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森で見つけた呪われ少年を看病していただけなのに、王太子殿下に溺愛されています  作者: 葉月晴子
第三章 ふたつの太陽

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第69話 新しい命

あの事件から、季節がふたつ巡った。


ノエルは王都に戻っていた。


北の壁はもう八割がた成っていた。残りは信頼できる副将に託し、ノエルは王太子として王都で政務を執るようになった。二年と言った別れは、結局半ばで終わっていた。


私たちはようやく、ひとつ屋根の下で朝を迎えられる暮らしを取り戻していた。


毎朝、私が薬草茶を煎じ、ノエルが不機嫌そうな顔をしてそれを飲み干す。執務へ送り出し、夕暮れに迎える。なんでもない一日が、こんなにもありがたいものだったとは。北の空の下でたったひとりだった二年を思い返すたびに、私はいまの幸せを噛みしめた。


そんな、ある秋の朝のことだった。


◇◇◇



目を覚ますと、胸の奥がむかむかして起き上がれなかった。


「リリィ。顔色が悪いぞ」


先に起きていたノエルが、私の額に手を当てる。


「熱はないが……」


「大丈夫。少し気持ちが悪いだけ」


けれど、それから二日、三日と、朝のむかつきは続いた。匂いに敏感になる。大好きだった薬草茶の香りが、なぜかつらい。


おかしいなと思って、私は母さんに相談した。


母さんは私の話を聞くと、父さんを呼んで、二人でしばらく私を診た。


やがて母さんが顔を上げた。その目に、じわじわと涙が盛り上がっていく。


「リリィ。……おめでとう」


「え」


「赤ちゃんよ。あなたのお腹に、新しい命が宿っているの」


私はしばらく、その言葉の意味がわからなかった。


自分のお腹に手を当ててみる。まだ何も変わらない、平らなお腹。けれどその奥に、もうひとつちいさな命が。


私とノエルの、子供が。


「……ほんとう?」


「ほんとうよ」


父さんが目尻をくしゃりとさせて頷いた。薬師としてたくさんの命を取り上げてきた父さんが、自分の孫のことになると、ただ嬉しそうな、おじいちゃんの顔をしていた。


◇◇◇



その夜、私はノエルに告げた。


「ノエル。あのね」


「どうした」


「私……あなたの赤ちゃんを授かったの」


ノエルの動きが止まった。


蒼い瞳が大きく見開かれる。いつも何を考えているか読ませないあの人の顔から、すうっと表情が抜け落ちた。


「……いま、なんと」


「赤ちゃん。私たちの子供。ここにいるの」


私は自分のお腹に、そっと手を当てた。


ノエルはゆっくりと私の前に膝をついた。そして震える手を、私のお腹に重ねた。大きな、剣だこのある手が、こわごわと触れる。


「……ここに」


「うん」


「俺と、お前の」


「うん」


ノエルの肩が小さく震えた。


森で死にかけていた、呪われた男の子。ひとりぼっちで、誰にも触れさせなかったあの子が。いま、自分の子を宿した妻の前に膝をついて、声もなく泣いていた。


「リリィ」


掠れた声だった。


「子は……お前に似たのが、いい」


私はふふと笑った。


「ううん。ノエルに似た子が、いい」


ノエルが顔を上げる。


「ノエルのその瞳、世界でいちばん綺麗だもの。私たちの子にも、この星屑みたいな青を継いでほしいの」


ノエルはくしゃりと顔をゆがめた。それから立ち上がって、私をこわれものを抱くように、そっと抱きしめた。


「……ありがとう、リリィ」


その腕の中は、北の旅の匂いももうしなかった。ただ、あたたかい私の夫の匂いがした。


◇◇◇



知らせは、たちまち王宮じゅうに広がった。


陛下は玉座で声をあげてお喜びになった。皇后陛下は私の手を取って、ご自分のことのように涙ぐまれた。父さんと母さんは筆頭医師として、私の身体をつきっきりで診てくれることになった。


