第67話 贖罪 ――エリック
ぼくは、医師だ。
倒れた者の前では、その者が誰であろうと、ただの一人の患者になる。妹を毒に倒した相手であっても、それは、変わらない。
オリヴィア・フォン・シュタイン侯爵令嬢は、三人のうちで、いちばん重かった。
リリィは一口で異変に気づき、ほとんど飲まなかった。エミリア様も、半分ほど。だが、この令嬢は、自分のカップを、ためらいもなく、飲み干していたという。操られ、そうすれば幸せになれると、信じ込まされて。
その分の毒が、この人の身体を、深く、蝕んでいた。
ぼくは、来る日も来る日も、この令嬢の枕元に座った。脈をとり、熱を測り、母さんの煎じた薬湯を、少しずつ、唇に運ぶ。リリィが目覚めて、エミリア様が目覚めても、この人だけは、なかなか、戻ってこなかった。
蒼白い顔。長い赤毛が、汗で、頬に張りついている。きつい目をした令嬢、と聞いていた。けれど、こうして眠っている顔は、ただ、ひどく、寂しそうだった。
「……早く、目を覚ましてください」
ぼくは、その冷えた指を、布で温めながら、つぶやいた。
「あなたを、許せるかどうかは、目を覚ましてから、考えればいい」
◇◇◇
三日後の、夜明け前。
その指が、ぴくり、と動いた。
「シュタイン嬢。聞こえますか」
長い睫毛が、震えて、ゆっくりと、まぶたが開いた。焦点の合わない目が、しばらく宙をさまよって、やがて、ぼくを捉えた。
「……ここは」
「王宮の、医務の間です。あなたは、十三日、眠っていた」
オリヴィア様の目に、じわじわと、記憶が、戻っていくのが、わかった。
その顔が、みるみる、凍りついた。
「わたくし……わたくし、は……」
「無理に、思い出さなくていい。いまは、休んで」
ぼくは、そう言って、その肩を、そっと、寝具に押し戻した。けれど、令嬢の目からは、もう、涙が、あふれ出していた。
◇◇◇
オリヴィア様が目覚めたと知らせると、シュタイン侯爵が、すぐに、駆けつけてきた。
恰幅のいい、貫禄のある紳士だった。けれど、医務の間に入ってくるその足取りは、ひとりの、娘を案じる父親の、それだった。
「オリヴィア! ああ、オリヴィア、目を覚ましたか……!」
侯爵は、娘の枕元に膝をつき、その手を握って、男泣きに泣いた。
侯爵は、すでに、すべてを聞かされていた。娘が、ノースランドの妖術使いに操られ、利用された末に、口封じのため、共に消されかけたのだと。
「すまなかった……父が、お前を、追い詰めた。王家に嫁げ、嫁げと……お前の幸せを、ちゃんと、考えてやらなかった」
オリヴィア様は、父の顔を見て、ただ、首を、横に振っていた。声も、出ないようだった。
侯爵は、帰り際、ぼくの前で、深く、頭を下げた。
「医師どの。……娘を、どうか、よろしくお願いいたします」
侯爵家の当主が、薬師の倅にすぎないぼくに、頭を下げている。ぼくは、慌てて、姿勢を正した。
「お任せください。お嬢さんの身体に、もう、毒の心配はありません。気力さえ戻れば、しばらくで、すっかりお元気になります。……ぼくが、必ず、そうします」
侯爵は、何度も、礼を言って、帰っていった。
◇◇◇
父が去ると、堰を切ったように、オリヴィア様は、泣き出した。
「なぜ……なぜ、皆さん、わたくしに、優しくするの」
しゃくり上げながら、絞り出すように、言う。
「わたくしは、妃殿下を、毒で……あなたの、妹君を、殺そうと……!」
「あなたは、操られていた」
「それでも! わたくしの、心の中には、たしかに、妃殿下を憎む気持ちが、あったわ……! その隙に、つけ込まれたの……! だから、これは……わたくしの、罪よ……!」
ぼくは、しばらく、黙って、その嗚咽を、聞いていた。
やがて、ぽつり、ぽつりと、オリヴィア様は、自分のことを、話しはじめた。
生まれたときから、王家に嫁ぐ駒として、育てられたこと。父に、側妃でもいいから王家に入れと、言われ続けたこと。その縛りのせいで、ほかの縁談も、すべて、流れたこと。気づけば、嫁ぐあてもなく、行き場を、失っていたこと。
「わたくしには、何も、なかった。……家のための、道具でしか、なかったの」
ぼくは、その話を、最後まで聞いて、静かに、言った。
「あなたは、道具なんかじゃない」
オリヴィア様が、顔を上げた。
「さっき、あなたのお父上は、男泣きに泣いていました。あなたの無事を知って。……あの涙は、道具に向けるものじゃ、ない。あなたは、ちゃんと、愛されて、育ってきた人だ」
「……っ」
「やり方を、間違えただけだ。あの方も、あなたも」
ぼくは、新しい手巾を、その手に握らせた。
「あなたは、美しくて、聡明な人だ。……身体は、もう、健康そのものですよ。気力さえ戻れば、これから、あなたの人生を、あなた自身で、選んでいける。きっと、あなたを、まっすぐに想ってくれる、誰かが、見つかる」
オリヴィア様は、ぼくを、じっと、見つめた。
赤く泣き腫らした、その目に、これまで誰にも、こんなふうに言われたことが、なかったのだ、という色が、浮かんでいた。
◇◇◇
それから、ぼくは、毎日、オリヴィア様の容態を、診た。
医師として、当然のことだ。そう、自分に、言い聞かせていた。
けれど。
朝、医務の間の扉を開けるとき、ぼくの足は、いつのまにか、少しだけ、急いでいた。あの令嬢が、今日は、どんな顔をしているだろう、と。
回復するにつれ、オリヴィア様は、少しずつ、笑うように、なっていった。きつい、と聞かされていた目元が、ふと、やわらかく、ほどける瞬間がある。そのたびに、ぼくの胸の奥が、妙な具合に、落ち着かなくなった。
これは、いけない。ぼくは、医師で、この人は、患者で。それに、この人は、これから、罪を、償わねばならない身だ。
頭では、わかっていた。
それでも。
森で死にかけた男の子を、ぼくの妹が、看病して、いつのまにか、恋に落ちたように。
ぼくもまた、罪に倒れたひとりの令嬢を、看病しながら、その心の弱さも、強さも、ぜんぶ、知ってしまった。
困ったものだ、と思いながら。
ぼくは、明日も、あの扉を、開けるのだろう。




