第54話 学び舎の春
婚儀の冬から、三月。
王宮の庭の雪が溶けて、白い沈丁花が、甘く香りはじめた。アーデルハイトに、春が来た。
そして今日から、私は、王立アカデミーの学び舎に、戻る。
ご婚約とご婚儀で、しばらくお休みしていた、高等科。といっても、朝から夕方まで、まる一日いるわけではない。一般教養の授業は、ふだんの王妃教育で履修ずみだから、免除されている。私が通うのは、午前から、お昼をはさんで、午後のはじめまでの、専科だけ。聖女学に、薬学、それから古代語。聖女として、王太子妃として、どうしても修めておきたい学問を、選んで受けるのだ。
◇◇◇
皇太子宮の、玄関。
紺青の制服に、銀の校章。胸元には、ちいさな星形の、聖女章。久しぶりの、学生の身支度だった。
「リリィ」
見送りに出てきたノエルが、私を、上から下まで、ちらりと見た。
「……ふん。制服、まだ、似合うじゃないか」
「もう。ノエルったら」
ノエルは、公務の正装だった。藍色の上着に、王太子の金の飾り緒。私とは、もう、進む道がちがう。それでも、毎朝、こうして、玄関まで送ってくれる。
ノエルが、私の前に来て、結んだばかりの青いリボンを、なぜか、ほどいてしまう。
「ノエル?」
「……曲がってる」
ほんとうは、ちっとも曲がっていなかった。ノエルは、不器用な指で、もう一度、私の髪にリボンを結び直した。それから、声を落として、言う。
「……学び舎の男に、笑いかけるなよ」
「えっ」
「専科には、男も、いるだろう」
ぶっきらぼうに言って、ノエルは、私の額に、こつん、と唇を当てた。
「行ってこい」
「うん、ノエル。行ってきます」
こんなに大事にされているのに、まだ妬くなんて。おかしくて、それでいて、うれしい。くすぐったい気持ちのまま、私は馬車に乗りこんだ。ノエルの蒼い瞳が、私の背中を、ずっと追っている。長身の影が、玄関の柱のそばで、いつまでも、見送ってくれていた。
◇◇◇
王宮の白い門を出ると、馬車の両脇に、銀の鎧の騎士たちが、ぴたりと並んだ。
皇太子宮づきの、近衛部隊。私とノエルの身辺を、専門に守るために、新しく設けられた精鋭たち。
その先頭で、馬を駆るのは、栗色の髪の青年だった。
「妃殿下。本日も、お供いたします」
マクシミリアン・モルゲンシュテルン。ノエルの側近で、この部隊の隊長。そして、私の親友エミリアの、婚約者でもある。
「マクシミリアン様。いつも、ありがとうございます」
「妃殿下のお守りは、隊の誉れにございます」
きまじめにそう言いながら、マクシミリアンの緑の瞳が、ふっと、やわらいだ。
私の隣には、エミリアとベアトリスも座っていた。朝の支度を終えて、私といっしょに登校する、私の侍女だ。高い家柄の令嬢が、妃に仕えながら行儀を学ぶ、花嫁修行のしきたり。ふたりは、侍女としてお仕えするかたわら、高等科の正規の生徒として、朝から夕方まで学び舎で学んでいる。専科だけを受けて昼には帰る私とは、そこがちがった。
「マクシミリアン様ったら。わたしも乗っているのに、ごあいさつは妃殿下にだけ?」
エミリアが、窓ごしに、ぷうっと頬をふくらませた。マクシミリアンが、こほん、と咳払いをする。その耳が、ほんのり赤い。
私は、くすっと、笑ってしまった。
◇◇◇
専科の教室。
エミリアとベアトリスと連れだって、扉を開ける。
金髪のアマリアが、机から顔を上げて、ぱっと笑った。侍女ではないアマリアは、王宮楽団のソリストを務めるかたわら、級友として机を並べてくれている。いつも私たちより先に来て、教室で待っていてくれるのだ。
「リリィ。待ってた」
アマリアは、ふだんは口数が少ない。それでも、私を迎えるその声は、いつも、やわらかい。
「もう、アマリアったら。わたしたちだって、毎朝いっしょなのに」
エミリアが、となりで、ぷうっと笑った。
「妃殿下になっても、ここでは、ただのリリィだからね」
ベアトリスが、すました顔で、けれど、その目もとを、ほころばせた。
中等科のころからの、大切なお友達。王太子妃の私を、三人とも、特別あつかいしない。ただの、リリィとして、迎えてくれる。
その温かさが、すうっと、胸にしみた。
◇◇◇
専科の授業は、中等科より、ずっと深かった。
午前は、聖女学。クラリッサ大司祭から受け継ぐ、古い祈りの作法と、神聖力の理。
お昼をはさんで、午後のはじめは、薬学と、古代語。
薬学では、お母さん直伝の薬草に、学問の名前と理屈が、ひとつずつ、結びついていった。これまで手が覚えていたことに、頭が、追いついていく。