セバスチャンも、わざわざローゼンタール離宮から駆けつけてくれた。あの白髭の老執事は、私のお腹を見て、ぼろぼろと泣いた。


「坊ちゃまに……いえ、殿下に、お子が……。長くお仕えした甲斐が、ございました……」


森の離宮でひとりぼっちだった男の子の家族が、ひとり、またひとりと増えていく。それをいちばん喜んでいるのは、たぶんこの老人だった。


公務は少しずつ減らしてもらった。皇太子宮で、静かにお腹の子を育てる日々。ノエルは毎晩、私のお腹に耳を当てて、まだ聞こえるはずもない鼓動を聞こうとした。


「気が早いよ、ノエル」


「……うるさい。少しくらい、いいだろう」


そう言うその横顔が、あんまり優しくて、私は何度でも見とれてしまった。


幸せだった。


何ひとつ欠けることのない、満ち足りた日々だった。


◇◇◇



妊娠がわかってからの、ノエルの溺愛ぶりは、いっそう度を越していた。


私がぽつりと「甘い木苺のジャムが食べたいな」と漏らせば、次の日には厨房いっぱいに木苺が届いていた。夜中に酸っぱいものが欲しくなって、こっそり起きようとすると、いつのまにか目を覚ましたノエルが「何が要る」と先に訊いてくる。


ある午後は、長椅子でノエルの膝に頭を預けて、うとうとしていた。


目を覚ますと、ノエルが私の髪を、指でそっと梳いていた。


「……起こしたか」


「ううん。気持ちよかった」


森の離宮で氷みたいに冷たかった、あの手。私が何度も握って温めた手。その手がいまは、こんなにも優しく私の髪を撫でている。


「ノエル、覚えてる? 昔は私が、あなたの髪を梳いてたのに」


「……ふん。今は俺の番だ」


ぶっきらぼうに言って、けれど、その指はいつまでも私の髪を離さなかった。


夜は決まって、お腹の子の話をした。


「なあ、リリィ」


「うん?」


「この子は……俺と、お前の、どちらを好きになると思う」


私は思わず笑ってしまった。天下の王太子が、まだ生まれてもいない我が子にやきもちを焼いている。


「ふふ。もちろん、二人とも大好きになるよ」


「……そうか」


ノエルは私のお腹に、そっと頬を寄せた。


「俺は、この子が生まれてきたら、お前を独り占めできなくなる。……少し、寂しい」


「もう。ノエルったら」


私はノエルの漆黒の髪に指を通した。


「だいじょうぶ。あなたのことも、この子とおなじくらい、ちゃんと大好きだから」


ノエルが顔を上げた。その蒼い瞳が灯りを弾いて揺れる。それから、ゆっくりと私の唇に口づけを落とした。触れるだけの、けれど、いつまでも離れない優しいキスだった。


森でひとりぼっちだった男の子は、もう、どこにもいなかった。


◇◇◇



けれど。


その幸せのすぐ外側で。


世界は静かに、不穏な音を立てはじめていた。


ある夜、執務室の前を通りかかった私は、ノエルとフェルディナンド様の低い声を聞いた。


「……ノースランドが、また動き出したか」


「はい。大陸の南の国々を、次々と圧迫しております。逃れてきた難民が、我が国の国境にあふれかけております」


「諜報は」


「新たなスパイの影をいくつか。……それと、コンラートからつなぎが」


コンラート。聞いたことのない名前だった。


「あの男が、なんと」


「ノースランドの王宮で、何か大きな動きがあるそうです。……近く、はっきりした報せが来るかと」


私はお腹に手を当てた。


この子が生まれてくるその世界が、もう静かなだけの世界ではなくなりかけている。二年前、私を毒に倒したあの呪術師。煙のように消えたあの女。そしてその背後にいる、ノースランドという奪う国。


逃げた火種は、まだ消えていなかった。


私は扉の奥のノエルの気配を感じながら、心の中で静かに決めた。


この子が安心して生きていける国を守る。あの人と、二人で。


ふたつの太陽が、同じ空にようやく揃った。


その光を、誰にも奪わせはしない。

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