第58話 北へ発つ朝
その夏のことを、私はきっと、一生忘れない。
なんでもない毎日が、こんなにも光って見えたのは、あとになって、それが終わりかけていたと知ったからかもしれない。
晩夏の朝は、薬草を煎じる匂いで始まる。
私は王宮に来てからも、朝のお薬だけは自分で作ると決めていた。皇太子宮の小さな調理場で、銅の鍋に湯を張り、カモミールとリンデンを落とす。ふわりと立つ湯気は、森の村の台所と、同じ匂いがした。母さんに薬草を教わった、あの朝と。
「またそれを煎じているのか」
寝間着のまま起きてきたノエルが、戸口にもたれて言う。漆黒の髪が、寝起きで少し撥ねている。十八になった夫は、私を見下ろすほど背が伸びて、肩も厚くなった。それでも、こうして朝いちばんに私を探しにくるところは、森の離宮にいた頃と、何も変わらない。
「もう陛下も快復なさったのだ。お前が毎朝、薬師の真似事をする必要はない」
「真似事じゃないわ。これは、あなたのぶん」
カップを差し出すと、ノエルは一瞬、黙った。それから、ふいと目をそらして、受け取った。耳のふちが、ほんのり赤い。
照れているのを隠すために、わざと不機嫌そうな顔をする。その癖だけは、いくつになっても直らないらしかった。
「……毒見もなしに、妃の淹れたものを飲む王太子が、どこにいる」
「ここにいるじゃない」
「ああ言えばこう言う」
ノエルは渋い顔のまま、一口飲んで、それから、ふっと頬をゆるめた。
「……うまいな」
その一言のために、私は毎朝、鍋の前に立っているのだと思う。
◇◇◇
昼のあいだ、私には私の務めがある。
午前は学び舎で、薬学と算術を学ぶ。午後は、王宮に出入りする薬師たちと一緒に、安く効く薬を作る手立てを練る。森の村で母さんがしていたことを、この国じゅうに広げたい。高い薬しか手に入らない暮らしを、変えたい。それが、聖女と呼ばれるようになった私の、ほんとうの願いだった。
その合間に、双子のところへ顔を出す。
ノエルの弟と妹。皇后陛下が遅くにお産みになった、よちよち歩きの双子は、私のことを「ねえさま」と呼んで、見つけるなり足にしがみついてくる。
「ねえさま、おはな」
妹君が、庭で摘んだクローバーを、ぐしゃぐしゃに握って差し出してくる。弟君は、その後ろで、転んで泥だらけだ。
私は、二人を膝に抱いて、汚れた手を拭いてやる。森の村に、こんな小さな弟や妹がいたら、と昔よく思った。いまは、それが叶っている。
「ねえさま、にいさまは?」
「お兄さまは、お仕事よ。むずかしいお顔で、難しいことを考えてらっしゃるの」
そう言うと、双子はきゃっきゃと笑った。
ノエルが弟妹に向ける顔は、ぶっきらぼうで、けれど、ひどく優しい。長いあいだ、たった一人で、呪われた離宮にいた人だから。家族が増えるということが、どれほどのことか、たぶん私たちの誰よりも、わかっている。
◇◇◇
夕暮れ、執務を終えたノエルが、庭に出てくる。
青薔薇の咲く一角は、ノエルの亡き母上が愛したという場所だ。いまは私たちの、いちばん落ち着く場所になっている。
「今日、北の麦が刈り入れだそうだ」
長椅子に並んで座り、ノエルが、夕焼けの空を見上げて言った。
「豊作だと、フェルディナンドが浮かれていた。あの男が浮かれるのは、珍しい」
「よかった。村の子たちも、お腹いっぱい食べられるのね」
「お前は、すぐそういうことを言う」
ノエルが、笑った。けれど、その笑みが、ふと、空の北のほうで翳ったのを、私は見た。
あのとき、たずねればよかったのかもしれない。何を見ているの、と。
けれど私は、たずねなかった。この穏やかな夕暮れが、いつまでも続くものだと、どこかで信じていたから。