古代語の教科書には、エルフの民の、古い文字が並んでいた。その一字を、たどたどしく読むたびに、森の離宮で、ノエルに絵本を読んでもらった日々が、よみがえった。
学ぶことは、たくさん、ある。けれど、ひとつ知るたびに、私の見える世界が、すこしずつ、広がっていった。
それでも、午後のなかばには、私の授業はおしまい。午後いっぱい机に向かう一般の生徒たちを残して、私は、ひと足先に、学び舎を出る。
◇◇◇
その、午後のはじめの、休み時間だった。
中庭の回廊で、ひとつの視線が、私を、つらぬいた。
長い赤毛に、きつい目もとの、令嬢。オリヴィア・シュタイン。
中等科のころ、私を柱の影から見ていた、あのご令嬢。いまは、高等科の、最上級生になっていた。
「ごきげんよう、妃殿下」
オリヴィアが、優雅に、けれど、刃のように、頭を下げた。
「田舎の薬師の娘が、王太子妃に。ーー、ほんとうに、おとぎ話のようですこと」
言葉は、どこまでも、丁寧。けれど、その緑の瞳の奥に、つめたい光が、ちらりと揺れた。
シュタイン家。王宮の奥深くで、長く、王家と、ひそかに闘ってきた、古い伯爵家。
なぜか、背筋が、ひやりとした。
「リリィ。行きましょう」
エミリアが、私の腕を、そっと引いた。
◇◇◇
午後はじめの専科を終えて、校門へ向かうと、エミリアが、いたずらっぽく、私の袖を引いた。
「リリィ。見て。ノエル様が、来てるよ」
校門の前に、王宮の馬車。その脇に、長身のノエルが、腕を組んで、立っていた。
公務の合間に、わざわざ、迎えに来てくれたのだ。
「ノエル」
私が駆け寄ると、ノエルは、ふい、と目線をそらした。
「……ふん。たまたま、近くに用が、あっただけだ」
「ふふ。そうなの?」
「……うるさい」
エミリアと、ベアトリスが、うしろで、くすくすと笑っていた。
ノエルが、私の手を取って、馬車に乗せてくれた。
午後の日差しの中を、馬車が、ゆっくりと走る。隣に座ったノエルの肩が、私の肩に、ふれていた。
「今日は、どうだった」
「うん。お友達と、また一緒に学べて、たのしかった」
オリヴィアのことは、まだ、言わなかった。
かわりに、私は、ノエルの横顔を、うかがった。目の下に、うっすらと、隈がある。このごろ、ノエルの帰りは遅い。執務室にこもって、フェルディナンド様やマクシミリアン様と、夜更けまで話しこんでいる。
「ノエル。お仕事、大変?」
「……国境のほうで、少し、な」
それきり、ノエルは、口をつぐんだ。北の、ノースランド王国。その名を、ノエルは、口にしない。立太子のあの日に砕けたはずの陰謀が、また、静かに、頭をもたげている。
「お前は、なにも心配しなくていい」
ノエルは、いつもの言葉で、私の頭を撫でた。守られるのは、あたたかい。でも、いつか、ノエルがひとりで背負っているものを、半分、私にも持たせてほしい。
◇◇◇
その夜。
王妃教育を終えて、私が皇太子宮の応接間に戻ると、扉の隙間から、低い声が、漏れていた。
そっと覗くと、大きな卓に、王国の地図が広げられている。ノエルと、フェルディナンド様、それから、マクシミリアン様。三人の影が、燭台の灯りに、長く伸びていた。地図の北のはし、国境のあたりに、赤い石が、いくつも、置かれている。
「……また、増えました」
マクシミリアン様の、低い声だった。
「ノースランド王国の斥候です。国境の砦の、すぐ手前まで。まるで、こちらの守りの厚さを、測るように」
「呪術の痕跡は」
ノエルが、短く問うた。
「ございます」
フェルディナンド様が、銀の鍵の徽章を、ちらりと光らせる。
「あの、メイがあやつられた一件と、同じ匂いの、魔術にございます。血脈を絶やす計画が破れたいま、ノースランド王国は、刃の向きを変えてまいりました。今度は、内から、この国を崩そうと」
赤い石が、また、ひとつ、地図の上に置かれた。こつ、と硬い音がする。
立太子のあの日、砕け散ったはずの陰謀。それは、終わりではなかったのだ。形を変えて、北の空の向こうで、ふたたび、牙を研いでいる。
「……リリィ」
ノエルが、ふり返った。私が見ていたことに、気づいたのだ。広げた地図を、さっと、伏せる。
「もう、休め。お前は、知らなくていい」
その声に、突き放すような響きはない。けれど、引かれた一線は、たしかに、そこにあった。
「うん。……おやすみ、ノエル」
私は、頷いて、そっと扉を閉じた。閉じた扉の向こうで、また、低い声が、続いていく。
守られるだけじゃ、いやだ。
私は、扉の前で、ぐっと、こぶしを握りしめた。聖女として、王太子妃として。きっと、私にも、できることがある。
王宮の窓の外、北の空に、春のはじめの星が、つめたく、またたいていた。




