
ノエル様は、窓から身を乗り出して、自分で摘んだのだという。危ない、と止めたセバスチャンに、こう言ったのだそうだ。
『リリィに、渡すんだ。ぼくの、手で、摘まないと、意味が、ない』
──頬を、真っ赤にしながら。
その話を聞いたときの私の顔は、たぶん、忘れな草の青よりも、ずっと、別の色をしていたと思う。
◇◇◇
ノエル様は、たくさんの絵本を、知っていた。
(離宮の書庫に、こっそり読みに行っていたらしい)
私は、たくさんの花の名前を、知っていた。
(お母さんに、教えてもらった)
「ノエル様、絵本、読んで」
「誰が、読んでやるか」
「読んで読んで」
「……しょうがない奴だな」
そう、口では言いながら、ノエル様は、毎回、絵本を読んでくれた。
声は、ぼそぼそしていたし、聞き取りにくいところもあった。
それでも、ノエル様の声で聞くお話は、不思議な安心感があった。寝室の壁紙の模様が、その声と一緒に、ぼんやりと滲んでいく。お話の世界と、私たちのいる場所の境目が、なくなっていく。
私はお返しに、お母さんが歌ってくれる子守唄を、聞かせてあげた。
「リリィの、お母さん、すごい、ね」
「うふふ、自慢のお母さんだもん」
「ぼくにも、母上は、いる、けど」
「会えないの?」
「うん」
ノエル様は、目を伏せた。
「母上は、ずっと、お身体が、弱くて」
その声は、いつもよりずっと、子供らしい、寂しさを、含んでいた。
私は、何も言わずに、ノエル様の手を、握った。
最初の頃は氷みたいに冷たかった手は、いまでは、ほんのり温かい。
「触るな」
「やだ」
「お前は、本当に、強情だな」
「ふふ」
そう言いながらも、ノエル様の指は、私の指を、ぎゅっと、握り返していた。
◇◇◇
そんな日々が続いた、ある朝のこと。
離宮の門に着いた私は、すぐに、なにか様子がおかしいことに気づいた。
普段はしんとしている館の中から、慌ただしい足音と、誰かの呼ぶ声と、何かをひっくり返すような音が、絶え間なく漏れてくる。
「リリィ様」
セバスチャンが、玄関から、転がるように出てきた。
その顔が、私を見て、青ざめた。
「ど、どうしたの?」
「坊ちゃまが──」
セバスチャンの声が、震えていた。
「明け方から、お加減が、急に」
「具合が、悪いの?」
「お薬も、効きません。医師の方も、なすすべがないと」
──ぎゅっ、と、心臓が、痛んだ。
「ノエル様に、会わせて」
「リリィ様、坊ちゃまは今、お苦しみで──」
「だから、会わせて!」
私は、セバスチャンの手を振り解いて、走った。
廊下を曲がって、階段を駆け上がって、ノエル様の寝室の扉を、思いっきり、開けた。
◇◇◇
そこに、いた。
ベッドの上で、苦しそうに、もがいているノエル様。
最初に森で会った日よりも、もっと、青白い顔。
額にびっしりと張りついた、汗。
胸を押さえて、ひゅう、ひゅう、と呼吸を吐く、痩せた体。
「ノエル様!」
私は、転がるようにベッドに駆け寄った。
ノエル様の体は、燃えるように熱かった。
その青い瞳が、ふらり、と、私を見つけた。
その瞬間、その表情が、変わった。
「離れろ」
「ノエル様」
「聞こえないのか、離れろ、と、言っている」
ノエル様は、震える腕で、私を押し返そうとした。
けれど、その腕には、もう、力が入らなかった。
「リリィ……離れろ、ぼくに、近づくな」
「やだ」
「頼む、から」
「やだ」
「ぼくの、せいで、お前まで」
ノエル様の声は、ーー、いつものツンツンとは、まったく別の声だった。
本当に、心の底から、私を心配して、震えていた。
──ノエル様。
──こんなときまで。
──こんなに苦しい、ときでも、ーー、私の心配を、するの?
