第57話 黄金の麦畑
夏。
王都の郊外まで馬車を走らせると、窓の外いっぱいに、麦の海が広がっていた。
風がわたるたび、穂が、ざわ、ざわ、と波打って、ひかりを返す。緑がかっていた穂先は、もう、淡い金に色づきはじめていた。麦の匂いと、乾いた土の匂いが、開けた窓から、ぬるい風にのって入ってくる。
「すごい……去年とは、まるで違う」
私が思わずもらすと、向かいに座ったノエルが、目だけでうなずいた。
二年前、この一帯は、痩せた土が剥き出しの、頼りない畑だった。それが今、見わたすかぎりの実りに変わっている。皇太子宮の農政官たちが、北方の修道院から取り寄せた農法を、ここで試したのだ。
ひと組の畑を三つに分けて、年ごとに育てる作物を移していく。豆を植えた畑は、翌年、麦がよく実る。家畜の糞を寝かせて作る肥料。小川から水を引く、細い溝。どれも、地味で、手間のかかるやり方だった。
「収穫は、去年の倍になる見込みだそうだ」
ノエルが、低い声で言った。
◇◇◇
馬車を降りると、麦の畑の主だという老農夫が、帽子を脱いで、深く腰を折った。日に焼けた顔の皺の一本一本に、土がしみこんでいる。
「妃殿下に、お見せしたいものが」
老農夫の、節くれだった手のひらに、麦の穂が一本のせられた。私は、白い手袋を外して、その穂を、指でそっと挟んだ。
ずしりと、重い。
ひと粒ひと粒が、ぱんと張って、固い。薬師として、たくさんの種や実に触れてきた指が、その充実を、はっきりと伝えてくる。これだけ詰まった穂なら、粉にしたとき、どれほどのパンになるだろう。
「立派です。……これを育てたのは、あなたの手ですね」
私がそう言うと、老農夫の目尻に、みるみる、ひかるものが盛り上がった。
聖女の力を使ったわけではない。私は、ただ、その手の働きを、言葉にして返しただけだった。けれど、土にまみれた人ほど、自分の仕事を、誰かに見てもらえる日を、待っている。それを、私は森の村で育って、知っている。
畑の畦道で、子供たちが、刈り入れの手伝いに走りまわっていた。その笑い声が、麦の穂のあいだを、転がっていく。
平和な、夏の昼だった。
◇◇◇
その日の夕暮れ、皇太子宮の執務室で、ノエルとフェルディナンド様が、地図を広げていた。
王都に、新しい穀倉を建てる図面だという。私は、お茶を運ぶふりをして、その話に、耳をかたむけた。
「倍に増えた分は、市場には出さず、蔵へ回します」フェルディナンド様が、銀の鍵の徽章を撫でながら言う。「食べきれぬほどの実りこそ、最も雄弁な備えにございますれば」
備え。その一語で、昼間の金の麦畑が、急に、別の意味を帯びた。
これだけの穀物を蓄えるのは、ただ豊かになるためではない。もし、城門を閉ざして、長い籠城になったとしても、民が飢えぬように。北の国と、いつか刃を交える日のために。
ノエルが、地図の北の端に、指を置いた。そこには、つめたい色の山脈が、横たわっている。
「実りは、剣にもなる」
ノエルが、ぽつりと言った。その横顔は、昼間、麦の穂を見ていたときよりも、ずっと、固かった。
明るい太陽の下の豊作と、北の空の影。そのふたつが、同じ一本の糸で、つながっている。私は、それを、もう知ってしまった。
◇◇◇
夜が更けても、ノエルは書類の山から、顔を上げなかった。
農政、税、北の砦の報告。公務は、このところ、途切れることがない。蝋燭のひかりに照らされた目の下に、薄い隈が落ちているのを、私は見逃さなかった。
私は、厨房で温めてきた滋養強壮薬を、ことり、と机に置いた。生姜と蜂蜜と、薬草を煮出した、私の手製。湯気にのって、つんと甘い香りが立つ。
「ノエル。少し、休んで」
「……あと、少しだ」
「だめ。妃の言うことは、聞くものでしょう」
私が頬をふくらませると、ノエルの口の端が、ふっとゆるんだ。羽根ペンを置いて、薬の杯を、ひと息に干す。喉が上下するのを、私は、となりで見ていた。
長椅子に座らせて、私は、その頭を、自分の膝にのせた。漆黒の髪に、指を差し入れて、ゆっくりと梳く。森の離宮で、まだ小さかったこの子の髪を、はじめて梳いた夜を、ふいに思い出した。
聖女の力を、指先に、わずかに通す。あたたかい何かが、私の手から、ノエルの体へ、しずかに流れていくのがわかる。強ばっていた肩が、すこしずつ、ほどけていった。
「……お前の手は、ずるいな」
目を閉じたまま、ノエルが言う。
「どうして」
「これをされると、何も、考えられなくなる」
その声が、だんだん、眠たげに、低くなる。私は、笑って、その額に、口づけをひとつ落とした。
窓の外、北の空には、つめたい星が瞬いている。それでも、今夜だけは。私の膝の上で眠るこの人を、あたためることだけを、考えていたかった。




