第59話 留守をあずかる
ノエルのいない皇太子宮は、はじめの数日、ひどく広く感じた。
朝、目が覚めて、隣に手を伸ばす。シーツは冷たいままで、そこにあるはずの温もりがない。それで、ああ、あの人は北へ発ったのだと、毎朝あらためて思い知る。八年も離れていたのだから、二年くらい平気だと、自分に言い聞かせて送り出したのに、いざ独りになってみると、夜のしずけさが耳に痛かった。
そんな朝、私は決まって、左の手首に触れる。出立の朝、ノエルが結んでくれた、青いリボン。あの人の首には私のリボンが、私の手首にはあの人のリボンが巻かれている。同じ色で、対になって。離れていても、こうして結ばれているのだと思えば、伸ばした手の行き場のなさも、少しだけ、なだめられた。
それでも、泣いている暇はなかった。
留守を、頼む。この国を、お前に預ける。出立の朝、額を合わせてそう言われた。だから私は、預かったものの重さに見合うよう、朝早く起きて、政務の間へ向かう日々を始めた。
留守の王宮は、思っていたより、ずっと忙しい。
フェルディナンド宰相が、机に書類を積んでいく。各地の代官からの報告、北の前線へ送る兵糧の手配、孤児院の運営、税の出入り。そのひとつひとつに、私は目を通し、わからないことは恥を忍んでたずねた。聖女の力では片づかない、地味で、根気のいる仕事ばかりだった。
けれど、その書類の山の向こうに、私は、この数年でこの国が変わってきた手触りを、はっきりと感じていた。
◇◇◇
秋の終わり、皇后陛下のお供で、王都の市場を見て回った。
驚いたのは、人の多さと、その顔つきだった。
数年前まで、この界隈には、日の高いうちから酒に酔ったならず者がうろつき、女子供は道の端を足早に歩いたものだと聞く。それが今は、荷を担いだ商人が声を張り、子供が菓子屋の前で背伸びをして、買い物籠を提げた女たちが立ち話に笑っている。捕らえたならず者を北の鉱山へ送るようになってから、王都の裏通りからは、人を脅して暮らす者が消えたのだという。
市場の入り口では、衛士が、行き交う者の身分証をあらためていた。数年前に始まった戸籍改めで、この国の民は、ひとりひとり、名と、生まれと、家族の数を役所に届け出ている。その控えと引き換えに渡されるのが、革に焼き印を押した身分証だった。
国境では、もっと厳しい。どこの誰とも知れぬ者は、もう、この国へ一歩も入れない。夜陰にまぎれて村を荒らす流れ者も、人の顔をして紛れこもうとする隣国の間者も、身分のあらための前では、行き場をなくす。よそから来た行商人でさえ、検問の控えさえ見せれば、こうして堂々と店を広げられた。やましいところさえなければ、誰も咎められることはない。
人を縛るための仕組みのようでいて、その実は、まじめに生きる者が安心して暮らすための仕組みなのだと、フェルディナンド宰相は言っていた。市場の賑わいの土台に、その地味な制度があること。留守を預かるようになって、私はようやく、それが腑に落ちた。
露店には、見たこともない品が並んでいた。南の国の乾した果実、山向こうの岩塩、東の織物。街道が整い、物が早く安く運ばれるようになって、遠い土地のものまで、王都の市場に届くようになった。穀物商の店先には、麦の俵が所狭しと積まれている。新しい農法で実りが倍になり、パン屋は焼きたてを惜しげもなく台に並べていた。数年前なら、考えられない眺めだった。
ひときわ人だかりのできた一角があった。のぞいてみると、おそろいの前掛けをした子供たちが、自分の背丈ほどもある籠を抱えて、得意げにパンを売っている。
「あれは、孤児院の子たちですよ」
皇后陛下が、目を細めておっしゃった。
王立の孤児院では、子供たちが自分の手で小麦を育て、母さん直伝のホーニング村のやり方でパンを焼き、こうして市場で売る。売り上げは、その子たちが大人になったときの、自立の元手になる。施しを待つのではなく、手に職をつけて生きていけるように。皇后陛下が院長として、長く心を砕いてこられた事業だった。
ひとつ買い求めて割ると、湯気と、香ばしい匂いが立った。素朴で、どこか懐かしい。母さんの焼くパンと、同じ味がした。
通りの角の薬屋にも、人が並んでいた。けれど、その列は、病人の列ではなかった。元気な顔をした女たちが、家族のための常備薬を、買い置きに来ているのだ。