幸せに慣れるのは、こわいことだと、あとで知った。
◇◇◇
報せは、その数日後の夜に届いた。
執務室の扉の奥から、男たちの低い声が漏れていた。私は廊下で、足を止めた。聞いてはいけない、と思いながら、足が動かなかった。
「国境の守りが、これほど手薄とは」
「南の使節の一件で、はっきりいたしました。北の砦は古く、兵も足りず、街道も通っておりません。今すぐ戦になることはありますまい。なれど、このまま捨て置けば、いつか必ず、ノースランドにつけ込まれます」
フェルディナンド様の声だった。いつもの飄々とした調子が、どこにもない。
エミリアの婚礼で見た、あの南の小国の使節。祝いの席で、人と出入り口を、そっと数えていた目。あれは、この日の下見だったのだ。
扉が開いて、ノエルが出てきた。私と、目が合う。
隠そうとして、隠しきれない顔をしていた。
「……聞いたな」
私は、うなずいた。守られるだけはいや、と言ったのは、私だ。だから、震える声を、なんとか押さえて、たずねた。
「ノエル。誰が、行くの」
ノエルは、しばらく黙っていた。それから、低く、答えた。
「俺だ」
◇◇◇
その夜、寝室で、ノエルは、すべてを話してくれた。
戦が起きているわけではない。北の国境は、いまは静かだ。けれど、その静けさは、いつか破られる。守りのない国境を放っておけば、その日、奥の穀倉地帯まで、北の手が伸びる。あの黄金の麦畑も、子供たちの走っていた畦道も。
「戦になってからでは、遅い。……戦のない、この静かなうちに、固めておくのだ」
国境ぞいを、端から端まで巡回する。要所に、新しい砦を築く。古い守りを直し、街道を通し、兵を配して、いつ戦が来てもいいように、北の壁を作り上げる。来るべき日のための、長い、地道な遠征だった。
どこに拠点を築くか。どう街道を通すか。その土地を、将となる者が、自分の足で歩き、目で見て、決めねばならない。将軍に任せきりには、できない。
「国王陛下の名代として、王家の旗が国境を巡る。それだけで、北の民も、兵も、心がひとつになる。……守りは、石垣だけでは、できぬのだ」
「父上は、もう馬には乗れぬお体だ。弟と妹は、まだ幼い。……行けるのは、俺だけだ」
蝋燭のひかりが、ノエルの横顔をふちどっていた。私の知っている、不器用で、独占欲の強い、私だけの夫。その顔の上に、一国の旗を背負う者の、別の顔が、重なっていく。
「どれくらい」
私は、たずねた。たずねたくない言葉を、それでも。
「国境ぞいの拠点を築き、守りを固め終えるまで。……二年は見ておけと、将軍たちは言う」
二年。
その重さに、息が、つまった。森の離宮で八年も離れていた歳月を、私は知っている。会えない時間が、どれほど長いか。
それでも、私は泣かなかった。ここで泣いたら、この人は後ろ髪を引かれて、北へ行けなくなる。
「待ってる」
私は、ノエルの手を、両手で包んだ。
「私、待つのは得意なの。八年、待ったんだもの。二年なんて」
ノエルの蒼い瞳が、ゆれた。それから、私を強く抱き寄せた。腕の力が、痛いくらいだった。離したくない、と、その腕が、言葉より雄弁に告げていた。
◇◇◇
出立まで、十日あった。
その十日を、私たちは、惜しむように暮らした。
二人で、遠征に持っていく薬を作った。傷の薬。熱冷ましの薬草。眠れない夜のための、生姜と蜂蜜。私が乳鉢で薬草をすりつぶすあいだ、ノエルは、見たこともないほど神妙な顔で、それを見ていた。
「お前は、ほんとうに、母上に似てきたな」
「お義母さま……じゃなくて、私の母さんに?」
「両方にだ」
