第62話 使節と侍女
ノエルが北へ発って、一年が過ぎた。
二度目の春が来て、王都は、ますます豊かになっていた。市場には品があふれ、孤児院の子供たちは背が伸び、薬草園のエルフたちは、もう耳を隠さずに笑った。私は留守を預かる妃として、すっかり、この国の朝に馴染んでいた。
その春、南の小国から、大使団が来た。
我が国の繁栄を聞きつけ、よしみを結びたいという。表向きは、同盟と祝賀のための、晴れがましい来訪だった。
謁見の間で、私は、ノエルの名代として、彼らを迎えた。
大使は、腰の低い、よく笑う男だった。けれど、その一行の中に、ひとり、奇妙な女がいた。
濃い色のヴェールを目深にかぶった、侍女だという女。挨拶のあいだ、ひとことも口をきかず、ただ、こちらを見ていた。
その女と目が合った、一瞬。
うなじのあたりが、ちりっと、焦げるように粟立った。
(……なに、いまの)
私は、思わず、胸もとを押さえた。精霊師の加護を授かってから、私の中の力は、悪いものに近づくと、こうして、かすかに身じろぎして、知らせるようになっていた。
けれど、まばたきの間に、その感覚は消えた。女は、もう、深く頭を垂れていて、ヴェールの奥は、見えなかった。
気のせい、だろうか。
その日は、そう思って、やり過ごしてしまった。いま思えば、あれが、すべての始まりだった。
◇◇◇
大使団の滞在に合わせて、王宮には、短いあいだ、何人かの令嬢が、侍女として上がることになった。
そのうちの一人が、オリヴィア・フォン・シュタイン侯爵令嬢だった。
その名を聞いて、私は、少しだけ、身構えた。
アカデミーで、私を「田舎の薬師の娘」と笑った、あの令嬢。長い赤毛の、きつい目をした人。シュタイン侯爵家は、古くから王家とひそかに対立してきた家柄で、ノエルにも、近づくなと言われていた。
「お断りには、なれませんでしたか」
私が小さくたずねると、フェルディナンド様は、めずらしく、苦い顔をした。
「侯爵家からの、強っての願いにございます。花嫁修行の名目で、ぜひ妃殿下のお側にと。……あまり邪険にすれば、それはそれで、角が立ちます」
留守を預かる身では、波風を立てたくない。私は、受け入れることにした。
◇◇◇
オリヴィア様は、思っていたのとは、少し違った。
アカデミーで会ったときの、刺すような勢いが、なくなっていた。私の前では、いつも、目を伏せている。命じられた仕事は、黙々とこなす。けれど、その横顔には、隠しきれない暗いものが、貼りついていた。
ある午後、薬草を干す手伝いをしてもらいながら、私は、思いきって声をかけた。
「オリヴィア様。……アカデミーのときは、私、ちゃんとお話しできなくて、ごめんなさい」
オリヴィア様の手が、止まった。
「……なぜ、あなたが謝るの」
低い声だった。
「あなたは、何も悪くない。悪いのは……いつだって、わたくしのほう」
その声に、棘はなかった。あるのは、深い、疲れだけだった。
少しずつ、わかってきた。
オリヴィア様は、生まれたときから、王家に嫁ぐようにと、育てられてきたのだという。父である侯爵に、ことあるごとに、言われてきた。ノエル殿下の妃に。それが叶わぬなら、側妃でもいい。とにかく、王家に入り込め、と。
けれど、ノエルには、長く婚約者がいなかった。呪いに伏せっていたから。だからオリヴィア様も、嫁ぐあてもないまま、ほかの縁談も断られ続けて、行き場を失っていた。
そして、ノエルが選んだのは、どこの馬の骨とも知れない、田舎の薬師の娘――私だった。
「あなたを、恨んだわ」
干した薬草を見つめたまま、オリヴィア様は、ぽつりと言った。
「何度も、何度も。……あなたさえ、いなければ、と」
「……オリヴィア様」
「でも、あなたを見ていると、わかるの。殿下が、なぜ、あなたを選んだのか」
その目に、うっすらと、涙がにじんでいた。
「わたくしには、ないものを、あなたは、持っている」
私は、なんと言っていいか、わからなかった。
ただ、この人は、敵なんかじゃない。父の望みに縛られて、自分の生き方を、ひとつも選ばせてもらえなかった、可哀そうな人なのだと、思った。
そのとき、もっと、踏み込んでいれば。彼女を、ひとりにしなければ。
――けれど、私は、気づくのが、遅すぎた。
◇◇◇
その頃から、オリヴィア様の様子が、おかしくなっていった。
夜、廊下で、あのヴェールの女と、二人きりで話しているのを、何度か、見かけた。声をかけると、オリヴィア様は、はっとしたように、その場を離れる。目の焦点が、どこか、合っていなかった。
あとで知ったことだ。
あの女――オーレリアと名乗った妖術使いは、オリヴィア様の心の、いちばん弱いところに、つけ込んでいた。
あなたの不幸は、すべて、あの妃のせい。あの女さえ、いなくなれば。あなたは、本来の場所に、戻れる。
そう囁いて、オリヴィア様に、ひとつの石を、渡した。
青く澄んだ、美しい石。これは幸運を呼ぶ石だと。枕元に置いて眠れば、願いが叶うと。
オリヴィア様は、それを、信じてしまった。
すがるものが、それしか、なかったから。
◇◇◇
そんな矢先、北から、手紙が届いた。
いつもより、短い手紙だった。
『リリィへ
前線の風向きが、変わった。
ノースランドの動きが、にわかに、慌ただしい。こちらの守りが固まってきたのを、向こうも、察したのだろう。じきに、何か、仕掛けてくるかもしれぬ。
ひとつ、頼みがある。
俺がそばにいてやれぬぶん、用心しろ。見知らぬ者を、安易に、お前の側へ入れるな。お前を狙う者がいるとすれば、それは、俺を狙うより、たやすい。
俺のリボンを、肌身、離すな。あれは、何の力もない、ただの布だ。だが、あれを見れば、俺が、お前を案じていることを、思い出せるだろう。
無事で、いてくれ。それだけが、俺の願いだ。
ノエル』
私は、その手紙を読んで、ぞくりとした。
見知らぬ者を、安易に側へ入れるな。
――もう、入れてしまっていた。
あの大使団。あのヴェールの女。そして、操られていく、オリヴィア様。
私は、急いで、フェルディナンド様のもとへ向かおうとした。
けれど、その夜のことだった。
自分の寝室の、枕の下に。
見覚えのない、青く澄んだ石が、ひとつ、置かれていたのは。