「薬が安くなったと、評判なんですよ」
店先の女が、籠いっぱいの薬包を見せて、笑った。王家の薬草園で採れた薬が、エルフの人たちの手で加工され、庶民の手の届く値で売られている。熱が出ても、傷を負っても、もう薬代を案じて寝込むだけの暮らしではない。この数年、王都では、流行り病で人が次々倒れるということが、ぱたりとなくなったのだという。
それは、聖女の力だけで成せたことではない。安い薬が行き渡り、食べるものが足り、人の身体そのものが、もとから丈夫になっていたからだった。
「税が軽くなったのも、大きいでしょうね」
皇后陛下が、ぽつりとおっしゃった。
領主に納める分は収入の一割を超えてはならず、国へ納めるのは二割。全国どこでも同じと定められて、土地の主の気まぐれで搾り取られることが、なくなった。手元に残るものが増えれば、人は、明日のことを考えられるようになる。市場のこの活気は、つまるところ、民の一人ひとりが、自分の暮らしにささやかな望みを持ちはじめた証なのだと、私は思った。
豊かになるというのは、こういうことなのだ。賑わう石畳の上で、私は、それを肌で知った。
ノエルが帰る場所は、こうして日に日に、守るに値する場所になっていく。あの人が前線で踏ん張っているあいだ、私はこの繁栄を、絶やさず育てればいい。そう思うと、書類の山も、少しだけ軽く感じられた。
その夜、北からの最初の便りが届いた。
◇◇◇
『リリィへ
無事に、北の砦に着いた。案ずるな。
表向きは、周辺諸国への外遊ということになっている。だが本当のところは、国境ぞいに陣を敷き、北の睨み合いの只中にいる。剣を交えてはいない。ただ、こちらが気を抜けば、向こうがつけ込む。そういう、息の詰まる静けさが続いている。
外遊は、ただの名目ではない。近隣の国々を回り、よしみを結んできた。我が国の倍に増えた麦を、約束の値で分けると伝えると、どの国も顔色を変えて手を取ってきた。実りは、剣にもなる。お前たちが育ててくれた麦畑が、いま、北の壁の外で、味方を増やしている。
義父殿も達者だ。薬師として、兵の傷をよく診てくださる。前線の寒さの中で、あの薬包は、何より頼りになる。
お前が刺繍してくれた青いリボンは、首に巻いたままだ。夜、眠れぬとき、これに触れると、肩の力がぬける。お前の手が、ここにある気がする。
留守を、頼む。
ノエル』
私は、その手紙を、三度読んだ。
表向きの外遊、という言葉の裏に、どれほどの緊張が押し込められているか。短い文面のはしばしから、それが伝わってきて、喉の奥が、つまった。あの人は、私を案じさせまいと、いつも本当のことを半分しか書かない。けれど、半分でも、私には十分わかってしまう。
文机に向かって、私は、返事を書いた。
◇◇◇
『ノエルへ
ご無事の報せ、何より嬉しく存じます。
王宮は、私がしっかり預かっています。心配は、いりません。市場は賑わい、街道は人で溢れ、民の顔が明るくなりました。あなたが帰ってくる場所は、日ごとに豊かになっています。
諸国とよしみを結ばれたと聞いて、誇らしく思いました。あの黄金の麦畑が、今、遠い国で、あなたを支えていると思うと、誇らしくて、少し泣きそうになります。育ててよかった。心から、そう思います。
父さんのことも、ありがとうございます。どうか、二人とも、無理をなさらず。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて。前線へ送る薬は、これからも私が自分の手で調合します。
あなたの帰る場所は、私が、しっかり守ります。だから、後ろは振り返らず、北の壁を、お築きください。
リリィ』
筆を置いて、窓を開けると、北の方角に、ひときわ明るい星が瞬いていた。
あの星の下で、あの人も、同じ空を見ているだろうか。
会いたい、という言葉を、私は紙には書かなかった。書けば、あの人は後ろ髪を引かれる。だから、その四文字だけは、胸の奥にしまって、かわりにいちばんいい薔薇を一輪、文机に飾った。
留守を、あずかる。
それは、ただ待つことではなかった。あの人の帰る国を、私の手で、守り、育て、富ませること。長い二年の、最初の一歩を、私は、踏み出していた。




