第69話 新しい命
あの事件から、季節がふたつ巡った。
ノエルは王都に戻っていた。
北の壁はもう八割がた成っていた。残りは信頼できる副将に託し、ノエルは王太子として王都で政務を執るようになった。二年と言った別れは、結局半ばで終わっていた。
私たちはようやく、ひとつ屋根の下で朝を迎えられる暮らしを取り戻していた。
毎朝、私が薬草茶を煎じ、ノエルが不機嫌そうな顔をしてそれを飲み干す。執務へ送り出し、夕暮れに迎える。なんでもない一日が、こんなにもありがたいものだったとは。北の空の下でたったひとりだった二年を思い返すたびに、私はいまの幸せを噛みしめた。
そんな、ある秋の朝のことだった。
◇◇◇
目を覚ますと、胸の奥がむかむかして起き上がれなかった。
「リリィ。顔色が悪いぞ」
先に起きていたノエルが、私の額に手を当てる。
「熱はないが……」
「大丈夫。少し気持ちが悪いだけ」
けれど、それから二日、三日と、朝のむかつきは続いた。匂いに敏感になる。大好きだった薬草茶の香りが、なぜかつらい。
おかしいなと思って、私は母さんに相談した。
母さんは私の話を聞くと、父さんを呼んで、二人でしばらく私を診た。
やがて母さんが顔を上げた。その目に、じわじわと涙が盛り上がっていく。
「リリィ。……おめでとう」
「え」
「赤ちゃんよ。あなたのお腹に、新しい命が宿っているの」
私はしばらく、その言葉の意味がわからなかった。
自分のお腹に手を当ててみる。まだ何も変わらない、平らなお腹。けれどその奥に、もうひとつちいさな命が。
私とノエルの、子供が。
「……ほんとう?」
「ほんとうよ」
父さんが目尻をくしゃりとさせて頷いた。薬師としてたくさんの命を取り上げてきた父さんが、自分の孫のことになると、ただ嬉しそうな、おじいちゃんの顔をしていた。
◇◇◇
その夜、私はノエルに告げた。
「ノエル。あのね」
「どうした」
「私……あなたの赤ちゃんを授かったの」
ノエルの動きが止まった。
蒼い瞳が大きく見開かれる。いつも何を考えているか読ませないあの人の顔から、すうっと表情が抜け落ちた。
「……いま、なんと」
「赤ちゃん。私たちの子供。ここにいるの」
私は自分のお腹に、そっと手を当てた。
ノエルはゆっくりと私の前に膝をついた。そして震える手を、私のお腹に重ねた。大きな、剣だこのある手が、こわごわと触れる。
「……ここに」
「うん」
「俺と、お前の」
「うん」
ノエルの肩が小さく震えた。
森で死にかけていた、呪われた男の子。ひとりぼっちで、誰にも触れさせなかったあの子が。いま、自分の子を宿した妻の前に膝をついて、声もなく泣いていた。
「リリィ」
掠れた声だった。
「子は……お前に似たのが、いい」
私はふふと笑った。
「ううん。ノエルに似た子が、いい」
ノエルが顔を上げる。
「ノエルのその瞳、世界でいちばん綺麗だもの。私たちの子にも、この星屑みたいな青を継いでほしいの」
ノエルはくしゃりと顔をゆがめた。それから立ち上がって、私をこわれものを抱くように、そっと抱きしめた。
「……ありがとう、リリィ」
その腕の中は、北の旅の匂いももうしなかった。ただ、あたたかい私の夫の匂いがした。
◇◇◇
知らせは、たちまち王宮じゅうに広がった。
陛下は玉座で声をあげてお喜びになった。皇后陛下は私の手を取って、ご自分のことのように涙ぐまれた。父さんと母さんは筆頭医師として、私の身体をつきっきりで診てくれることになった。
セバスチャンも、わざわざローゼンタール離宮から駆けつけてくれた。あの白髭の老執事は、私のお腹を見て、ぼろぼろと泣いた。
