第53話 新婚の朝
朝。
天蓋の白いレースを透かして、淡い光が差し込んでいた。まだ青みの残る、冬の終わりの朝。
新しい寝室は、削りたての木と、真新しいシーツの匂いがした。そこに薔薇とハーブの、嗅ぎ慣れた香りが、ほんのり混じっている。お母さんがお祝いにと、枕辺に置いてくれた匂い袋だった。
私のお腹のあたりに、なにか、温かいものが触れている。
まどろみの中で、それが人の唇だと気づいて、私はまぶたを開けた。
掛布の下にもぐりこんだノエルが、私のまだ平らなお腹に、そっと唇を寄せていた。乱れた黒髪が、素肌をくすぐる。
「……の、ノエル?」
「……起きたのか」
布の中から、ねぼけた低い声がした。けれど、こちらを見上げるその目は、もう、はっきりと醒めている。
「な、なにして……」
「俺の妻の腹だ。なにをしようと、俺の勝手だろう」
悪びれもせず、ノエルはもう一度、お腹に口づけを落とした。ゆっくりとした、深いキス。頬が、ぽっと熱くなる。
ノエルが、身を起こして、私の隣に肘をついた。長い指が、乱れた私の髪を、耳のうしろへ梳いていく。指先はそのまま首筋をたどって、鎖骨のくぼみで、ふと止まった。
「……リリィ」
低い声が、耳のすぐそばで響く。吐息が首筋にかかって、私は、ちいさく身をすくめた。
「ゆうべの、つづきが、したい」
「あ、朝、だよ?」
「知っている」
言うが早いか、ノエルは私の首筋に、唇を押し当てた。白い肌に、その熱が移ってくる。冷えやすかったはずの唇が、今朝はもう、火傷しそうなくらい熱い。
「ノエル……っ」
くすぐったくて、でも、いやではなくて。私は、ノエルの黒髪に、指をうずめた。
ひとしきり私を離さないでいてから、ノエルは、私の肩口に、額をうずめた。
「……なあ、リリィ」
「うん」
「お前は、ほんとうに、俺のものに、なったんだな」
ぽつりと落とされた言葉に、私はまばたきをする。確かめるみたいに、ノエルの腕が、私をもう一度、きつく抱き寄せた。
無愛想な声の奥に、ほんのちいさな影があった。呪いはもう解けたのに、ノエルの心のいちばん奥には、まだ、いつか奪われるのを恐れる、ちっちゃな夜が残っている。
私は、その黒髪を、ゆっくりと撫でた。
「うん、ノエル。私は、ノエルのもの。ずっと、離れないよ」
ノエルが、息をのんだ。それから、ばつが悪そうに目をそらして、私の額に、こつん、と自分の額を当てる。
「……なんだ、それ」
ぶっきらぼうな声が、わずかに笑っていた。
近すぎて、まつ毛の一本まで見える。森の離宮で青白く横たわっていた、あの男の子と、同じ人とは思えないほど、その頬には、朝の血の色がさしていた。
もう、夢じゃない。
この温度も、この重みも、ぜんぶ、ほんとうのこと。
◇◇◇
ほどなくして、寝室の扉が、控えめに叩かれた。
「リリィ様。お目覚めでいらっしゃいますか」
エミリアの声だった。
「うん、起きてるよ」
扉が開いて、エミリアとベアトリスが、朝の支度を運んできてくれた。
ふたりとも、淡い水色のお仕着せに、銀の侍女章。きのうまで、アカデミーの教室で隣に座っていたお友達が、今日からは、私の筆頭侍女と侍女だった。
「リリィ様。本日より、わたくしどもが、毎朝、お仕えいたします」
ベアトリスが、深くお辞儀をした。きまじめなその子らしい、角度の正しいお辞儀だった。
「ベアトリス様。あの、そんなに、かしこまらないで」
「いいえ。お役目ですもの」
ベアトリスは、すました顔で言いながら、その目もとを、わずかにほころばせた。
エミリアが、銀の盥に張った湯で、私の顔を清めてくれた。あたたかい布が、頬にあてられる。湯気が、ふわりと立って、薔薇の香りがした。
それから、髪。
エミリアが、私の蜂蜜色の髪を、丁寧に梳いてくれた。櫛が通るたび、髪が、さらさらと音を立てる。
最後に、青いリボン。
ホーニング村の、お母さんの色のリボンを、エミリアが、髪に結んでくれた。
「リリィ様。妃殿下になられても、このリボンなのですね」
「うん。これがいちばん、落ち着くの」
鏡の中の私は、王太子妃の白い朝のドレスに、村のリボンをつけていた。
その不揃いが、なんだか、私らしい気がした。
◇◇◇
