第55話 やきもち
その日の、午後はじめの専科は、薬学の実習だった。
乾かした薬草を、すり鉢で挽いて、軟膏を練る。ホーニング村で、お母さんに教わったとおりの手つきで、私は、緑の葉を、こまかくすりつぶしていった。慣れた作業だ。手のひらに、青い草の匂いが染みこんでいく。
「うわっ」
隣の机で、声があがった。
同じ専科の、眼鏡をかけた男子生徒だ。すり鉢の縁で指を切ったらしく、人差し指に、赤い玉が、ぷつりと浮いている。
「見せて」
私は、迷わず、その手を取った。傷口に、軟膏を、そっと塗る。それから、ほんの少しだけ、聖女の力を、指先に流した。あたたかな光が、傷を、すうっと塞いでいく。
「……痛くない。もう、血も止まってる」
男子生徒は、自分の指と、私の顔を、何度も見くらべた。眼鏡の奥の目もとが、じわじわと、赤くなっていく。
「あ、ありがとう、ございます、妃殿下……っ」
「ううん。気をつけてね」
私が笑うと、彼は、ますます真っ赤になって、ぺこぺこと頭を下げた。
ベアトリスが、隣で、つい、と目を細めたのに、私は、まるで気づかなかった。
◇◇◇
その夜。
皇太子宮の応接間に戻ると、ノエルは、もう、帰っていた。
肘掛け椅子に、深く座って、書類を眺めている。声をかけても、「……ふん」と短く返すだけ。蒼い瞳が、私のほうを、見ようとしない。
「ノエル。ただいま」
「……ああ」
そっけない。それも、いつものそっけなさとは、どこか、ちがう。
私が隣に座っても、ノエルは、書類に目を落としたまま。けれど、その書類のページは、さっきから、一枚も、めくられていなかった。
なにか、怒ってる?
私は、首をかしげた。
「ノエル、おなか、すいてる?」
「すいてない」
「お薬、まだ飲んでないでしょ。煎じてくる?」
「いらない」
とりつくしまもない。私は、しばらく、ノエルの不機嫌な横顔を、ながめていた。それから、はたと、思い当たる。
そういえば、今日の迎えの馬車。あのとき、正門のそばに、マクシミリアン様の近衛がいた。きっと、昼間の薬学のことを、ノエルに、報告したのだ。
あ。
これは。
◇◇◇
「……ノエル。もしかして」
私は、くすっと笑いそうになるのを、こらえた。
「学校の男の子のこと、聞いた?」
ノエルの肩が、ぴくり、と跳ねた。書類を持つ手に、ぎゅっと力がこもる。
「……知らん」
「ふふ。やっぱり」
「なにが、やっぱり、だ」
ノエルが、ようやく顔を上げた。眉を寄せた、むすっとした顔。けれど、その耳のふちが、ほんのり赤いのを、私は見逃さない。
「指を切った子に、軟膏を塗っただけだよ。聖女のお仕事だもの」
「……手を、握ったんだろう」
「治すために、ね」
「そいつは、お前を見て、赤くなったって、聞いた」
ぼそぼそと、ノエルが言う。だんだん、声が小さくなっていく。むすっとした王太子が、こんなにも、しょんぼりしている。
可愛い、なんて思ったら、きっと、もっと拗ねてしまう。
私は、笑いをかみ殺して、ノエルの膝に、ことん、ともたれかかった。
◇◇◇
「ノエル」
「……なんだ」
「私が、世界でいちばん好きなのは、ノエルだよ」
ノエルの体が、びくっと、固まった。
「指を切った男の子も、専科のお友達も、みんな大事だけど。でも、好きっていうのは、ノエルだけ。ずっと、森で会ったあの日から、ノエルだけなの」
しんと、暖炉の薪が、小さく爆ぜた。
ノエルは、しばらく、なにも言わなかった。それから、ふい、と顔をそむけて、片手で、自分の口もとを、覆ってしまう。耳どころか、首すじまで、赤い。
「ノエル?」
「……ずるいぞ、お前」
くぐもった声で、ノエルが言った。
「そういうことを、急に、言うな」
「えへへ。だって、本当だもの」
次の瞬間、ノエルの腕が、私を、ぐいっと引き寄せた。気づけば、私は、ノエルの胸の中に、すっぽりと、おさまっている。
「……もう、どこにも、行くな」
「行かないよ。ここが、私のおうちだもの」
ノエルが、私の額に、こつんと、自分の額を当てる。それから、ゆっくりと、唇を重ねた。さっきまでの不機嫌が、嘘みたいに、やわらかいキスだった。
◇◇◇
寝室で、私は、櫛を手に取った。
「今日は、私が梳いてあげる」
ベッドの端に座ったノエルの、黒い髪に、櫛を通していく。剣の稽古で少し汗ばんだ髪が、櫛が通るたび、さらりと、艶を取り戻す。昔、森の離宮で、青白いノエルの髪を、はじめて梳いた日のことを、思い出した。あのころは、こんな日が来るなんて、思いもしなかった。
「ノエルの髪、つやつやになったね」
「……ガキの趣味みたいなこと、するな」
そう言いながら、ノエルは、おとなしく、されるがままになっている。
ふと、櫛をあてる手の下で、ノエルの肩が、こわばっているのに気づいた。やきもちとは、ちがう。もっと、重たい、なにか。
「ノエル。今日、お帰り、遅かったの?」
「……ああ」
「お仕事、大変?」
ノエルは、すぐには答えなかった。それから、ぽつりと、言う。
「国境のほうで、……少し、な」
国境。北の。
その先を、ノエルは、言わなかった。けれど、私には、わかる。ノースランド王国の、斥候。ノエルは、このごろ毎晩、フェルディナンド様やマクシミリアン様と、その対応を話し合っているのだ。
「ノエル。私にも、教えて」
私が言うと、ノエルは、ふり返って、私の手から、そっと櫛を取り上げた。
「お前は、なにも知らなくていい」
低い声に、突き放すような響きはなかった。むしろ、こわれものを、遠ざけるみたいな、優しさだった。
「お前は、笑って、薬草でも挽いてろ。……そういうお前を守るのが、俺の仕事だ」
ノエル。
また、ひとりで、抱えこむ。
私は、ノエルの背に、両腕をまわした。守られるのは、うれしい。でも、ノエルがひとりで抱えているものを、いつか、私にも、半分わけてほしい。
その夜、ノエルの腕の中で眠りに落ちるまで、北の空のことを、私は、ずっと、考えていた。