「やだ、ノエル様、やだやだ」
私は、思わず、ノエル様の上に、覆いかぶさった。
お母さんが、私が熱を出したときに、してくれたみたいに。
抱きしめて、抱きしめて、抱きしめて。
「大丈夫だよ、ノエル様、大丈夫」
「リリィ」
「私が、いるから」
「ばか、ーー、ばか、本当に、ばか」
ノエル様の、掠れた声が、私の名前を、何度も呼んだ。
「なんで、逃げない、んだ」
「だって、ノエル様が、苦しそうだもん」
「ぼくが、苦しいのは、お前に、関係、ない」
「あるよ」
「ない」
「あるよ!」
「ない、と、言って、いる」
──けれど。
ノエル様の指は、私の服の袖を、強く、強く、握り込んでいた。
もう、放さないで、と、言わんばかりに。
──ノエル様。
──本当の、本当に、いじっぱり。
私は、ノエル様の体を、もっと強く、抱きしめた。
──絶対に、離さない。
──絶対に、独りに、しない。
──だって、私が、約束したもの。
頬を、涙が、伝っていた。
「神様、お願い」
私は、生まれて初めて、本気で、神様に祈った。
「ノエル様を、助けて」
「お願い、お願い、お願い」
──その瞬間、だった。
体の奥の、もっと奥から、なにか、温かいものが、流れ出ていく感覚があった。
それは、光のような、水のような、よくわからない、不思議な感覚だった。
ーーでも、その時の私には、それが何なのか、考える余裕は、なかった。
私はただ、ノエル様を、ぎゅっと、抱きしめたまま、祈り続けた。
◇◇◇
どれくらい、時間が、経ったかは、わからない。
気がつくと、ノエル様の呼吸が、穏やかになっていた。
額に張りついていた汗が、引きはじめている。
震えも、収まっていた。
「リリィ……」
ノエル様が、ゆっくりと、目を開けた。
その青い瞳が、信じられない、というように、私を見つめた。
「ノエル様」
私は、もう一度、ぎゅっと、抱きしめた。
「よかった、よかった、本当に、よかった」
涙が、止まらなかった。
──そのときだった。
ノエル様の手が、ゆっくりと、私の背中に、回された。
初めて。
ノエル様から、抱きしめ返してくれた。
「リリィ」
「うん」
「ばか」
「うん」
「本当に、ばか」
声が、震えていた。
顔は、見えなかったけれど。
ーー、ノエル様、たぶん、泣いている。
「リリィ」
「うん?」
「ぼく、お前に、いて、ほしい」
「うん」
「けれど、ぼくの、近くに、いては、いけない」
「いいよ、私は、ここに、いる」
「ばか」
「うん、私、ばかだから」
ノエル様は、しばらく、何も言わなかった。
ただ、私の腕の中で、私の鼓動を聞いているように、じっと、していた。
そして、ぽつりと、呟いた。
「リリィ……君は」
「うん?」
「君は、まさか……」
声が、震えていた。
その目には、ーー、なにか、確信のようなものが、宿っていた。
「いや、なんでもない」
そう言って、ノエル様は、目を伏せた。
──私は、その時、何かが、おかしい、と思った。
ノエル様が、何かを、私について、気づいた──そんな、気がした。
でも、ノエル様は、それを、口にはしなかった。
代わりに、私の手を、握って、こう、言った。
「リリィ」
「うん?」
「ーー、ありがとう」
──え。
「いま、ノエル様、ありがとう、って言った?」
「言ってない」
「言った、絶対、言った」
「空耳だ」
「言ったってば」
「セバスチャンに告げ口したら、お前を、もう館に入れない」
「ひどい」
「もう、何も、言うな」
──けれど。
ノエル様の頬は、もう、青白くは、なかった。
ほんの少しだけ、ピンク色に、染まっていた。
「……君のお陰で、ぼくは、生きてる」
「ふふ、薬草のお陰、でしょ?」
「いや」
ノエル様の青い瞳が、私を、まっすぐ、見つめた。
「君自身の、お陰だ」
「えっ」
「忘れろ、今のは」
「やだ、覚えとく」
「忘れろ、と、言っている」
「絶対、覚えとくもん」
「ばか」
──、ふふ。
その言葉の意味は、まだ、わからなかった。
けれど、ノエル様の瞳には、私には到底わからない、なにか深いものが、揺れていた。
その日から、ノエル様が私を見る目が、少しだけ、変わったような気がした。
◇◇◇
寝室を出たところで、セバスチャンが、深く、頭を下げた。
「リリィ様、本当に、ありがとうございます」
「ううん、私、ノエル様に元気になってほしいって、祈っただけだよ」
「いいえ」
セバスチャンは、ゆっくり、首を振った。
「あの祈りは、ーー、普通では、ございません」
その目が、なにかを、悟ったように、揺れていた。
──でも、その意味も、私には、まだ、わからなかった。
◇◇◇
帰り際。
ノエル様が、ぼそりと、呟いた。
「リリィ」
「うん?」
「明日も、来るんだろう?」
──あれ。
いつもは「来るな」って、言うのに。
今日は──、ーー、「来るんだろう?」
「うん、来るよ」
「ふん」
「ノエル様?」
「別に」
「本当に、なんでもない?」
「別に」
──、ふふ。
ノエル様の耳は、また、ほんのり、赤くなっていた。
明日も、絶対、来よう。
絶対、絶対、絶対、来よう。
リリィ・ホーニング、六歳。
呪われた男の子に、毎日、薬草を運び続けて、一週間。
その日、私は、何も知らないまま、ノエル様の呪いを、ほんの少し、和らげていた。
それを知るのは、まだ、ずっとずっと、先のことだった。