ご支度を終えると、私は、宮の奥の祈祷室へ向かった。
皇太子宮の中に、私のためだけに設えられた、神聖力の祈祷室。
白い大理石の床に、朝の光が、まっすぐに落ちていた。窓辺には、お父さんとお母さんが村から運んでくれた薬草の鉢が、ずらりと並んでいる。土と、青い葉の匂い。離宮の薬棚と、同じ匂いがした。
私は、祭壇の前に膝をついて、両手を組んだ。
神様への、朝のお祈り。
胸の奥が、しんと静まって、指先から、あたたかな光が満ちてくる。神聖力が、私の身体を、ゆっくりと巡りはじめた。
その力を授かったまま、私は、三人分のお薬を煎じた。
皇后陛下の、朝のお薬。
陛下の、滋養強壮薬。
そして、ノエルの、お薬。
ことことと、薬缶が鳴る。薬草の、ほろ苦い湯気が、祈祷室に立ちのぼった。
呪いに伏せっていた頃のノエルには、もう、この強いお薬はいらない。けれど、長く神聖力で支えてきたその身体を、ゆっくりと地に馴染ませるための、優しい一服を、私は今も、毎朝、煎じている。
これが、私の聖女のお務め。
王太子妃になっても、変わらない、私の役目だった。
◇◇◇
朝餉の席は、王城の、ご家族の食堂。
長いテーブルに、陛下と、皇后陛下。
そして、ノエルと、私。
きのうまでは、客人として招かれていたこの食卓に、今朝は、家族のひとりとして、私は座っていた。
「リリィ。よう眠れたか」
陛下が、私に、お声をかけてくださった。立派なお髭の奥で、その口元が、やわらかくゆるんでいる。
「はい、陛下。ぐっすり、休みました」
「そうか」
陛下が、満足げに頷かれた。
「そなたが来てくれて、わが家の朝は、いっそう、明るゅうなった」
「もったいないお言葉です」
私が頭を下げると、皇后陛下が、おっとりと笑われた。
「あなた。妃殿下を、あまり困らせては、なりませんよ」
皇后陛下のご快復は、めざましかった。頬には血の気が戻り、白い手も、もう、ふるえてはいなかった。
その皇后陛下のお膝のそばに、ちいさな影が、ふたつ。
「リリィおねえちゃま!」
リリィ・ルクスが、椅子からぴょんと飛び降りて、私のところへ駆けてきた。
王家の蒼い瞳に、皇后陛下ゆずりの金髪。二歳の妹君は、まんまるな頬を、林檎みたいに染めていた。
「ルクスちゃん。おはよう」
私は、ルクスを、膝の上に抱き上げた。乳と、焼きたてのパンの匂いがした。
「おねえちゃま、きょうも、ごほん、よんでくれる?」
「うん、いいよ。お昼にね」
ニコラスのほうは、まだ眠そうに、皇后陛下の袖を握っていた。けれど、私と目が合うと、もぞもぞと近寄ってきて、私のドレスの裾を、ちいさな手で、ぎゅっとつかんだ。
「……リリィおねえちゃま」
「うん、ニコラスちゃん。おはよう」
ノエルが、その様子を、テーブルの向こうから見ていた。
「……おい。お前たち、リリィを困らせるな」
口ではそう言いながら、ノエルの蒼い瞳は、双子と私を、まるくおさめて見守っていた。
「あにうえ、ずるい!」
ルクスが、ぷうっと頬をふくらませた。
「リリィおねえちゃまは、ルクスのおねえちゃまだもん」
「……ふん。リリィは、おれの妃だ」
「あにうえの、いじわる!」
食堂に、笑い声が、ぱっと弾けた。
陛下が、声をあげてお笑いになる。皇后陛下が、口もとに手をあてて、肩をふるわせる。ノエルまでが、めずらしく、口の端を上げていた。
私の膝の上で、ルクスがきゃっきゃと笑う。裾を握ったニコラスも、つられて笑っていた。
朝の光が、長いテーブルを、端から端まで照らしている。焼きたてのパンの湯気。木の実のジャムの、甘い匂い。あちこちで、銀のスプーンが、皿に触れる音。
私は、いま、この食卓のまんなかにいる。
森の離宮で、ひとりの男の子の手を握っていた私が。
その手のぬくもりは、こんなにも、たくさんの人へと、つながっていた。
ふいに、視界が、ぼやけた。
「リリィ」
ノエルが、私を呼んだ。
テーブルの下で、その手が、私の手に重ねられる。だれにも見えないところで、ノエルは、いつも、こうして私に触れる。
「うん、ノエル」
「……今日も、頑張れ」
「うん。ノエルも」
握り返した手の温度が、私の指から、腕へ、そして身体じゅうへと、じんわり広がっていった。




