第70話 戦争の予兆
年が明けて、私のお腹は、少しずつ、丸みを帯びてきた。
冬の皇太子宮で、私は、静かに、その子を育てていた。公務はぐっと減らし、母さんと父さんが、毎日、私の身体を診てくれる。ノエルは、政務の合間を縫って、何度も、私の様子を、見にきた。
「無理を、するな」
それが、この頃のノエルの、口癖だった。
私が薬草を煎じようと立ち上がるだけで、飛んでくる。重いものを持とうとすると、奪い取る。あんまり過保護なので、母さんに、苦笑いされていた。
「殿下。妊婦は、適度に動いたほうが、お産が軽いのですよ」
「……む」
それでも、ノエルは、心配でたまらないらしかった。夜は、私のお腹に手を当てて、まだ動くはずもない子の気配を、じっと、探っている。
森の離宮で、誰にも触れさせなかった、あの男の子が。いまは、妻のお腹に宿った命に、こんなにも、夢中になっている。
幸せな、冬だった。
◇◇◇
けれど。
その冬、王宮の外の世界は、静かでは、なかった。
南の国々から、難民が、流れこみはじめていた。
ノースランドが、大陸の南へ、その手を伸ばしている。小さな国々が、ひとつ、またひとつと、圧迫され、住む土地を追われた人々が、北の、豊かなアーデルハイトを目指して、国境に、押し寄せていた。
私は、お腹の子を抱えながらも、できることを、した。
孤児院と、薬草園に、難民を受け入れる場所を、用意させた。エルフたちが、自分も同じ目に遭った者として、率先して、彼らの世話を焼いてくれた。痩せた子供に、温かいスープを。凍えた身体に、毛布を。
「ありがとう、ございます……ありがとう、ございます……」
擦り切れた服の母親が、子を抱いて、何度も、頭を下げる。その姿は、いつか、薬草園で見た、隠れて生きてきたエルフたちと、同じだった。
奪う国が、北に、ある。
そのせいで、こんなにも、たくさんの人が、泣いている。
私は、自分のお腹に、そっと、手を当てた。この子が生まれてくる世界が、こんな涙で、濡れていてはいけない。
◇◇◇
ある夜のことだった。
寝室へ向かう途中、執務室の扉の隙間から、明かりが、漏れていた。こんな夜更けに、と思って、足を止める。
中から、ノエルと、フェルディナンド様の、低い声が、聞こえた。
「……コンラートからの、つなぎか」
「はい。北の、宮廷の奥深くから。命がけの、密使にございます」
コンラート。いつか聞いた、あの名前。
「ノースランドの王宮で、何が起きている」
「王族の腐敗が、極まっている、と。民から、根こそぎ、富を搾り取り、その富で、戦の支度を進めている。……コンラートは、宮廷の呪術師でありながら、その有り様に、絶望しております。だからこそ、危険を冒して、我らに、内通している」
「奴の言葉は、信じられるのか」
「あの男が、これまで流してきた報せは、ひとつとして、外れておりません。……信じて、よろしいかと」
私は、扉の前で、息を、ひそめた。
ノースランドの宮廷の中に、味方が、ひとり、いる。けれど、その人は、いつ、命を落とすか、わからない場所に、たったひとりで、いる。
◇◇◇
その翌日。
薬草園へ、難民の子供たちの様子を見にいった帰り道。
馬車の窓の外を、何気なく、眺めていた、そのとき。
うなじが、ちりっと、焼けた。
二年前の、あの感覚。私の精霊の加護が、悪いものに近づくと、知らせる、あの粟立ち。
私は、はっと、窓の外を、見た。
市場の雑踏の中。フードを目深にかぶった、ひとりの女が、こちらを、見ていた。
ヴェールではない。けれど、その立ち姿に、覚えがあった。
オーレリア。
私を毒に倒し、エミリアを、オリヴィア様を傷つけ、煙のように消えた、あの妖術使い。
馬車が、角を曲がる。慌てて見返したときには、もう、その姿は、人混みに、紛れて、消えていた。
逃げた火種は、やはり、まだ、この国の中に、くすぶっていた。そして、今、ふたたび、動き出している。
私は、お腹を、両手で、そっと、守った。
◇◇◇
事態は、その月のうちに、坂を転がるように、動いた。
国境のあちこちで、小競り合いが、起きはじめた。ノースランドの兵が、わざと、こちらの守りを、突いてくる。出方を、うかがうように。
王都に駐在していた、ノースランドの外交使節が、ある日、何の挨拶もなく、引き上げていった。
それが、何を意味するのか。誰の目にも、明らかだった。
宣戦布告は、もう、時間の問題だった。
その夜、ノエルが、私の部屋に来た。
いつもの、過保護な顔ではなかった。一国の、軍を背負う者の、張りつめた顔だった。
「リリィ」
「うん」
「……近いうちに、俺は、また、お前を置いて、発つことになる」
私は、ノエルの手を、両手で、握った。冷たくはない。けれど、わずかに、震えていた。二年の不在のあと、ようやく取り戻した暮らしを、また、手放さねばならない。その痛みが、その手から、伝わってきた。
「わかってる」
私は、まっすぐに、ノエルを見て、言った。
「行ってらっしゃい。あなたが帰る国も、この子も、私が、守りぬく。だから、心置きなく」
ノエルの瞳が揺れた。それから、私をそっと抱き寄せた。お腹の子をつぶさないように、いたわりながら。
「……すまない。そして、ありがとう」
その夜、ノエルはいつまでも私を離さなかった。
寝台に並んで横になると、ノエルは私の大きなお腹に、手のひらを重ねた。
「なあ、お前」
お腹の子に、話しかけている。
「父はこれから、少し遠くへ行く。……その間、母を頼むぞ。俺の代わりに、そばにいてやってくれ」
私は思わず笑った。
「ふふ。頼もしい留守番だね」
「当たり前だ。俺の子だからな」
ノエルはそう言って、私の額に、それから頬に、唇を落とした。最後に、そっと唇に。名残を惜しむような、長いキスだった。
「リリィ。この戦が終わったら……三人で、森へ行こう。お前が俺を拾ってくれた、あの森へ」
「うん。……約束だよ」
小指を絡めた。森の離宮で、私が教えた、あの指切り。
戦の足音が、すぐそこまで来ているのに。その夜だけは、私たちは、ただの幸せな夫婦でいられた。
けれど、その足音は、もう確かに聞こえていた。お腹の子を片手でそっと抱いて、私は来るべきその日に向けて、静かに覚悟を固めた。