ノエルは、そう言って、私の手から乳鉢を取り上げ、不器用な手つきで、薬草をすりはじめた。王太子が、自分の遠征の薬を、自分で挽いている。おかしくて、少し泣きたくて、私は笑った。
村からは、母さんと父さんが、見送りに出てきてくれた。母さんは、保存のきくパンと干し肉を、山ほど持ってきた。父さんは、何も言わず、ノエルの肩を、ぽんと一度だけ叩いた。それだけで、男の人たちは、何かを通じ合わせたようだった。
双子は、出立の意味が、半分しかわかっていなかった。
「にいさま、どこいくの」
「とおくだ。しばらく、帰らない」
ノエルが膝をついて、目の高さを合わせて言うと、妹君が、急にべそをかいた。
「やだ。いかないで」
「……すぐに帰る」
「やくそく?」
「ああ。約束だ」
ノエルは、小指を差し出した。森の離宮で、私がよくやった、あの指切り。私が教えたしぐさを、この人が、弟妹にしている。それを見ていたら、押しこめていたものが、喉もとまで、せり上がってきた。
最後の夜、私たちは、ほとんど眠らなかった。
他愛のない話を、いつまでもした。森で初めて会った日のこと。まずいお茶を、別に、と言いながら飲み干した日のこと。髪を梳かせてくれた、雨の日のこと。二人で数えた、夏の星のこと。
笑って、少し泣いて、また笑った。
これがあるから、二年、待てる。そう思える夜を、私たちは、ありったけ抱きしめた。
◇◇◇
出立の朝は、よく晴れていた。
皇太子宮の前庭に、磨きあげた鎧の兵が、整然と並んでいる。馬のいななき。旗の鳴る音。鉄と、油と、馬の匂いが、朝の風にまじっていた。
私は、ノエルの首もとに、青いリボンを結んだ。
学び舎へ通うとき、ノエルがいつも私の髪に結んでくれたのと、同じ色。今度は、私がこの人に結ぶ番だった。リボンの内側には、聖女の力を、ありったけ縫いこんである。守りの祈り。私にできる、せいいっぱい。
「これが、私の代わり。……肌身、離さないで」
「ああ」
それから私は、薬包を詰めた革袋を、その手に握らせた。
「ちゃんと寝て、ちゃんと食べて。無茶を、しないで」
言いながら、声が、ほどけそうになる。私は、唇を噛んだ。
ノエルが、身をかがめた。そして、私の額に、長く口づけをした。次に、まぶたへ。最後に、唇へ。別れの分まで刻みこむような、ふかい口づけだった。
「リリィ」
額を合わせたまま、ノエルがささやく。
「留守を、頼む。この国を……お前に、預ける」
守られる妃ではなく、国を預かる妃として。私は、その言葉の重さを、まっすぐに受け取った。涙を奥へ押しこんで、はっきりと、うなずいた。
「行ってらっしゃい、ノエル。……必ず、帰って」
ノエルは、馬上の人になった。
最後に一度だけ、ふり返って、私を見た。そのまなざしを、私は、一生忘れないだろうと思った。
角笛が鳴った。軍列が、北へ向けて、ゆっくりと動きだす。鎧の列が陽を弾いて、白い街道を、北の山脈のほうへ伸びていく。
私は、前庭に立ったまま、それが地平の彼方の、小さな点になるまで見送った。点が消えても、まだ、立っていた。
風が、青いリボンの残り香を運んでくる。
その匂いの奥に、薬草を煎じた朝も、双子の笑い声も、眠らなかった夜も、ぜんぶ、たたまれている気がした。
(……ここから先は、私の番)
私は、両手を、胸の前で、そっと握りしめた。
留守の王宮を、民を、あの黄金の麦畑を。この人が帰る場所を、守りぬく。私が積み上げた、なんでもない毎日のぜんぶを。二年後、北の道の彼方に、軍列がまた現れる、その日まで。
夏が、終わろうとしていた。
私の長い二年が、いま、静かに始まった。




