第66話 凱旋
目覚めてから、五日が過ぎた。
私の身体は、少しずつ、もとに戻っていった。母さんの薬湯と、エルフの娘たちの祈り、そして、私自身の加護のおかげで、もう、半身を起こして、粥を食べられるまでになっていた。
その朝、私は、いつものように、窓辺で、北の空を見ていた。
あの人は、いま、どのあたりだろう。北の道は、遠い。二年かけて行った道のりを、いくら急いでも、そう簡単には、戻れない。あと、何日、かかるだろう。
そんなことを、ぼんやり考えていた、ちょうどそのとき。
王宮の外が、にわかに、騒がしくなった。
馬蹄の音。門のあたりで、誰かが、大声で何かを叫んでいる。衛士の、あわてた足音。それが、波のように、こちらへ近づいてくる。
廊下を、駆けてくる足音がした。
ひとつ。ただ、ひとつだけ。
ほかの誰の足音とも、違っていた。
まさか、と思った。
その足音を、私は、知っている。森の離宮の窓辺で。アカデミーの図書館で。何度も、私のもとへ、向かってきてくれた、あの足音。
寝室の扉が、叩きつけるように、開いた。
「リリィ!」
そこに、ノエルが、いた。
◇◇◇
旅装のままだった。
何日も、馬を駆り続けてきたのだろう。漆黒の髪は、埃にまみれ、頬はこけ、目の下には、濃い隈が刻まれていた。マントの裾は、泥で汚れ、ひどく、やつれていた。
それでも。
その蒼い瞳だけは、森で初めて出会った日と、寸分違わず、同じ色をしていた。
夜空に、星屑を撒いたような、深い、深い、青。
「……ノエル」
私が、その名を呼んだ瞬間。
ノエルは、三歩で、寝台のそばまで来て、私を、抱きしめた。
痛いくらいの力だった。骨が、きしむほどの。けれど、その腕は、震えていた。
「リリィ……リリィ……」
私の名を、何度も、何度も、繰り返す。掠れた声で。子供みたいに。
「生きて、いるな……? 本物だな……? 夢じゃ、ないな……?」
「うん。……うん、ノエル。本物だよ」
私は、その背中に、腕を回した。汗と、土と、馬の匂い。長い旅の匂い。それが、何より、いとおしかった。
「会いたかった」
気づけば、私は、二年、胸の奥にしまい続けてきた言葉を、口にしていた。
「ずっと、ずっと、会いたかった。ノエル」
ノエルの腕に、ぐっと、力がこもった。
「俺もだ」
低い声が、私の耳元で、震えた。
「俺も、ずっと……気が、狂いそうだった」
◇◇◇
どれくらい、そうしていただろう。
ようやく身体を離すと、ノエルは、私の頬を、両手で包んで、まじまじと、私の顔を見た。
その目に、みるみる、涙が盛り上がっていく。あの、誇り高い、王太子が。前線で、軍を率いてきた人が。
「俺が、いないあいだに……お前を、こんな目に」
声が、ほどけた。
「俺は……お前を守ると言って、いちばん危ないところに、お前を、ひとり、残した」
「ノエル。ちがう」
私は、その手に、自分の手を、重ねた。
「あなたは、国を守ってくれていた。私が、守ると決めた、この国を。……ひとりじゃなかったよ。あなたのリボンが、ずっと、私のそばにあった」
私は、手首の、青いリボンを、見せた。
「それに、私、自分の力で、闇から、帰ってこられたの。あなたが、教えてくれた力だよ。森で、あなたを助けたいって祈った、あの気持ちが、私を、守ってくれた」
ノエルの瞳から、涙が、ひとすじ、こぼれた。
旅の埃に汚れた頬に、その一筋だけが、きれいな跡を、残した。
「……強く、なったな。俺の、いないあいだに」
「うん。あなたの、妻だもの」
ノエルは、くしゃりと、顔をゆがめて、もう一度、私を、そっと、抱き寄せた。今度は、こわれものを、扱うみたいに。
◇◇◇
その日、父さんも、ノエルとともに、帰ってきた。
母さんと、父さんが、廊下で、長いあいだ、何も言わずに、手を取り合っていた。二年ぶりの、夫婦の再会だった。エリック兄が、その横で、照れくさそうに、笑っていた。
ホーニング家が、また、王宮に、そろった。
けれど。
すべてが、めでたく収まったわけでは、なかった。
毒を仕掛けた、あのヴェールの女――オーレリアは、事件のあと、煙のように、姿を消していた。大使団は、何も知らぬ存ぜぬで、早々に、国へ帰っていった。背後にいる、ノースランドの呪術師は、まだ、どこかで、息をひそめている。
そして、オリヴィア様は、いまだ、目を覚まさない。
ノエルは、私の枕元で、静かに、言った。
「本当は、二度と、お前を置いて発たぬ、と……そう言ってやりたい」
その横顔に、王太子としての、苦さが、にじんでいた。
「だが、俺は、この国を背負う身だ。北の壁も、まだ、途中だ。……いつかまた、お前を、置いていく日が、来るかもしれぬ」
「うん。わかってる」
私は、その手を、握った。
「でも、私は、もう、ただ待つだけの、お姫さまじゃないよ。あなたが留守のあいだ、この国を守れるくらいには、強くなったの。……だから、安心して、行ってきていいの」
ノエルが、私を見た。その瞳に、痛みと、誇らしさが、半分ずつ、宿っていた。
「……ああ」
窓の外には、二人ぶんの夕日が、王宮を、赤く染めていた。
ふたつの太陽。空の高みと、私の隣。それぞれの場所で、同じ国を、照らしている。
長かった二年が、ようやく、半ばで、ひとつに重なった夕暮れだった。




