第52話 初夜
ご婚儀の日の、夜。
大広間のダンスパーティは、いつまでも続いていた。王宮楽団の音色が、シャンパンの泡みたいに、華やかに弾けている。参列のみなさまの笑顔。祝福の声。陛下と皇后陛下の、優しいまなざし。私とノエルは並んで、すべての方々のお祝いを受けた。
夜が更けたころ、陛下が、玉座をお立ちになった。
「ノエル、リリィ嬢。もう、ふたりで、部屋へ下がるがよい」
「はい、父上」
ノエルが頭を下げる。私も、ならって頭を下げた。
皇后陛下が、私の手を、そっと握ってくださる。
「リリィ。おめでとう」
「ありがとうございます、皇后陛下」
その目もとに、うっすらと、光るものがあった。
◇◇◇
ノエルに手を引かれて、私は大広間を出た。
長い白い廊下を、ふたりで歩く。婚儀の白いドレスの裾が、床をすべるように流れた。ノエルの長い影と、私の影が、壁の上で、ひとつに寄り添って伸びている。
「リリィ」
「うん、ノエル」
「……今日から、この宮で、ふたりで暮らすんだな」
ノエルが、ぽつりと言った。
皇太子宮。婚儀にあわせて改装の終わった、王太子ノエルの、新しい住まいだ。奥にはノエルの執務室もあって、これからは政務も暮らしも、この宮が中心になる。
これまでは、ちがった。呪いに狙われ続けるノエルを守るため、私たちは警備の都合で、陛下のお部屋のすぐ近くに、身を寄せ合うようにして暮らしてきた。王家総出で、ノエルを守る日々。それが、ようやく終わったのだ。ノエルは王太子になり、自分の宮を持った。
「うん。……長かったね、ここまで」
そう答えると、ノエルは、ふい、と目線をそらした。けれど、つないだ手に、ぎゅっと力がこもる。
ノエルの隣で眠るのも、もう、はじめてではない。陛下のお部屋のそばで身を寄せ合っていたころから、私たちはいつも同じ寝室で、隣り合って夜を過ごしてきた。だから、緊張なんて、しない。
それでも今夜は、なんだか、いつもとちがった。胸の奥が、くすぐったいような、照れ臭いような。
◇◇◇
玄関の扉を、近衛が両側から、頭を下げて開けてくれた。
中に入ると、ふわりと、甘い香りが漂う。お母さんの薬草園から摘んできた、白百合と薔薇。侍女のベアトリスとエミリアが、お部屋を、すっかり整えてくれていた。
「リリィ様、ノエル様。おかえりなさいませ」
「ありがとう、ベアトリス、エミリア」
ベアトリスに導かれて、私は私室で支度をした。エミリアが、白い絹のドレスを脱がせ、青いリボンをほどいてくれる。蜂蜜色の髪が、はらりと肩に落ちた。白い薄絹のねまきに着替えると、エミリアが、私の耳もとで、いたずらっぽくささやいた。
「リリィ。……今夜は、特別な夜よ」
「もう。エミリアったら」
頬が、かっと熱くなる。エミリアは、くすくす笑いながら、ベアトリスと一緒に、お辞儀をして出ていった。
◇◇◇
寝室の扉を、そっと開ける。
大きな天蓋付きのベッドのそばに、ノエルが立っていた。婚儀の正装は脱いで、白いシャツに着替えている。蒼い瞳が、まっすぐに、私を見つめた。
「リリィ」
「うん、ノエル」
扉を閉めると、ふたりきりになった。
ノエルが、長身で歩み寄って、私の顔を、両手で包む。大きくて、温かい手。毎朝の剣の稽古でできた剣だこの感触も、もう、すっかり馴染んでいた。
「長く、待った」
ノエルの低い声が、耳もとで響く。
「ようやく、お前が、俺の妻になった」
そう言うノエルの蒼い瞳が、ふだんより、ずっとやわらかい。私は、くすっと笑ってしまった。
「ふふ。なんだか、照れ臭いね」
「……ふん。お前が、言うな」
ノエルの耳が、ほんのり赤い。きっと、私の耳も、同じ色をしている。
◇◇◇
ノエルが、ゆっくりと身を屈めて、その唇を、私の唇に重ねた。
口づけを交わすのは、はじめてではない。婚約してから、幾度となく、こうして唇を寄せ合ってきた。けれど慣れたはずのその温もりが、今夜は、いつもより、ずっと深い。一度離れて、また重なって、だんだんと、息の継ぎ方さえ、忘れていく。
ようやく唇がほどけると、ノエルは、私の額に、こつん、とおでこを当てた。
「リリィ」
「うん」
「夢じゃ、ないんだよな」
「うん。夢じゃ、ないよ」
ふたりで、くすっと、笑い合った。
ノエルの長い腕が、私を、ベッドの上に、そっと横たえた。天蓋の白いレースが、四隅から垂れて、ふたりを、やわらかく包みこむ。
ノエルの指が、私の頬から、首すじへと、ゆっくりおりていく。薄絹ごしに伝わる手のひらの熱に、私は、ちいさく息をのんだ。剣を握るその硬い指先が、こわれものに触れるみたいに、たどたどしく動いている。
「ーー、リリィ」
ノエルの声が、かすれていた。
「お前を、……壊しそうで、怖い」
蒼い瞳が、暗くゆれている。長いあいだ呪いに蝕まれ、だれにも触れられずにきた人。その人がいま、こんなにもこわごわと、私に触れている。
私は、両手をのばして、ノエルの頬を包んだ。
「大丈夫だよ、ノエル」
そして、笑ってみせる。
「私、こう見えて、頑丈なの」
ホーニング村の野山を駆けまわって、十二の歳から、ノエルの看病を続けてきた。エルフとノースランド、ふたつの血を引くこの身体は、見た目より、ずっと、しなやかで強い。
ノエルが、ふ、と息をもらした。張りつめていた肩から、力が抜けていく。
「……ほんとうに、お前は」
そう言いかけて、ノエルは、私の首すじに、顔をうずめた。熱い吐息が、肌を、なぞる。
「リリィ」
「うん」
「ーー、俺の子を、産んでくれ」
それは、はじめての、お願いだった。いつも突き放すような物言いばかりのノエルが、生まれてはじめて、欲しいものを、私に口にした。自分の暗い血を未来へつなぐことを、こわごわと、けれどたしかに、私に託したのだ。
泣きたいくらい、うれしかった。
「うん、ノエル」
私は、ノエルの背に、腕をまわす。
「ノエルと、私の子を、産むよ。何人だって」
ノエルの腕が、私を、こわれるくらい、強く抱きしめた。
「リリィ。これから、ずっと」
「うん」
「ぜったいに、はなさない」
「うん、ノエル。私も、ずっと、ノエルのそばにいる」
言い終わるより早く、ノエルが、私の唇を、塞いだ。
さっきまでの、こわごわとした口づけとは、まるで違う。深くて、熱くて、息もできないほどの、キス。ノエルの腕が私の背にまわって、そのまま、ふたりして、やわらかなシーツの上に、倒れ込んだ。乱れた黒髪の隙間から見えるノエルの目は、もう、迷ってなんかいなかった。
天蓋のレースの向こうで、冬至の月が、白く、白く光っている。窓の外では、雪が、音もなく、降りつもっていく。
そのあとのことは、月と、雪だけが、知っている。
寝室には、ふたつの鼓動だけが、しずかに、重なっていた。




