第65話 目覚め
暗いところに、いた。
底のない、墨のような闇。手も、足も、感じない。ただ、意識だけが、その中に、ぽつんと、浮かんでいた。
寒い。
冷たい水の底へ、ゆっくりと、沈んでいくようだった。沈めば、もう、二度と、浮かんでこられない。そんな気が、していた。
それでも、私の胸のあたりに、ひとつだけ、ちいさな温かいものが、残っていた。
それは、消えそうになりながら、けれど、決して消えずに、闇を押し返していた。精霊の、加護。森の春に、呪われた男の子のために祈った、あの日から、私の中で育ってきた、守る力。
それが、必死に、私の命を、つなぎとめていた。
ノエル。
闇の中で、私は、その名を、呼んだ。声には、ならなかった。
あなたに、会いたい。もう一度、あの蒼い瞳を、見たい。あなたの手を、握りたい。
その願いだけが、沈もうとする私を、かろうじて、引き止めていた。
どれくらい、そうしていただろう。
ふいに。
私の身体を縛りつけていた、重たい鎖のようなものが、ひとつ、外れた。
それから、もうひとつ。
とたんに、胸の温かいものが、ぱあっと、大きくなった。沈んでいた身体が、急に、軽くなる。光のほうへ、ぐん、と、引き上げられていく。
◇◇◇
まぶたの裏が、明るかった。
ゆっくりと、目を開ける。
ぼやけた視界に、見慣れた天蓋が、映った。
「……リリィ?」
すぐ近くで、声がした。
顔を、声のほうへ向ける。母さんが、いた。窪んだ目に、涙をいっぱいに溜めて、私を、のぞきこんでいた。
「リリィ……! ああ、リリィ……!」
母さんが、私の手を、両手で、握りしめた。その手が、震えている。
「母、さん……」
声が、かすれて、自分でも驚くほど、細かった。喉が、からからだった。
「エリック! 来て! リリィが、目を覚ましたわ!」
ばたばたと、足音。エリック兄が、駆け込んできた。いつも穏やかな兄の目が、真っ赤だった。
「リリィ……よかった……本当に、よかった……」
兄は、私の脈をとりながら、何度も、目元を、ぬぐっていた。
部屋の隅には、あの白髪の精霊師が、静かに、座っていた。私と目が合うと、皺だらけの顔を、くしゃりと崩して、深く、頷いた。
◇◇◇
私は、まる十日、眠っていたのだという。
「あなたの中の加護が、毒と、ずっと、闘っていたの」
母さんが、薬湯を飲ませてくれながら、教えてくれた。
「でも、それだけじゃ、目覚めなかった。あなたを、眠りに縛りつけていたものが、あったのよ」
精霊師が、ゆっくりと、口を開いた。
「お嬢さまのベッドの、裏側。床板との、あいだに。あの、呪いの石が、ひとつ、括りつけられておりました」
私は、息を呑んだ。
枕の下の石は、護衛が片づけた。けれど、犯人は、もうひとつ、見えないところに、仕込んでいたのだ。
「それを外しても、お嬢さまは、目覚めなかった。おかしい、と思いました。調べてみると……もう一人、お倒れになった、侍女の娘。あの方の寝台にも、同じ石が」
オリヴィア様。
「ふたつの石は、糸のように、つながっておりました。かたほうだけでは、解けぬ。ふたつとも取り除いて、はじめて、お嬢さまの加護が、よみがえったのです」
つまり、私が目覚めるためには、私を陥れた、そのオリヴィア様の呪いまで、解かねばならなかった。
なんて、皮肉なのだろう。そして、なんて、哀しいのだろう。
「犯人の……オリヴィア様の、お部屋には」
エリック兄が、低い声で言った。
「幸運の石、と称した、同じ石が、三つ、隠してありました。誰かに、渡されたんでしょう。これを枕元に置けば、願いが叶うと、信じ込まされて」
その石の正体を、精霊師は、知っていた。かつて、皇后陛下を、長く蝕んでいた、あの魔道具。ノースランドの呪術師が使う、奪いの石。霧のように現れて、人の心の隙間に、忍び込む者の――その、系譜。
◇◇◇
「……エミリアは」
私は、いちばん、聞くのがこわいことを、たずねた。
「オリヴィア様は。二人とも、ご無事なの」
母さんと、エリック兄が、顔を見合わせた。
「……命は、とりとめた」
エリック兄が、言った。
「エミリア様は、あなたより少し、回復が遅れているけれど、峠は越えた。じきに、目を覚ますはずだ」
私は、詰めていた息を、ほっと、吐いた。よかった。本当に、よかった。
「オリヴィア様、は」
兄の顔が、曇った。
「……三人の中で、いちばん、重い。あの人は、自分から、一杯を、飲み干していたから。毒が、いちばん、深く回っている」
操られて。幸せになれると、信じて。
「いま、付きっきりで、診ている。意識は、戻らない。でも……俺が、必ず、助ける」
兄の声には、ただの医者の義務以上の、何か、強い響きがあった。私を陥れた令嬢を、それでも、見捨てない。そういう人だった、私の兄は。
「……お願い、お兄ちゃん」
私は、昔の呼び方で、言った。
「あの人も、被害者なの。助けて、あげて」
エリック兄は、黙って、深く、頷いた。
◇◇◇
その夜。
私は、ベッドに半身を起こして、窓の外の、星を見ていた。
身体は、まだ、鉛のように重い。けれど、生きている。私の中の加護が、私を、守ってくれた。ノエルに会いたいという、たったひとつの願いが、私を、闇から、引き戻してくれた。
ノエル。
私が眠っているあいだに、北へ、早馬が走ったのだと、母さんが、教えてくれた。
「あの方、きっと、何もかも放り出して、駆けてくるわね」
母さんは、困ったように、けれど、どこか嬉しそうに、笑った。
私は、手首の青いリボンに、そっと、触れた。
刺繍のない、ただの布。あの人が、俺だと思え、と言って、結んでくれた、対のリボン。
待っていろ、と。あの人の声が、聞こえた気がした。
二年、と言って、別れた。けれど、その約束は、もう、果たされないのかもしれない。
あの人は、いま、北の道を、こちらへ向かって、駆けている。
私は、星に、祈った。
どうか、あの人が、無事に。どうか、もう一度、あの蒼い瞳に、会えますように。
森の春に、呪われた男の子のために祈った、あのときと、同じ気持ちで。