「坊ちゃまに……いえ、殿下に、お子が……。長くお仕えした甲斐が、ございました……」
森の離宮でひとりぼっちだった男の子の家族が、ひとり、またひとりと増えていく。それをいちばん喜んでいるのは、たぶんこの老人だった。
公務は少しずつ減らしてもらった。皇太子宮で、静かにお腹の子を育てる日々。ノエルは毎晩、私のお腹に耳を当てて、まだ聞こえるはずもない鼓動を聞こうとした。
「気が早いよ、ノエル」
「……うるさい。少しくらい、いいだろう」
そう言うその横顔が、あんまり優しくて、私は何度でも見とれてしまった。
幸せだった。
何ひとつ欠けることのない、満ち足りた日々だった。
◇◇◇
妊娠がわかってからの、ノエルの溺愛ぶりは、いっそう度を越していた。
私がぽつりと「甘い木苺のジャムが食べたいな」と漏らせば、次の日には厨房いっぱいに木苺が届いていた。夜中に酸っぱいものが欲しくなって、こっそり起きようとすると、いつのまにか目を覚ましたノエルが「何が要る」と先に訊いてくる。
ある午後は、長椅子でノエルの膝に頭を預けて、うとうとしていた。
目を覚ますと、ノエルが私の髪を、指でそっと梳いていた。
「……起こしたか」
「ううん。気持ちよかった」
森の離宮で氷みたいに冷たかった、あの手。私が何度も握って温めた手。その手がいまは、こんなにも優しく私の髪を撫でている。
「ノエル、覚えてる? 昔は私が、あなたの髪を梳いてたのに」
「……ふん。今は俺の番だ」
ぶっきらぼうに言って、けれど、その指はいつまでも私の髪を離さなかった。
夜は決まって、お腹の子の話をした。
「なあ、リリィ」
「うん?」
「この子は……俺と、お前の、どちらを好きになると思う」
私は思わず笑ってしまった。天下の王太子が、まだ生まれてもいない我が子にやきもちを焼いている。
「ふふ。もちろん、二人とも大好きになるよ」
「……そうか」
ノエルは私のお腹に、そっと頬を寄せた。
「俺は、この子が生まれてきたら、お前を独り占めできなくなる。……少し、寂しい」
「もう。ノエルったら」
私はノエルの漆黒の髪に指を通した。
「だいじょうぶ。あなたのことも、この子とおなじくらい、ちゃんと大好きだから」
ノエルが顔を上げた。その蒼い瞳が灯りを弾いて揺れる。それから、ゆっくりと私の唇に口づけを落とした。触れるだけの、けれど、いつまでも離れない優しいキスだった。
森でひとりぼっちだった男の子は、もう、どこにもいなかった。
◇◇◇
けれど。
その幸せのすぐ外側で。
世界は静かに、不穏な音を立てはじめていた。
ある夜、執務室の前を通りかかった私は、ノエルとフェルディナンド様の低い声を聞いた。
「……ノースランドが、また動き出したか」
「はい。大陸の南の国々を、次々と圧迫しております。逃れてきた難民が、我が国の国境にあふれかけております」
「諜報は」
「新たなスパイの影をいくつか。……それと、コンラートからつなぎが」
コンラート。聞いたことのない名前だった。
「あの男が、なんと」
「ノースランドの王宮で、何か大きな動きがあるそうです。……近く、はっきりした報せが来るかと」
私はお腹に手を当てた。
この子が生まれてくるその世界が、もう静かなだけの世界ではなくなりかけている。二年前、私を毒に倒したあの呪術師。煙のように消えたあの女。そしてその背後にいる、ノースランドという奪う国。
逃げた火種は、まだ消えていなかった。
私は扉の奥のノエルの気配を感じながら、心の中で静かに決めた。
この子が安心して生きていける国を守る。あの人と、二人で。
ふたつの太陽が、同じ空にようやく揃った。
その光を、誰にも奪わせはしない。




