第64話 凶報
北の前線の朝は、刃のように冷たい。
夏でも、夜明けの霜が、陣幕を白く縁取る。俺は、その寒さの中で、もう一年半、軍を率いてきた。
砦を築き、街道を通し、兵の規律を正す。ノースランドとの睨み合いは、剣を一度も交えぬまま、ただ、神経をすり減らす静けさの中で、続いている。表向きは、近隣諸国への外遊。その裏で、俺は、この国の北の壁を、自分の手で積み上げてきた。
朝の見回りを終えて、陣幕に戻る。
俺は、襟元に手をやり、首に巻いた青いリボンに、そっと触れた。
リリィが、出立の朝に、結んでくれたものだ。幾晩もかけて刺繍をした、と言っていた。日と、星と、薬草の花。あれの言うとおり、このリボンを身につけてから、俺は、一度も病を得ていない。前線の凍える夜も、不思議と、芯から冷えることがなかった。
あいつの力が、ここにある。
二年、と言って、発った。もう、半分以上が過ぎた。あと少しで、あの蜂蜜色の髪のもとへ、帰れる。そう思うと、この寒さも、耐えられた。
「殿下。義父上が、お呼びです」
天幕に、ジョン殿がいた。リリィの父であり、いまは俺の、最も信頼する顧問だ。元はノースランドの皇子だったこの人は、敵の手の内を、誰よりよく知っている。
「南からの隊商に、妙な噂が混じっておりました」
ジョン殿の声が、いつもと違った。
「王都で……何か、あったようです」
◇◇◇
その日の夕刻、王都からの早馬が、前線に着いた。
馬は、泡を噴いて、倒れる寸前だった。乗ってきた伝令も、幾日も眠っていない顔をしていた。その手に握られた書状の封蝋を見て、俺の喉が、干上がった。
王家の、最も急ぎの便にだけ使う、緋色の蝋。
俺は、書状を、ひったくるように受け取った。
封を切る指が、自分のものでないように、震えた。
フェルディナンドの、几帳面な筆跡。短い文だった。
妃殿下、何者かにより、毒を盛られ、昏睡。
意識、戻らず。
御命、予断を許さず。
――その先が、読めなかった。
文字が、目の中で、ばらばらに散った。何度、読み返しても、意味が、頭に入ってこない。
「殿下」
ジョン殿の声が、遠かった。
毒。昏睡。予断を許さず。
リリィが。あの、リリィが。
「……いつだ」
声が、掠れた。
「これが書かれたのが、五日前。馬を乗り継いで、ここまで、五日……」
つまり、もう、十日。十日ものあいだ、あいつは、目を覚まさずに。俺が、こんな、北の果てで、壁を積んでいるあいだに。
俺は、書状を握りしめたまま、その場に、立ち尽くした。
◇◇◇
続報は、夜半に届いた。
毒を盛ったのは、侍女として上がっていた、シュタイン家の令嬢。だが、その娘自身も、同じ毒で倒れ、三人のうち最も重い。何者かに操られ、利用された末に、口を封じるため、ともに消されかけたのだ、と。
近衛隊長マクシミリアンの妻――リリィの親友も、巻き込まれた。
そして、その背後に、ノースランドの呪術の匂いがする、と。
ノースランド。
俺は、奥歯を、噛みしめた。
俺が、北で睨みを利かせていたのは、表の壁を固めるためだった。だが、奴らは、その裏で、まんまと、王都の、いちばん柔らかいところへ、手を伸ばしていた。俺の、いちばん大切なものへ。
リリィは、手紙に書いてきた。王宮は私が守ります、と。あいつは、ひとりで、留守を、守ろうとしていた。俺が、置いていったから。
「俺が……」
声が、漏れた。
「俺が、あれを、置いていったから」
国を守る、などと。立派なことを言って。その実、俺は、いちばん守るべきものを、ひとり残して、北の果てまで、来ていた。
天幕の支柱に、拳を、叩きつけた。鈍い痛みが走ったが、そんなものは、何の慰めにもならなかった。
◇◇◇
「殿下」
ジョン殿が、俺の前に立った。
娘が生死の境にいる。この人とて、平静なはずがない。それでも、その目は、まっすぐに、俺を見ていた。
「お気持ちは、わかります。私とて、同じだ。……ですが、いまは、お聞きください」
「……」
「リリィは、ただの娘ではありません。あの子の中には、エルフ王家の、精霊の加護が宿っている。守る力です。毒に倒れてなお、十日、命をつないでいるのが、その証。あの子は、自分で、己の命を、守っている」
その言葉が、凍りついた俺の頭に、一筋、灯をともした。
そうだ。あいつは、ただ守られるだけの娘では、なくなっていた。最後の手紙に、そう書いてきた。もう、ただ祈るだけの私ではない、と。
「殿下。北の守りは、もう、八割がた、成りました。ここから先は、将軍たちでも、進められます。……後事を託し、お帰りください。あの子のもとへ」
俺は、顔を上げた。
「ジョン殿」
「私も、まいります。父として、薬師として。あの子の毒を、解く手立てを、ひとつでも多く、持っていきたい」
◇◇◇
その夜のうちに、俺は、副将を呼び、後事のすべてを、託した。
築きかけの砦の差配。諸国との盟約の維持。ノースランドへの備え。二年かけて積み上げたものを、半日で、引き継いだ。
副将は、何も言わずに、深く頭を下げた。妃殿下のことは、すでに、陣中に知れ渡っていた。
夜明け前。
俺は、最も足の速い馬を選び、わずかな供回りと、ジョン殿だけを連れて、南へ発つ支度を、整えた。
東の空が、わずかに白む。
俺は、最後にもう一度、首のリボンに、触れた。
刺繍の、ほつれひとつない、青。あいつが、俺の無事を祈って、一針ずつ縫った、青。
俺は、これに守られて、ここまで、無事に来た。
今度は、俺が、帰る番だ。
「待っていろ、リリィ」
声に出して、言った。誰に聞かせるでもなく、ただ、南の空へ。
「必ず、間に合わせる。……だから、それまで、どうか」
俺は、鞍に飛び乗った。
馬腹を蹴る。冷たい朝の風が、頬を切る。
二年かけて来た北の道を、俺は、半分の日数で、駆け戻るつもりだった。
リリィ。
俺の、太陽。
頼むから、消えないでくれ。




